修羅場
◇
ホテルを出る前、勇斗は私に一つだけ妙なことを言った。
『多分、大丈夫だと思いますよ? ホントに何か言われたら、美沙が何を悪いことしたのか、逆に聞いてみてください』
朝まで一緒にいて、あれだけ私の話を聞いたくせに、彼がくれたアドバイスらしいアドバイスはそれだけだった。
健吾が悪いとも、私が悪くないとも言わなかったし、別れたほうがいいとも言わなかった。ただ、何か言われたら聞いてみればいいという、あまりにも簡単なものだった。
それでも家が近づくにつれて、私はその言葉を何度も思い出していた。
朝六時半。玄関の鍵を開けると、昨夜消したはずのないリビングの明かりがついていて、テーブルには飲みかけのコーヒーが置かれていた。健吾は寝ていなかったらしい。
怒鳴られると思っていた。
ところが私を見るなり、健吾は少し疲れた顔で「お帰り」と言っただけだった。
「……ただいま」
「とりあえず座ろうか」
促されるままキッチンテーブルの椅子に座ると、向かいに腰を下ろした健吾は、昨夜のことをゆっくり話し始めた。
自分も言い過ぎたと思っていること。安土城のプラモデルについては、私が好きでやっていることまで悪い癖と決めつけた自分が悪かったこと。ただ、それとは別に、一緒に暮らしている以上、何も言わず朝まで帰らないのは違うと思うこと。これから結婚するつもりなら、お互いにもう少し責任を持たなければならないこと。
たぶん、健吾はちゃんと考えてくれたのだと思う。
私が家を飛び出したあと、一晩かけて考えて、感情的にならないように言葉まで選んでいるのだろう。昔から健吾はそういう人だったし、だから母も安心していた。
なのに、私は話を聞きながら、昨夜の勇斗を思い出していた。
ベッドではあんなに私の身体を求めてきたくせに、それが終われば何事もなかったように私の膝へ頭を乗せ、私が安土城の話を再開すると「それでそれで?」と続きをせがんできた。スマホをいじり始めたから聞いていないのかと思えば、突然「さっきのパンって何個くらい流れてくるの?」と、どうでもいいところを掘り返してくる。
何の役にも立たない話ばかりだった。
将来のためにもならないし、私を立派な大人にしてくれるわけでもない。
それなのに楽しかった。
ホテルを出た時には、朝の空気まで昨日とは違って感じられた。浮気をした女が何を清々しい気分になっているのだと思うけれど、胸の辺りにずっと詰まっていたものがなくなったように、身体が軽かった。
その感覚が、健吾の話を聞いているうちに少しずつ消えていく。
「それでさ、美沙ももう三十一なんだから、これからは俺が言うからやるんじゃなくて――」
――まだ続くんだ。
そう思った瞬間、自分でも驚いた。
昨日までなら、ちゃんと聞かなければと思っていた。健吾は私のために言ってくれているのだから、理解できなくても頷いて、あとで忘れてしまったら申し訳なく思っていた。
でも今は、椅子に座っていることさえ落ち着かない。
早く終わらないかな。
そんなことを考えながら指先でテーブルの木目をなぞっていると、昨夜別れ際に勇斗が言ったことを思い出した。
『何を悪いことしたのか、逆に聞いてみてください』
試してみたくなった。
「ねえ、健吾」
「ん?」
「話はわかったけど結局、今回私は、何を悪いことしたの?」
健吾の話が止まり、あまりにも単純な質問に、なぜか驚いた顔をしている。
「いや……だから今それを説明してるんだろ?」
「うん。だから、何?」
「何って、まず何も言わずに出ていって、連絡もしないで朝まで帰ってこなかっただろ。一緒に暮らしてるんだから、相手が心配するとか――」
健吾はまた説明を始めた。
聞こうとはした。本当に聞こうとしたのに、心配という言葉を聞いたところで昨夜のLINEを思い出し、そこから勇斗が勝手に送った《帰りたくありまテ〜ン》を思い出してしまった。そういえばあの文章は何年前のギャグなのだろうと考え始めたところで、健吾の話はもう別のところまで進んでいた。
慌てて追いかけようとしたけれど、今度は結婚、生活、責任、常識という言葉が次々に出てきて、どこから分からなくなったのかさえ分からない。
「……ごめん。やっぱり分かんない」
「何が?」
「健吾が言ってること。お母さんに『この子は昔からだらしないところがあるから』って言われた時、任せてくださいって言ってくれたじゃん。あれ、私すごく嬉しかったし、実際に三年間いっぱい助けてもらったから、健吾は私のこと分かってくれてるんだと思ってたよ!!」
「分かってるよ。だから俺は――」
「でも昨日のお城は違うの。洗濯物を忘れたり、スマホ失くしたりするのとは、なんか違う」
「何が違うんだよ」
「分かんないから困ってるんじゃん」
自分でも説明できないことを健吾に分かれと言っているのだから、面倒くさいと言われても仕方がないのかもしれない。それでも、昨日までなら「悪い癖」と言われれば素直に頷けたのに、今はどうしても同じようには思えなかった。
「私だって直したほうがいいところがいっぱいあるのは分かってるよ。でも、全部同じにされたくないっ」
「全部同じになんかしてないだろ」
「じゃあ、どれが悪い癖で、どれが私なの!? 健吾はすぐ私のためって言うけど、常識とか責任とか将来とか、そういう話をされても私、途中から分かんなくなるの。ちゃんと聞かなきゃって思ってるよ? でも気づいたら全然違うこと考えてて、また聞いてなかったって怒られて……」
「それは美沙がちゃんと聞こうとしないからだろ!」
「聞こうとしてるよ!聞こうとしてるのにできないから言ってるの!」
そこまで言って、昨夜の勇斗を思い出した。
あの男は、私が何の話をしているのか分からなくなっても笑っていた。それどころか一緒になって脱線して、十分前の話を突然拾ってくるような人だった。
常識なんて、たぶん健吾の半分もない。
「だから私、その常識すらなさそうな男と浮気してきたの! ナンパされて!」
そこまで一気に言ってから健吾を見ると、さっきまで私の言葉に被せるように言い返していたのが嘘みたいに、口を半分開けたままこちらを見ていた。
「…………あれ? 今、私なんて言った?」
「おまっ……ナンパ!? 浮気!?」
「いや……今のは、その……」
「浮気してきたって言ったよな!?」
言い間違えたことにできないかと考えたけれど、昨夜のことをどう思い返しても無理がある。
「……言いました」
「誰だよ、その男!」
名前なら分かる。水樹勇斗。名刺も貰った。
ただ、そこから先が何も出てこない。仕事を聞けばタイヤを拾って祖国に売っていると言い、住んでいる場所は橋の下。朝まであれだけ私の話を聞いていたくせに、自分のことはほとんど何も話さなかった。
「水樹勇斗って人。仕事は……遊び人?」
「はあ!? 何だよそれ!」
「本人がそう言ったの! 私だってそれしか知らないんだもん!」
「知らない男と浮気したのかよ!?」
健吾は腰に両手を当てたまま私から目を逸らし、何度か大きく息を吐いた。怒鳴り返されると思っていた私は身構えていたけれど、健吾は何も言わずにリビングを歩き、途中でまた戻ってくる。
こんな健吾は見たことがない。
「……それに……はあ? 遊び人?」
ようやく出てきた言葉がそれだった。
「うん……」
「何だよ、遊び人って。お前、そんな奴にナンパされて、そのままホテル行ったの?バカじゃねーの?」
さっきまで私が何を言ってもすぐに返していた健吾が、今は一つずつ確認しないと話が進まなくなっている。
「いや、本人が仕事は遊び人だって……」
「そういうこと聞いてんじゃねえよ!」
そりゃそうだ。
「職業聞いたら、タイヤ拾って祖国に売ってるんだって。日本人なのに! 得意なこと聞いたら『お姉さんのお話を聞いてあげること』って言うし、住んでるところ聞いたら橋の下! 何聞いたってまともな答えなんか返ってこないし、遊び人だって自分で言ってたんだ!」
「美沙……何言って――」
「でも楽しかった!」
それを口にした途端、さっきまで自分でも何を言いたいのか分からなかったのに、そこだけは妙にはっきりした。
「私が安土城の話しても、パンの話しても、途中で全然違う話になっても、あの人ずっと聞いてた。私が『ごめん、また話変わった』って言っても、何で謝るのって言ったの」
「城やパンの話を聞くやつなら誰とでも浮気するってことか!?いくつだと思ってんだよ?」
「健吾の話が大事なのも分かってる。課長になったのもすごいと思うし、貯金とか家とか結婚とか、そういうこと考えてくれてるのも分かってるよ」
「浮気したやつが、いい話に持ってこうとするんじゃねー。今その話をしてないだろ!」
「そうだね!また間違えました。でも健吾は、全然面白くない!」
昨夜から今朝までにしたことの中で、一番取り返しのつかない言葉だったのかもしれない。
健吾は物凄い形相で震えて私を見ている。
それなのに口にした途端、ホテルを出た時に感じた、あの身体が軽くなるような感覚がほんの少しだけ戻ってきた。
◇
パン工場の仕事を終えて家に帰ると、玄関には見慣れたものも含めて靴が何足も並んでいた。健吾の革靴だけならいつものことだが、その横には彼のお父さんが履いている黒い靴があり、さらに母のベージュのパンプスまで見つけたところで、私は開けたばかりのドアをそっと閉めた。
このままクルリと回れ右をして駅まで戻り、昨日もらった名刺のLINEに《今どこ?》と送ってみる。どうせ勇斗なら《橋の下》とでも返してくるだろうから、《どこの橋だよ》と聞きながら歩いていけばいい。
そんなCMほどの短い映像が頭の中を流れたが、自分がしでかしたことなのだから、さすがにそうはいかない。
「……入るかぁ」
もう一度ドアを開けてリビングへ向かうと、予想した通り健吾の両親と私の両親が揃っていた。テーブルには人数分のお茶まで用意され、その中央に健吾が座っている。これから結婚の挨拶でも始まりそうな光景なのに、話し合われているのは昨夜、私がナンパしてきた男とホテルへ行ったことだった。
当然、居心地がいいわけがない。
ところが覚悟して椅子に座ってみると、話は私が想像していた方向には進まなかった。
「若いうちは色々ある。これから夫婦になれば、もっと色んなことがあるんだから」
そう言った健吾のお父さんが見ていたのは、なぜか私ではなく健吾だった。
「今回のことは大目に見なさい。許すことも家族には必要だぞ。向こうのご両親だって、こうして来てくださっているんだから」
そのたびに私の父と母が「本当に申し訳ありません」と頭を下げ、健吾のお母さんまで「私たちは美沙ちゃんのこと、本当の娘になる子だと思ってるんだから」と庇ってくれる。
もちろん私も謝った。浮気したのは私なのだから、そこについて言い訳するつもりはない。ただ、何度目かの「ごめんなさい」を口にした頃から、自分が何について謝っていて、みんなが何を解決しようとしているのか、少しずつ分からなくなってきた。
私が知らない男についていって浮気をした。健吾は浮気をしていない。それなのに健吾のお父さんは息子へ許すように言い、健吾のお母さんは私を庇い、私の両親は二人へ頭を下げ続けている。
そして最後には、ずっと黙っていた健吾まで私を見て言った。
「美沙、今回のことは僕も悪かった」
その一言で、それまで張りつめていた部屋の空気が嘘みたいに緩んだ。
「そうだ。それでいい」
健吾のお父さんが満足そうに頷き、お母さんも安心したように笑う。私の母は「本当にありがとうね」と健吾へ頭を下げ、父まで「これからも美沙をよろしくお願いします」と続けたので、どうやらこれで話は円満に収まったらしい。
私も周りに合わせて頭を下げながら、たぶん世の中というのはこうやって回っているのだろうと思った。
会社でも似たようなことはある。誰かがミスをすれば本人だけではなく班長も謝り、どうして起きたのかを話し合って、次からどうするのかを決める。誰か一人を徹底的に悪者にするより、お互いに悪かったところを見つけて、謝って、許して、それからまた同じ場所でやっていく。そのほうが人間関係は壊れないし、家族ならなおさらそうなのだろう。
きっと健吾も、両親たちも、それが分かっている。
昔からそういうことがよく分からず、周りを困らせてきた私より、ずっとちゃんとした大人たちなのだと思う。
なのに、どうしてだろう。
みんなが納得しているのに、私だけが全然納得できない。
だって今回は、どう考えても私が悪い。彼氏と喧嘩して家を飛び出し、声をかけてきた知らない男についていき、そのままホテルへ入って浮気までして朝帰りした。文字にして並べれば、とんでもない女だ。
だったら健吾は怒ればいいし、それでも許すというのなら、許してくれればいい。
なのにどうして、最後には健吾まで「僕も悪かった」と言わなければ、この話は終われなかったのだろう。
考え始めると、さっきまで自分の中で収まりかけていたものが、またモヤモヤと膨らんできた。
そして、そんな時に限って思い出すのが勇斗だった。
昨夜のあの男は、私が何を話しても答えをくれなかった。健吾が悪いとも言わなければ、私が正しいとも言わず、朝まで散々話を聞いた末にくれたアドバイスといえば、《何か言われたら、自分が何を悪いことしたのか聞いてみればいい》という、それだけだった。
結局その通りに聞いてみても、私にはよく分からなかった。
リビングではいつの間にか空気がすっかり和らぎ、母と健吾のお母さんはこれからのことまで話し始めている。どうやら私の人生は、知らないうちに昨日までの場所へ綺麗に戻されたらしい。
それなのに私は、テーブルの下でバッグに触れながら、中にしまってある白い名刺のことを考えていた。
《水樹 勇斗》
浮気した大悪党は私のはずなのに、どうして私だけがこの円満な結末に納得できないのだろう。
その理由を――あの常識の欠片もなさそうな男に聞いてみたくなった。




