浮気
「お姉さん、すいませ〜ん」
家を飛び出してからどれくらい歩いただろう。突然背後から男の声が聞こえたものの、三十一歳の私を「お姉さん」と呼んでいるとは思わず、そのまま歩き続けていると、もう一度「お姉さん、お姉さん」と呼ばれた。
(いや、お姉さんではないし……って、私?)
振り返ると、栗色の髪にゆるくパーマをかけた男が追いついてきた。歳は私と同じくらいか少し下だろうか。サルエルパンツに、夜の街では少し目立つ柄物のシャツを合わせていて、顔立ちが特別整っているというより、髪も服も含めて妙に人の目に残る雰囲気をしている。
勧誘か、詐欺か、それともまさかのナンパかと身構えたのに、男は私の顔より周囲をキョロキョロ見回しながら、両手を五十センチほど広げた。
「この辺に、これくらいの子どもを見ませんでしたか?」
「五十センチくらいの?」
「そうっ!そのくらいの子ども!」
そんな小さな子どもが夜の街を一人で歩いていたら大事件だと思うが、見ていないものは見ていない。
「いえ、見てませんけど」
「あれ、おかしいな。その子がお姉さんの落とし物を拾って、こっちに向かったんですけどね」
「私の?」
反射的にバッグへ手を入れた。財布もスマホも鍵もある。今日は家を飛び出してきたせいで何を持って出たのか自信がなくなり、もう一度財布から確認していると、男が「あっ」と声を上げた。
「これです」
差し出されたのは、あの《ヨっちゃんイカ》だった。
「……違います」
「大丈夫ですよ。僕も好きなんですけど、人に知られるのはど〜もね。ささっ!恥ずかしがらずにどうぞ」
「ホントに私のじゃないです」
「誰にも言いませんから〜♪」
そこから五分ほど、私は見知らぬ男とヨっちゃんイカの所有権について話し合うことになった。今考えれば、その時点で立ち去ればよかったのだと思う。
ところが「僕喉乾いちゃった、お姉さん喉乾きません?」と聞かれ、私もちょうど何か飲みたいと思っていたので頷くと、「じゃあちょっとだけ」と歩き始めた男について行ってしまった。
ナンパかな?と薄々気づき、てっきり洒落たバーにでも連れて行かれると思っていたのに、気づけばただのファミレスのテーブルを横に並んで座っている。
(なんだろう……この人)
自分でも、どうしてここにいるのかよく分からない。
男はドリンクバーから毒々しい緑色のメロンソーダを持って戻ってくると、ストローで氷をカラカラ鳴らしながら、私が夜中に一人で歩いていた理由を聞いてきた。
「そっかー。お姉さんは彼氏と喧嘩して、夜歩いてたんだね?」
結婚まで考えている彼氏と喧嘩して家を飛び出したなんて話をすれば、「彼氏がいるなら帰りなよ」と言われるか、逆に「そんな彼氏やめちゃえば」とでも言われると思い、少し身構えた。
けれど男はメロンソーダを一口飲むと、妙に納得した顔で頷いた。
「分かるなー! 僕なんてそれがしたくて橋の下に住んでるからね。夜出歩くために」
「はあ? なにそれ」
思わず笑ってしまった。
それからも、ずっとそんな調子だった。私が何を話しても、この男は予想したところへ話を持っていかない。健吾と喧嘩したと言っても彼の悪口を言わず、私を慰めもしない。それなのに、喧嘩の原因になった安土城のプラモデルには、なぜか妙に食いついた。
「安土城? なんで城?」
「私も最初は別に好きじゃなかったんだけど、模型屋で箱を見たら急に作りたくなって。それで調べたら、実際の天主がどんな姿だったのか分からないところもあるらしくて――」
「えっ、待って。分かんないのにプラモデル売ってんの?」
「そうなの! 復元案がいくつもあってね――」
写真まで見せながら天主の話をしていたはずが、いつの間にか織田信長の話になり、そこから何をどうしたのか職場で焼いているパンの話にまで飛んだ。自分でも途中で何の話をしていたのか分からなくなって、「あれ、なんだっけ」と笑うと、男は呆れるどころか「信長がパン工場に就職したところ」と適当なことを言って続きを促してくる。
男は私の話を整理してくれないし、結論も求めてこない。それどころか、私が脱線するたびに一緒についてきて、忘れた頃にさっきの話を拾い直す。何度か「ごめん、また違う話しちゃった」と謝ったが、そのたびに男は不思議そうな顔をした。
「なんで謝るの?」
「だって、話がコロコロ変わるから」
「それは悪いことなの?」
褒められたわけでもなければ、「そのままでいい」と優しく慰められたわけでもない。ただ、本当に何が悪いのか分からないと言われただけなのに、その言葉は妙に胸に残った。
二十分ほど経った頃には、初対面の男と二人でいることさえ少し忘れていた。
「ここ騒がしいね。近くに二人で静かに話せるところあるから行こうよ」
「カラオケ?」
「そうそう!カラオケ」
静かに話せるカラオケがある……その説明自体は嘘ではなかったらしいが、男が立ち止まった建物の入口には、どう見てもカラオケ店には見えない派手な写真と料金表が並んでいた。
「……ホテルじゃん」
呆れて横を見ると、それまでヘラヘラしていた男が急に真剣な顔になった。
「美沙」
「なに?」
「中に入っても、変なことしないでくださいね」
(私のセリフだわ!)
そう思ったはずなのに、しばらくすると私は名前すら知らない男と同じベッドに横になっていた。
少し前まで他人だった男がすぐ隣にいて、シーツから漂う柔軟剤のような匂いに、彼が飲んでいた酒の甘い匂いが混じっている。名も知らない男と浮気しているという事実だけを頭の中で言葉にしてみても、あまりに自分らしくないことをしているせいか、妙に現実感がなかった。
枕元に置いたスマホを手に取ると、健吾から何件もLINEが届いていた。《どこにいる》《いつもそうだ》《また衝動的に動いて》と通知が並んでいるのを見た瞬間、さっきまで遠くにあった現実だけが急に戻ってくる。
(うわぁぁ……どうしよう)
見なかったことにしようとバッグへ戻しかけた瞬間、横から手が伸びてスマホをさらわれた。
「ちょ、ちょっと!」
男の指がものすごい速さで画面を動き、数秒後には何事もなかったようにスマホが返ってくる。
「なに送ったの?」
嫌な予感しかしなかった。
画面には、『今日は帰りたくありまテ〜ン』という、いつの時代なのか分からない文章と、中指を立てた絵文字が五つ並んでいる。
「あのね? 私が怒られるんだからね?」
「怒られる?なんで?」
「そりゃ……こんなLINE送ったら激ギレするよ」
男は本当に意味が分からないらしく、少し考えてから首を傾げた。
「激ギレしてるの、美沙なのに? 安土城バカにされて怒って家出したの、美沙のほうでしょ?」
「……だよねえ?」
口に出した瞬間、自分でも妙に納得してしまった。
私は怒っていたのかもしれない。家を出た時には、それすら自分でよく分かっていなかった。
そこから何をどう話したのか、全部は覚えていない。ただ、気づけばカーテンの隙間から朝の白い光が漏れ始めていた。
一度話し始めると次々に別のことを思い出し、話題があっちへ行ったりこっちへ行ったりして止まらなくなるのは、昔から私の悪い癖だった。
けれど、その夜はこの男も大概で、私の膝を枕にして寝転がったかと思えば突然起き上がって冷蔵庫を開け、「飲む?」と缶のお酒を差し出し、飲み始めたかと思えば今度はスマホで何かを調べながら「続けて、続けて」と手だけを振る。聞いていないのかと思えば、十分も前に私が話したことを突然拾い上げて、細かいところを聞いてくる。
だから、話がなかなか終わらなかった。
いつの間にか私ばかり喋っていることに気づき、さすがに申し訳なくなって男のことも聞いてみた。
「仕事は何してるの?」
「タイヤ拾って祖国に売ってる」
「はあ?どこの国の人?」
得意なことを聞いても、「お姉さんのお話を聞いてあげること」と笑うだけ。住んでいる場所を聞けば橋の下だと言うし、何を聞いてもまともな答えが返ってこない。
結局、朝まで一緒にいたのに、私はこの男のことをほとんど知らなかった。
なのに、不思議と疲れていなかった。
健吾が課長になって活躍している話も、何歳までにいくら貯めて、いつ頃家を買って、結婚したらどう暮らしていくかという話も、きっと大切なのだと思う。ちゃんとした大人なら、そういう未来のことを考えて生きていくのだろう。
でもその夜は、安土城の屋根が何色だったのかとか、パン工場でクリームパンが流れてくるのを見ていると時々全部違う顔に見えるとか、昔三日だけ夢中になった苔玉の話とか、そんな何の役にも立たない話をしているほうがずっと楽しかった。
何より、この人は一度も私の話を終わらせようとしなかった。
話題が変われば「今度は何?」と面白そうに聞き、私が自分で「また始まった」と思うような話にまでついてくる。朝まで喋り続けてしまったのは、私の悪い癖だけが原因ではなかったのかもしれない。
ホテルを出ようとエレベーターに乗り、一階へ着いたところで扉が開いた。外から朝の白い光が差し込み、眩しさに目を細めた瞬間、男が不意にこちらへ顔を寄せてきた。
唇に柔らかな感触が触れ、何が起きたのか理解した頃には、男はもう離れていた。
「えっ?」
ホテルへ入った時よりも、同じベッドにいた時よりも、その不意打ちのキスのほうが妙に恥ずかしく、私は男の顔をまともに見られなくなった。
そんな私の手に、小さな白い名刺が押し込まれる。会社名も肩書も住所もなく、書かれているのは名前とLINEのIDだけだった。
「これじゃ仕事とかわかんないじゃん」
「僕の仕事なんて、さっき見てたじゃん」
「何?」
「遊び人」
男は悪びれもせず笑った。
「興味あったら、またかけてね」
そう言ってもう一度唇を重ねてきた今度のキスは、さっきより少しだけ長かった。
何か言わなければと思っているうちに、男は私より先にホテルを出て、そのまま朝の街へ消えていった。私はしばらく入口に立ったまま、手の中に残された名刺を眺めた。
《水樹 勇斗》
朝まであれだけ私の話を聞いていたくせに、自分のことはほとんど何も教えてくれなかった男。
遊び人だと言っていたのだから、きっとこういうことにも慣れているのだろう。私だって、一晩だけのことにしてしまえばいい。
そう思いながら名刺をバッグへしまった。
捨てようとは、なぜか思わなかった。




