プロローグ〜事件
※注 この物語の主人公・美沙には、ADHDという特性があります。
ただ、それについて難しく考えず、一人の少し変わった女性の恋愛のお話として読んでいただければと思います。
あなたには、美沙がどんな女性に見えるでしょうか。
それでは、少しだけ彼女の日常にお付き合いください。
私の日常はいつもそうだ。
朝、目を覚ますと、キッチンからコーヒーの匂いが漂ってくる。三年間一緒に暮らしている健吾はもう起きているらしく、カーテンの隙間から差し込む朝日を避けるように寝返りを打ったところで、鼻先に甘ったるいバニラの匂いを感じた。
枕元には、昨夜コンビニで買ったアイスの棒が転がっている。夜中の一時頃、急に甘いものが食べたくなって、冷凍庫に残っていた最後の一本を食べたところまでは覚えている。
なんでここに置いたんだろう。
スマホを手に取ると七時十二分になっていて、慌てて洗面所へ向かった。歯を磨きながら寝癖のついた髪を手櫛で直していると、柔軟剤が混じる湿った布の匂いが鼻についた。
「あっ……」
昨夜、洗濯機を回したんだった。蓋を開けると、やっぱり洗濯物は一晩入ったままになっている。
「美沙、今日ゴミの日だからな」
「分かってるー」
キッチンから聞こえた健吾の声に返事をしたけれど、言われるまですっかり忘れていた。洗濯機をもう一度回して化粧を済ませ、玄関脇のゴミ袋を掴んだところで、今度はスマホがないことに気づく。
「スマホ知らない?」
「洗濯機の上」
「あった!」
「美沙、もう七時半だぞ」
「えっ、嘘!」
ゴミ袋とバッグを抱えて家を飛び出す。特別今日が慌ただしかったわけではなく、私の朝は大体いつもこんなものだった。
パン工場での仕事も似たようなもので、何年もやっているのにパンの向きを間違えたり、数を確認している途中で別のことが気になって最初から数え直したりして、たまにラインを止めてしまう。
「美沙ちゃん、また?」
「ごめんなさーい!」
大きな失敗をするわけではないけれど、私は昔から、こうやって少しずつ人をガッカリさせるのが得意だった。
私の両親に健吾を紹介した時も、母は「この子は昔からだらしないところがあるから」と私の失敗談を楽しそうに話していた。その隣で「任せてください」と笑った健吾のことを、私は頼もしいと思った。
実際、三年間一緒に暮らす間に何度も助けてもらっている。忘れていることを教えてくれるのも、失くしたものを一緒に探してくれるのも健吾だったから、私はなんとなくこのまま結婚するのだと思っていた。
◇
仕事を終えて家に帰る頃には、髪にも服にも焼きたてのパンの匂いが染みついている。シャワーを浴びて夕飯を済ませると、私は数日前に仕事帰りのイオンで見つけた安土城のプラモデルをテーブルに広げた。
それまで城なんて特別好きでもなかったのに、箱に描かれた黒と金の天主を見たら、なぜか作ってみたくなった。
昨日の続きから屋根を塗っているうちに、前に見た復元図との違いが気になった。スマホで調べてみると、同じ安土城なのに天主の色から屋根の形まで違う復元案がいくつも出てくる。
どれが本当なんだろう。
一つの記事を読めば別の説が気になり、天主の構造を調べているうちに、今度は信長がどうしてこの場所に城を建てたのかが気になった。そこから城下町の復元図を見つけると、当時ここで暮らしていた人たちには、この巨大な城がどう見えていたのかまで知りたくなる。
気になったことを調べては模型へ戻り、また別のことが気になってスマホを見る。そのうち何を調べるためにスマホを手に取ったのかも分からなくなっていた。
「美沙」
呼ばれて顔を上げると、いつの間にか健吾が私の前に立っていた。
「なに?」
「まだそれやってんの?」
夕飯の皿はいつの間にか片付けられ、テレビでは知らないドラマが始まり、窓の外も真っ暗になっている。時計を見ると二時間近く経っていた。
「えっ、もうこんな時間? 全然気づかなかった。あっ、見て、ここ。昨日より結構よくなったと思わない?」
綺麗に塗れた屋根を見せようと安土城を持ち上げたけれど、健吾が見ていたのは城ではなく、テーブルいっぱいに広がった塗料や工具だった。
「また随分増えたな」
「だって、最初に入ってたやつだけじゃ色が全然足りないんだもん。あとね、これ調べてたら安土城って実際どういう色だったのか分かってないところもあるんだって。それで復元案が何種類かあって――」
「また始まったか……」
「……何が?」
「美沙、一回ハマるとそればっかりになるだろ。この前だってそうだったじゃん」
少し前には観葉植物に夢中になって鉢や土まで買い込み、その前には突然韓国語を覚えようとして教材を何冊も揃えた。どちらも今ではあの頃ほど夢中にはなっていないから、いつもなら私も『またやっちゃったね』と笑っていた。
「どうせそれも、そのうち飽きるんだからさ。そうやって一個のことしか見えなくなるの、悪い癖だよ」
今日も「そうだね」と言えば、それで終わるはずだった。でも、なぜか言えなかった。
「……これも悪い癖なの? お城を作るのも」
「城を作ることじゃなくて、そうやって極端になるところだよ」
「でも、今はこれが楽しいんだけど――」
「楽しいのはいいけどさ、美沙ももう三十一だろ? もうちょっと何事もほどほどにするっていうか、落ち着いたほうがいいんじゃない?」
私は安土城へ目を戻した。さっきまで綺麗に塗れた屋根を見て嬉しかったのに、健吾に言われた途端、テーブルに広げた塗料も、スマホに開いたままの記事も、二時間も小さな城に夢中になっていた自分も、三十一歳にもなって子供みたいなことをしている証拠に見えてくる。
洗濯物を忘れたり、スマホを失くしたり、仕事で誰かの手を止めたりするところは直したほうがいい。それは私にも分かっている。でも、これは自分のお金で買って、誰かを困らせたわけでもない。ただ面白くて、知らないことが出てくるたびにもっと知りたくなっただけなのに、それまで直さなければいけないのだろうか。
「じゃあ……どこまで直せばいいの?」
「は?」
「洗濯物忘れるのも、スマホ失くすのも、時間ギリギリになるのも直したほうがいいのは分かるよ。でも、これも直すの?」
「だから、そういう意味じゃなくて」
「じゃあ、どういう意味?」
今日だって健吾にはゴミの日を教えてもらったし、スマホの場所も教えてもらった。今までだって何度も助けてもらっているから、いつもなら「ごめん」と言えば終わる。でも今日は、その一言を口にしたら、洗濯物を忘れることも安土城に夢中になることも、全部まとめて同じ「私の悪いところ」にしてしまう気がした。
「私、ちゃんとしようとしてるよ」
「分かってるよ」
「でも、何かするたびに悪い癖って言われたら、私のどこまでが悪い癖なのか分かんないよ」
「美沙、面倒くさいって。別に全部直せなんて言ってないだろ」
さっきまで気にもならなかったテレビの音やエアコンの風が妙に気になり始めた。目の前には塗料や工具が広がり、スマホには夢中になって読んでいた安土城の記事が開いたままなのに、もう続きを読みたいとは思えなかった。
「……ちょっと出てくる」
「はあ? 今から?」
財布とスマホだけバッグに入れ、玄関へ向かう。
『またそうやって思いつきで動く!』
健吾にそう言われた気がして振り返ったけれど、健吾は何も言っていなかった。
外へ出ると、昼間の熱を残した空気が肌にまとわりついた。マンションの廊下にはどこかの家から夕飯の匂いが漂い、道路へ出れば車の音に混じって駅前のざわめきが聞こえてくる。
行く場所なんてないし、健吾に酷いことをされたわけでもない。浮気されたわけでも、怒鳴られたわけでもなく、今日言われたことだって、いつもなら私自身が「そうだね」と笑っていたようなことだ。
それなのに、今日は家へ戻りたくなかった。
私は行き先も決めないまま、駅の明かりが見えるほうへ歩き出した。




