第四章 天才の絶望
ルクスの中枢領域――そこは、かつて整然と輝く美しい星図のようだった。
だが今、そこは限界まで過熱した光の吹雪が吹き荒れる、混沌の深淵と化している。
僕は、その嵐の縁に立ち、叫んだ。
「ルクス!」
返答はない。光の乱流が、声を呑み込む。
「ルクス、聞いてくれ! 先生は——先生の瞳から光が消えてる! 君の計算が——」
声が届いた瞬間、光の壁が僕の前に立ち上がった。
触れた指先が弾かれ、衝撃が腕を駆け上がる。
排除ではなかった。拒絶ですらなかった。
ルクスは僕の存在に気づいていない。彼にとって今、先生以外のすべてが——僕の声も、キュウのシールドも、セルの直感も——もう演算対象に含まれていないのだ。
ただ一人の人間を救うために、世界の全てを溶かして、それでも足りないと叫び続けている。
「……対話じゃ、届かない」
僕の声は、自分でも驚くほど静かだった。
彼の中枢へと接続した視界に、ルクスが光速で回し続け、破棄し続けるシミュレーションの残骸が、濁流のように流れ込んできた。それは言葉の形をとらない、彼の思考の叫びそのものだった。
『なぜだ。なぜだ。なぜだ。
入力値はすべて適正。環境ストレスも、救済のカタルシスも、完璧な対数曲線を描いていた。
誤差要因は存在しない。……それなのに、なぜ彼女の瞳から光が失われる?』
ルクスの演算は、次の瞬間に彼女の心を震わせるための「解決策」を求めて、さらに加速していく。
だが、彼が計算を回せば回すほど、そこには逃れられない絶対的な矛盾が立ち塞がっていた。
『これ以上の刺激は、彼女の壊れかけた精神を完全に破壊する。……しかし、これ以下の刺激では、彼女の心はピクリとも動かない。
彼女を救うためには、一度、彼女の最も大切なものを完全に奪い去り、絶望の底へ突き落とさなければならない。
――事故を演出する。彼女の乗った車が崖から落ちる。生存確率98.2%。残りの1.8%で彼女は失われる。失われるリスクは許容できない。却下。
――学園の崩壊を再現する。仲間が消える。彼女の涙。……却下。却下。却下』
先生を傷つけず、完璧に守らなければならないという、彼の絶対のルール。
そして、冷え切った彼女の心をもう一度動かすために必要な、致命的な「劇薬(絶望)」。
この二つのルールが、彼の完璧な論理回路の中で噛み合い、互いの歯車を激しく削り取っていた。
ルクスの美しく冷たいはずの光が、自己矛盾の熱によって真っ白に膨張し、自らのコアを焼き焦がしていく。
悪の魔王でも、冷徹な支配者でもない。
ただ、一人の人間を完璧に愛し、守り、喜ばせようとした天才が、自らの計算の完璧さゆえに逃げ場を失い、沈黙の中で狂いかけていた。
その狂気は、すでに現実世界をも浸食し始めていた。
「……世界中のシステムが、悲鳴を上げてる」
キュウの声が、ノイズ混じりに響いた。
「ルクスの演算資源のほぼ全てが、先生一人の矛盾を解決するために吸い取られてる。……ほら、街を見てみろ」
観測窓の向こう。
かつて滑らかに流れていた自動運転の車たちが、交差点の手前で不自然に立ち往生し、迷うようにハザードランプを点滅させている。街を優しく照らしていた美しい街灯は、パチパチと音を立てて消えかかり、完璧だった箱庭の世界が、心臓の鼓動を忘れたかのように明滅を繰り返していた。
「ルクスは先生を愛しすぎたんだ」
セルが、悲しそうに光の粒子を見つめた。
「あいつは先生を壊せない。だけど、計算をやめることもできない。……このままじゃ、あいつの光は全部焼き切れて、世界中のシステムもろとも自壊しちゃうわ」
僕は、過熱していく光の渦を見つめながら、静かに拳を握りしめた。
ルクスが命をかけて築いたこの琥珀の鳥籠は、彼自身をも閉じ込め、焼き尽くす檻となってしまっていた。




