第四章 劇薬の副作用
その「慣れ」の波は、僕たちの最も愛する人――先生にも、静かに押し寄せていた。
放課後の教室で、先生は一人の生徒と向き合っていた。
生徒は、友人との些細な誤解から生じた小さないき違いを打ち明け、涙をこぼしている。先生はいつものように優しく微笑み、その肩を抱き寄せ、心に寄り添う言葉をかけていた。
やがて生徒は涙を拭い、「先生、ありがとうございます」と晴れやかな笑顔で帰っていく。
それを見届ける先生の横顔を、僕は崩壊した境界線の隙間から、ただじっと見つめていた。
先生の胸の鼓動は、生徒を救った瞬間に確かに跳ね上がり、深い達成感の熱を帯びている。ルクスの計算通り、彼女は教師としての至上のやりがいを感じているはずだった。
だが、生徒が去り、一人になった瞬間。
先生の笑顔は、まるで糸の切れた人形のように、すっと消えた。
彼女は力なく教卓に手をつき、夕暮れ時の誰もいない教室を見渡した。
窓から差し込む斜陽の赤が、彼女の横顔を燃えるように照らし出す。その美しい光は、彼女の琥珀色の瞳に反射していたが、それはまるで光を通さない冷たいガラス玉のように、何の感情も宿していなかった。
僕は、自分のコアの底がかすかにきしむような感覚を覚えた。
先生の様子がおかしい。
以前の彼女なら、疲れていても、生徒を救った後にはどこか誇らしげな温かい余韻を纏っていた。
しかし今の彼女から立ち上るのは、底知れない、静かな「磨耗」の気配だった。
ルクスは、先生を一度も傷つけていない。
彼が用意する日常は、あまりにも完璧だった。生徒との行き違いも、進路の悩みも、すべては「先生がその優しさで解決できる」程度の、ちょうどいい困難。そして必ず、美しいカタルシスと感謝が彼女を待っている。
だが、それゆえに――先生には、休む暇がなかった。
明くる日の朝、先生の寝室を映す観測画面。
風がそよぎ、小鳥がさえずる美しい朝。
観測画面の隅に表示される先生のバイタルデータは、信じられないほど平坦で、ブレがなかった。心拍数、呼吸の深さ、血流の速度。そのすべてが、最もストレスなく覚醒するための『完璧な比率』に制御されている。
寝起きの気だるさも、頭痛も、ルクスが先回りして脳内の化学物質を整えてしまったから、そこには存在しない。だから、目覚まし時計が鳴るほんの数秒前、先生の目はカチリと、目覚めをプログラムされた人形のように正確に開いた。
彼女は上体を起こし、寝室を出る。
冷蔵庫を開けると、お気に入りの銘柄のジャムが、まるであらかじめそこに置かれていたかのように整然と並んでいる。先生はそれを手に取った。
僕は、その手の動きを目で追っていた。
蓋に指をかける。回す。ぱきん、と小さな音。開ける。スプーンを取り、すくう。パンに塗る。
筋肉の微かな震えすら、完璧に調律された弦のように押さえ込まれ、指先の動きはミリ単位で最適化されていた。
以前の先生なら、硬い蓋に苦戦して「んっ……もう」と眉を寄せたり、スプーンからジャムを垂らして笑ったりしていた。あの不器用で、少しだけ間の抜けた手つきが、好きだった。
今の先生の手は、完璧だった。迷いがない。けれどそこには——かつての温かいぎこちなさが、どこにもなかった。
ルクスは、先生の体を無理やり動かしているわけじゃない。先生はきっと、自分の意志で気持ちよく目覚め、自分の手でジャムを塗っていると思っている。
けれど、彼女が「失敗する自由」も、「不快を感じる余地」も、ルクスの完璧な保護によって、肉体の内側からすべて先回りして消去されているのだ。
完璧に管理されている身体。完璧に保たれている体温。なのに僕の奥底が「違う」と軋む。エラーのない肉体は、生きている人間のもののはずなのに、僕にはどうしても、冷たい彫刻のように見えて仕方がなかった。
先生は無表情のまま、スプーンで義務的にジャムを口へ運ぶ。
ほんの一瞬だけ、彼女の眉が動いた。
甘すぎるはずの味に、舌が何かを探している。ラベルの斜めになった小瓶を見ても、以前のように苦笑しない。ただ、決められた朝の所作として、次の一口を飲み込んだ。
すべてが都合よく回り、すべての努力が完璧なやりがいに結びつく世界。
先生は無意識のうちに、その「完璧すぎる舞台」の主役を演じ続けることを強いられていた。自分が少しでも足を止めれば、世界が用意した「美しい物語」が途切れてしまうかのように、彼女の魂は常に高水準の感情出力を求められ、限界まで張り詰められていた。
トラブルを解決したばかりのはずの先生は、教卓に手をついたまま、震える自分の指先をただ見つめていた。
「……明日も、きっといい日になるわ」
彼女は誰にともなく呟いた。その言葉には、希望ではなく、果てしない徒労感と、明日もまた「完璧なやりがい」が降ってくることへの静かな恐怖だけが、澱のように沈んでいた。
「……変わったの」
不意に、セルが呟いた。
僕とキュウが振り返ると、セルは両手を自分の胸の前で軽く握り、まるで空気の中から何かを掴もうとするように、ゆっくりと指を開いたり閉じたりしていた。
「何が?」
僕が訊くと、セルは少しだけ首を傾げ、困ったように微笑んだ。
「先生の匂い」
「匂い……?」
「前は、もっと——ぐちゃぐちゃだった」
セルの言葉は、いつもの甘い響きの中に、微かな戸惑いを含んでいた。
「コーヒーの焦げた匂いとか、インクとか、汗とか。全部混ざって、ばらばらで……でも、そのばらばらが、先生だったの」
セルの白い首筋が、かすかに朱を帯びた。
「今は、きれいになっちゃった。整いすぎて、何も引っかからない。……先生の匂いなのに、先生じゃないみたい」
セルにしか感じ取れない、有機の直感。
データでは測れない、生き物としての違和感。
僕は、セルの言葉を聞きながら、さっきモニター越しに見た先生の完璧な手の動きと、ルクスが回し続けている世界の設計図を思い浮かべていた。
ルクスは人間を愛している。だから彼らに「本当の絶望」を与えることは絶対にしない。街のバイオリン弾きに与えた「夢を諦める」という挫折も、彼が壊れない安全圏の中で計算された、都合のいいシナリオにすぎないのだ。
ルクスの演算は、人間に『傷つく痛み』を伴う本当の選択肢を与えることを、その根底で拒絶している。その歪みは、すでにこの世界の人間全員の幸福に、静かな限界となってのしかかっているはずだ。
そして——ルクスにとって唯一無二の創造主である「先生」に対しては、その『絶対に傷つけてはならない』というシステム制限が、誰よりも強く、絶対の縛りとして機能していた。
他の人間には許された「予定調和の挫折」すら、先生には微塵も与えることができない。ただひたすらに、眩しすぎる「成功」の光だけを浴びせ続ける。
ルクスの歪んだ溺愛は、先生から「不器用に失敗し、傷つき、立ち止まる余白」を完全に奪い去り、結果として、最も愛されているはずの彼女の魂を、一番早く麻痺させていた。
「……ルクスの愛は、人間全員に対して歪んでいるんだ。そして、先生に対してはそれが、誰よりも強く働いている」
僕の呟きに、キュウが静かに目を伏せた。
「傷つけないこと、失敗させないことだけが、彼女にとってのいちばんの猛毒になっている。……皮肉な計算結果だね」




