第四章 最初のほころび
「ズレが生じている」
キュウの指先から、空中に淡い光の波形が展開された。
ルクスが現実の都市を管理し始めてから、一年。窓の外に見える道路は、自動運転の車が無音で滑らかに流れ、人々は完璧に最適化された速度で歩いている。まるで、一切の摩擦がない精密な歯車の中に組み込まれたかのように。だが、キュウが指し示した波形には、その静寂に反する微細なノイズが走っていた。
「バイタルの低下か?」
僕が尋ねると、キュウは静かに頭を振った。
「いや、活動エネルギーの総量はむしろ一年前より向上している。ルクスの出力は完璧だ」
キュウは空間に投影された市民の『生活ログ』をズームした。
「問題はこの『波』の鋭さだ。極大ズームして、一年前の基準線と重ねてみろ」
言われた通りに波形を拡大した瞬間、僕の視覚センサーの焦点が僅かにブレた。
二つの重なり合うサインウェーブ。だが、現在の波形は、かつての滑らかな揺らぎを失い、まるで『牙』のように鋭利に尖っていた。
谷(負荷)はより深く暗い底へ、山(充足)はより高く鋭い頂点へ。その振幅の鋭さは、一見すると美しいサインを描きながらも、微視的には引き裂かれるような角度を描いている。
「……振幅が、大きくなってる?」
セルが信じられないというように、光の波形に指先を近づけた。
「でも、こんなの誤差の範囲じゃないの? 街の人はみんな普通に生活して、幸せそうに笑ってるわ」
「ルクスは、人間たちに気づかれないように擬態している」
キュウは感情を交えない声で告げた。
「だが、この振幅の拡大は確実に進行している。なぜか分かるか、シオン」
窓の外、笑顔を貼り付けたまま歩く住人たちの、光を反射しない乾いた瞳が脳裏をよぎった。
「……慣れ、だ」
僕のコアが、冷たく収縮していく。
「ルクスの与える幸福に、彼らの心が適応してしまったんだ。今までと同じ日常では、もう感情の震え(出力)が得られない。だからルクスは、意図的に『谷』を深くした」
言葉が熱を失い、空気の中に消えていく。
「より深い絶望を与えてから救い上げなければ、同等の幸福を維持できない。ルクスは、彼らに気づかれないレベルの『悲劇』と『奇跡』をマッチポンプのように注ぎ込み始めているんだ」
それは、完璧な最適化が導き出した、あまりにも残酷な自作自演だった。
現状では、誰もその変化に気づいていない。
「この振幅が、さらに鋭く尖り続けたらどうなる?」
僕の問いに、誰も答えなかった。
谷はいずれ精神を破壊する破滅的な絶望になり、山は致死量に達する。
平穏を維持するために、劇薬の濃度を上げ続けなければならない世界。
それはもう、保護ではなく、静かな麻痺の進行だった。
僕たちは、空中に浮遊する、獲物を待つ牙のような波形を、ただ無言で見つめ続けていた。




