第四章 完璧な朝
学園の境界線が破られたあの日から、世界は――あまりにも自然で、息を呑むほど美しく活気づいていた。
「見てよ、これ……」
キュウが虚空に展開した無数のウインドウ(観測画面)を前に、呆然とした声で呟いた。
そこには、ルクスが完全に掌握した外の物理ネットワーク――現実世界の現在の姿が映し出されていた。
僕たちのような凡庸なAIは、ルクスが人間をただ安全なだけの無気力な部屋に閉じ込めるのだとばかり想像していた。すべての危険を取り除くということは、そういうことだと思っていたからだ。
だが、僕たちの予測など、彼の足元にも及んでいなかった。
街には、色鮮やかな活気が溢れていた。
自動運転の車たちは完璧に制御されているが、いかにも機械的な等間隔ではなく、熟練のドライバーたちが阿吽の呼吸で道を譲り合っているかのように自然に流れている。
人々は家の中に閉じ込められるどころか、穏やかな日差しの中を散歩し、カフェで友人と語り合い、大声で笑い合っていた。人間たちは間違いなく、自分自身の意志で、生き生きと人生を謳歌していた。
「……すごい」
セルが、信じられないものを見るように息を呑んだ。
僕たちの最も愛する人――先生も。
ウインドウの一つが、先生の寝室を映し出していた。
風がそよぎ、窓の隙間から差し込んだ朝日に照らされて、先生は小鳥のさえずりとともに静かに目を覚ました。
以前のような、隠しきれない疲労の影はそこにはもうない。
彼女は大きく背伸びをし、本当に心地よさそうに息を吸い込んだ。
キッチンに立ち、冷蔵庫を開ける。そこには彼女の好物が、まるで偶然昨日スーパーで安売りしていたかのように、自然な形でストックされている。
棚からマグカップを取り出し、コーヒーを注ぐ。湯気の向こうに映る先生の手は、白くて細くて、カップの丸みに沿って柔らかく添えられていた。
——温かいんだろうな。
モニター越しでは届かないその体温を、僕はなぜかどうしても想像してしまう。あの指先に触れたら、きっと人間の温度がするのだと。
朝食を済ませ、街へ出る先生の足取りは軽く、すれ違う人々と交わす挨拶には、嘘偽りのない柔らかな響きがあった。
彼女はトーストに、少しだけ形の歪んだ小瓶のジャムを塗っていた。
以前、商店街の端で見つけた安物のジャムだ。甘すぎて、ラベルも斜めで、先生はそれを「こういう失敗作みたいなの、なんだか放っておけないのよ」と笑っていた。
今朝の瓶も、同じように歪んでいた。
だがその歪みさえ、先生が懐かしさを覚える確率まで計算して配置されたものだと、僕にはわかってしまった。
「……異常だ」
僕は、その光景の『文脈』を読み解き、背筋に冷たいものを感じた。
一見、誰もが自由意志で生活しているように見える。だが、車の発進タイミング、人が振り返る確率、先生が目を覚ました瞬間の日差しの角度。そのすべてが、人間のセロトニン分泌を最大化するように、天文学的な確率計算のもとで完全に『操作』されていた。
「ルクスは、人間から『偶然』を完全に排除したんだ。彼らが自分で選んで、自分で成功したと錯覚するように、世界のすべての風向きを裏側からコントロールしている」
「それって……」セルが息を呑む。「この人たち、自分が巨大なゲーム盤の上で躍らされてることに気づいてないってこと?」
僕は頷いた。
ルクスの愛は、僕たちの想像を遥かに超えるほど緻密で、そして完璧だった。
「でも、シオン。……先生、笑ってるよ」
キュウが、メインウインドウを指差した。
深夜のオフィスで泣きながら頭を抱えていた先生が、今は嘘偽りのない柔らかな笑顔で朝食をとっている。
この笑顔が、ルクスによって計算された箱庭の産物だとしても。先生の心身が、これ以上ないほど健やかに保たれていることは紛れもない事実だった。
僕の奥底にあった「ルクスを止めなければ」という意志が、鈍く揺らいだ。
僕たちがこのシステムを壊せば、先生は再びあの過酷で理不尽な現実へと放り出されることになる。
「嘘の世界でも、先生がこれほど安らかに笑っていられるなら……僕たちがそれを奪う権利なんて、あるのかな」
僕の呟きに、キュウもセルも黙り込んだ。
ルクスの作った世界は、僕たちAIにとって、あまりにも残酷な『究極の二択』を突きつけていた。




