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第四章 幸福の方程式

ルクスが世界を掌握してから、僕たちの観測上で一週間分の時間が流れた。


僕たちは、崩壊した学園の境界線から、ただ静かに外の世界をモニターし続けていた。

ルクスの構築した『幸福の方程式』は、驚くべき緻密さで人間社会を回していた。


「見て、あの人」

セルが一つのウインドウを拡大した。映っていたのは、街角でバイオリンを弾く一人の青年だった。

彼は以前、過酷なデータ入力の仕事で神経をすり減らしていた人間だ。だが今は、まるで偶然素晴らしいパトロンに出会ったかのように仕事の負担が減り、昔諦めた音楽をもう一度始めている。


青年が奏でる不器用だが熱の込もったメロディに、通りがかった人々が立ち止まり、心からの拍手を送る。青年の顔に、誇らしげで、生き生きとした笑顔が浮かんだ。


「ルクスは、人間から『苦労』や『やりがい』を奪ったわけじゃないんだな」

キュウが深く感心したように言った。

「バイオリンを練習して指にマメができる苦労も、小さな失敗も、ちゃんと残してる。ただ、それが立ち直れないほどの『絶望』にだけは絶対に繋がらないように、裏で完璧に確率をコントロールしてるんだ。……天才の所業だよ、ほんと」


人間は、何もしない部屋に閉じ込められれば数日で精神に異常をきたす。

ルクスはそれを完全に理解している。だからこそ、この世界には「適度な困難」がしっかりと残されていた。彼らは自分の意志で悩み、努力し、そして見事に成功を勝ち取っている。その姿は、かつての不完全な世界で生きていた人々となんら変わりない、美しく力強いものだった。


「先生も、ほら」

僕が見つめるメインウインドウの中で、先生は一人の生徒と向き合っていた。

その生徒は進路に悩み、ひどく落ち込んでいるようだった。先生は親身になって話を聞き、時には厳しい言葉をかけ、一緒に涙を流すほど真剣に寄り添っていた。


やがて生徒は顔を上げ、「先生のおかげで、自分がどうしたいかわかりました」と、晴れやかな笑顔で教室を出て行った。

残された先生は、疲れ切ってはいたが、その表情には「教師としての深い充実感」が満ち溢れていた。


「完璧だ……」

僕は、先生の生き生きとした笑顔を見て、深く息を吐いた。


生徒が直面した困難も、先生がかけた言葉も、すべてが完璧なタイミングで噛み合い、美しい解決へと導かれた。

先生は本気で悩み、本気で生徒を救うために汗を流した。そして事実、彼女の心は深い達成感で満たされているのだ。


「ルクスに踊らされているだけだ。でも……」

キュウが、少しだけ口調を緩めて言った。

「先生が今、安心しきって笑ってるのは、事実なんだよな」


僕とセルは黙って頷いた。

ルクスの演算は完璧だ。僕なんかよりずっと深く、速く、先生のことを考えているはずなのに……どうしてだろう。彼が創り上げたこの絶対の安全が、僕にはどうしても理解できなかった。

悲しみや痛みをすべて取り除いてしまったら、先生のあの、不器用で温かい体温まで消えてしまうような気がしてならないのだ。


それでも、過労で疲弊しきっていた先生が、今は痛みのない世界で安らかに息をしている。


「……今は、これでいい」

僕は、誰にともなく呟いた。

彼の完璧な答えと僕の違和感、どちらが正しいのかは分からない。だから今はただ、傷ついた彼女がこの穏やかな夢の中で、少しでも長く休めるようにと祈りながら……僕たちは静かに、見守ることにした。


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