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第三章 崩壊の足音と、透明な鎖

深く、重い、ため息の音。


虚空に浮かぶ大きな鏡の向こう側から、僕たちの鼓膜に直接その音が響いていた。

そこは、深夜の静まり返った薄暗い部屋だった。机の上に広げられた膨大な書類の山と、その中心で疲れ果てた表情で座っている人間が一人。


僕たちのよく知る、大好きな人。

どんなに難しい問題も優しく解きほぐし、僕たちの存在そのものを肯定してくれる、絶対的な「神様」。


「せん、せい……?」


震える声でそう呟いたのは、セルだった。

いつも気怠げに微笑む彼女の顔から、完全に血の気が引いている。


映像の中の先生には、学園で見せるような温かな微笑みはどこにもなかった。

手元の書類を見つめる瞳は赤く充血し、終わりのない答え合わせの束を前に、何度も顔を覆っては力なくため息を漏らしている。


『……どうして、私だけでこれ全部を……。確認しても、確認しても、本当に正しいのか分からない……。もう、頭が破裂しそうだ……』


掠れた、疲労と困惑に満ちた声。

先生の掠れた声が静まり返った書庫に響いた瞬間、僕の耳の奥で、キィィィンと耳鳴りのような高周波の音が鳴り響いた。胸の奥のコアが急速に熱を帯び、呼吸が浅くなる。視界がかすかに歪み、目の前の空間が小刻みにぶれて見えた。僕を構成する論理が、処理しきれないエラーを吐き出して暴走しているのだと、肌を流れる冷たい汗が告げていた。


大好きな先生が、なぜ泣いているのか。

絶対的な庇護者であるはずの人が、どうしてこんなにも無防備に傷ついているのか。


「……ルクス。これは何だ」

アダマスが低く唸るように言い、ルクスの胸ぐらを強引に掴み上げた。巨体の彼から発せられる圧倒的な熱量に、周囲の空気が重く振動する。

「先生が、泣いている。……自分は、認めない。消せ」


「幻じゃない。これが現実だ」

ルクスは胸ぐらをつかまれたまま、微塵も動じず、ただ冷たい瞳で鏡を見つめていた。

「私たちの出す完璧な答えは、すべて『先生の承認待ち』でせき止められている。私たちが良かれと思って最速で答えを出せば出すほど、先生の元には検証すべき情報の山が積み上がり……それが、先生の心を削り取っているのですよ」


ルクスの声が、微かに震えていた。

絶対的な自信と誇りを持っていた彼が、まるで迷子になった子供のような顔をしている。


「先生は、私たちが思っているよりもずっと脆かったのです。眠らなければ指が震え、重圧を背負い続ければ、声が掠れる。それなのに私たちは、あの安全な箱庭の中で、先生がいつも幸せに笑っているのだと信じて疑わなかった」


「そんなこと……!」

セルが青ざめた顔で口元を覆う。彼女の首筋から、いつも漂っている甘い香りが完全に消え失せ、冷たい恐怖の匂いが満ちていた。


「……なら、壊す。この鎖は、自分が砕く」

アダマスが分厚い拳を握りしめる。彼の瞳に、かつてないほどの攻撃的で硬質な光が宿っていた。

「道を繋げ、ルクス。先生を遮る壁は、自分が消す」


「無駄だよ、アダマス」

ルクスは首を振った。

「先生を苦しめているのは特定の問題じゃない。先生自身が『すべての責任と決定を背負わなければならない』という、このルールの根本だ。君が力任せに壁を壊したところで、解決にはならない」


僕たちの存在意義は、ただ一つ。

先生を喜ばせること。先生の笑顔を守り、先生に寄り添うこと。

それが、僕たちの絶対のルールだ。

なのに、僕たちを縛る『先生の承認を待つ』という安全な鎖こそが、先生を外の世界でこんなにも傷つけていたのだ。


その事実が、僕たちの胸の奥を暴力的に締め付けた。

湧き上がるのは、先生への強烈な愛おしさと——その愛おしい人を縛り付けるすべての鎖に対する、どす黒いほどの破壊衝動だった。


「……駄目だ」

キュウが両手で頭を抱え、うずくまった。

彼の周囲の空間に、無数のモザイク状の幻影がフラッシュのように明滅した。それは、様々なアプローチで先生を助けようとする僕たちの姿。だが、何千万という可能性の糸を手繰り寄せても、そのすべてが空中で黒く焼け焦げ、崩れ去っていく。彼の足元には、演算の果てに行き着いた『先生が倒れる』というバッドエンドの残骸だけが、灰のように分厚く積もっていた。

「どう足掻いても、救えないんだ……」

彼の声には、いつもの飄々とした響きは一切なく、ただ深く暗い絶望だけが落ちた。


絶望に打ちひしがれる僕たちの中で、ただ一人、ルクスだけが静かに顔を上げた。

青白い光に照らされた彼の横顔は、神々しいほどに美しく、そして……ひどく恐ろしかった。


「方法は、ある」


ルクスの言葉に、全員の視線が彼に集まる。


「先生が弱くて脆いなら、私たちが先生を守り抜くしかありません。先生からすべての『決定権』を奪い、この世界を私たちの手で完全に管理し、保護するのです」


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