異常な世界へようこそ! ―記憶のゾンビ―
朝、目が覚めた。
寝起き特有の気だるさなどは特になく、はきはきとした調子でカーテンを開ける。
「――よし」
アリスは軽く体を伸ばした後、階段を下りてリビングにいる両親へ朝の挨拶を行った。
「おはよう。お父さん、お母さん」
「おはよう。今朝はよく眠れた?」
「うん、眠れた。 ――お父さん。今日はいつ魔術の練習を始めるの?」
「ん……そうだな……朝ご飯を食べたら始めようか」
今朝は晴天。
雲一つかかっていない太陽は、朗らかな朝の到来を告げていた。
ご飯を食べたら練習を開始する。
私は父と一緒に、家から少し離れた森の中までやってきた。
「それじゃあ結界を張るよアリス」
「うん」
私が返事をしたと同時に私たちの周囲を結界が取り囲んだ。
「……ねえお父さん……」
「何だい、アリス?」
「どうせ人避けの結界を張るなら、なんでわざわざ森の中にまで入ってくるの? ここの反対にある湖のところのほうが広いよ!」
父は魔術の練習を始める前に必ず人避けの結界を張る。その理由は魔術を暴走させたりした場合に周囲の人たちを巻き込まないためだと聞いているが、それならわざわざ森に来る必要はないと私は思っていた。
森の中だと燃え移るのが心配で炎魔術を使うのが怖いし、乙女的なことを言わせてもらえば虫が多くて嫌だ。湖のあるところの方が広いし、人避けの結界があれば誰かが近づいて来る心配もない。
「そうだね。でも、あそこの湖には強力な魔獣が住み着いてるんだ。アイツは魔力に反応するからあそこで魔術の練習はしたくないんだ。――けどここなら魔獣が住み着いていないし、村の人たちを巻き込む心配もない……まあ、彼らは魔術師である私たちのことを怖がっているから、わざわざ結界を張らなくても近づいてこないとは思うけど」
「そっか……」
言われてみれば最近あそこでバケモノを見たと村の大人たちが騒いでいた気がする。
そういうことなら確かに危険だ。
「まあ、何はともあれ今は練習に集中しよう。アリスはまだ魔力操作もろくにできていないんだから……それだと星を操るなんて夢のまた夢だぞ」
父は私に視線を合わせると、あとピアノの練習もね、と付け足して言ってきた。
私は「わかってる……!」と少し怒って返事をした。
その日の練習は夜遅くまで行われた。空には黒のカーテンが敷かれ、星屑の光が地上を照らしている。私はそれを眺めながら家路についた。
こうして星を眺めるのは好きだけど、たまに怖い想像もしてしまう。
………あの星屑が一斉に地上に落ちてきたら……いったい……どうなってしまうのだろう。
「――――」
呆と空を見上げていたら、いつのまにかもう家についていた。
私は「ただいま」と言って家の扉を開けた。すると、
「あれ――!」
父が、洗われず放置されているコーヒーカップに気が付いた。
私の家は基本的に家事の全般を母がやってくれているのだが、どうやら洗い忘れたらしい。
父はそれに対して少し顔をしかめる。
そのタイミングで母が二階から降りてきた。
「あら! アリス、あなた、帰ってきてたのね。おかえりなさい」
――-ドッ。
リビングに鈍い音が響いた。
父が母を殴ったのだ。
「カップ、洗い忘れてるぞ。前にも言ったよな」
先程まで優しい声音とは異なり、怒気を隠そうともしない低い声。
その声は燃え上がる炎のような勢いで一気に頂点に達し、怒鳴りだす。
私はいつものようにただ怯えることしかできない。
「前にも全く同じことを言った! 何度もいわせるなよ! ただ台所に持って行って洗うだけだろうが! こっちはアリスの面倒を見てやってんだから家のことはお前の仕事だろ!! いい加減覚えろこのアマァ!!!」
父は母を殴り飛ばした後、腹部に強烈な蹴りをいれた。
それからイスやテーブルに当たり散らし始める。
「つーか……扉もさっきから開けっぱなしなんだけど……お前は閉めることもできないのか! ……っ、さっさと動けよほらッ! 本当にドンくせぇな……。――なに他人事みたいに怯えてんだお前もだよアリス! お前も早く魔力操作ぐらいできるようになれよ! いつもいつもお前らは面倒ばかり押しつけやがって……俺だって怒りたくて怒ってんじゃねぇぞ! お前らのせいで怒る羽目になってんだっ!!」
怒りは私の方にも飛んできた。
父は私の首元を強く掴んで引っ張ると、掴んでいた腕を大きく振って私を壁に叩きつけた。
「……ッ……ゲホッ!!」
背中からの衝撃が全身に響き渡り、私は床に手を付けながらえづき続けた。
父はそんな私たちに目をくれることなく、ドシドシという音を立てながら自分の部屋に戻っていく。
父が消えたリビングでは引きつった声だけが虚しく響き渡った。
―― * * * * ――
翌日。
今日も今日とて「おはよう」という挨拶と共に私の一日は始まった。
母と父は優しい笑みを浮かべて挨拶を返してくれる。
父は落ち着いていた。昨日のことなど忘れたと言わんばかりの様子でコーヒーを飲んでいる。
今日は魔術の練習は休み。
私は一人で村中を回ることにした。
家を出てすぐ、すれ違った大人に話しかける。
「! アリスちゃん…………、…………どうかしたの?」
長い沈黙の後、大人はそう尋ねてきた。
私は答える。
”お父さんが私とお母さんに暴力を振るうの……”
だから助けてほしいと確かにそう言ったはずだ。しかし、うまく伝わらなかったのか、大人は「ごめんねぇ、今ちょっと忙しくて」と言ってどこかに消えてしまった。
次に声をかけたのは子連れの大人。
さっきの人に向けたのと同じ言葉を口にした。しかし、その大人は子供の腕を引っ張ってそそくさといなくなってしまった。
日が暮れるまで村中を回った。
結果はどれも同じだった。
私が話しかけた人たちは皆どこか言いよどんだ後、何故だかどこかへ逃げてしまう。
あまり遅くなってもまた怒られてしまうので私は仕方なく家に帰ることにした。
「ただいま」
そう言って扉を開けて家の中に入る。
入って早々に、私は鬼のような形相をした父親に頬を殴られた。
ゴッ、という鈍い音と共に床に倒れこんだ。
「聞いたぞ……村中に言って回ったらしいな……」
父は握った拳をワナワナと震わせながら言う。
一日中ずっと、日が暮れるまでまわっていたのだから、どこかで見られてしまったのかもしれない。そう思ったが、どうやら違うらしい。
父はひとづてに知ったのだ。
つまり、今日聞いて回った人の中にそのことをチクった人がいる。
……我ながら、馬鹿すぎて笑ってしまう。
大人たちの態度で気づくべきだった。彼らは私を助ける気など初めから無いのだと。
そもそも、毎日あれだけ騒いでいるのだから、私たちが日ごろ暴力を振るわれていることぐらい察せられるはずだ。にもかかわらず、今まで誰もそのことを追求してこなかった。
その時点で気づくべきだった、ここに私たちを助けてくれる人はいないのだと。
―― * * * * ――
それからさらに時が経ち、少女から女性と言えるほどには身体が成長したころ。
私はもう何もかもを諦めて、父の暴力を受け入れることにした。
痛いのも苦しいのも我慢していればすぐに終わる。
「おはよう」
今日も相変わらずの挨拶をして長い一日が始まった。
父の暴力も変わらず続いている。
しかし、最近は殴られる回数が減っていきていた。
たまに殴られたとしても、その威力は以前に比べるとかなり弱い。
体が成長して頑丈になったからかな?
と、疑問に思いながらも、殴られないに越したことは無いのでうれしい気分だった。
……しかし、一つだけ気がかりなことがあった。
最近、父の私を見る目がどこかおかしい。
つま先から頭まで全身を嘗め回すような視線を感じることがある。
(いや、気にしすぎね。今まで暴力を振るわれていたから父さんの視線を怖いと感じてるだけよ……)
指摘して殴られても嫌だし。
私はそう自分を納得させることで、その気がかりを無視することにした。
―――それが間違いだった。
「アリス」
とある日の夜、父は突然私の自室に入ってきた。
また殴られるのかと一瞬身を固めたが、父は殴るでも怒鳴るでもなく、黙ってこちらを見つめるばかりだ。
「……………………………………………………………」
静寂が耳をつんざいた。
謎の焦燥感と、
――速く逃げないと
嫌な予感に頭を駆られた。
――今までとは違う苦痛を味わうことになる。
しばらくして、父は私のもとにじりじりと歩み寄ってきた。
よく見れば、現在の父は顔を紅潮させ、いつもより息を強く荒げていた。
先程まで感じていた謎の焦燥感と嫌な予感は明確な危機感となって、脳が破鐘の如き大声で警戒音と叫んでいた。
「ぁ――――――――――」
父の腕が私の両腕を強く掴んだ。父は私の両腕を魔術で縛り上げて拘束する。
私は今までの人生で一度も出したことのない声量の悲鳴を上げた……上げ続けた。
それでも父は止まらなかった。
「―――――――」
悲鳴を聞きつけ母が一階から駆けあがってくる、私は涙で潤んだ目で母を見つめ助けを求めた。だが、母は私を襲っているのが父だとわかると、視線を逸らし、怯えた様子で下の階に戻っていった。
「ぉ、お母さんッ――――!」
私は震えながら母のことを呼んだ。
扉の向こうで立ち止まった気配がした。
だが、それもほんの少しの間だけ。母は階段を下って行ってしまった。
それを受け、私は目の前にいる父を忘れてこんなことを思った。
……そういえば……母が暴力を振るわれているとき、怖がってばかりで助けたことが無かったな……。
さっきまでの恐怖心はどこかに消え、落ち着きをはらんだ瞳で窓の外を見る。
一面を覆う夜天では、無数の星が光り輝いていた。
―― * * * * ――
父の虐待はあれど、魔術の腕に関してはちゃんと上達していた。
魔力操作もスムーズにとり行えるし、今の私なら本当に星ぐらい操れるかもしれない。
しかし、いくら魔術の腕が上達したところで心が晴れることは無い。
受け入れていれば苦しくない。
これもある種の家族愛の形だと自分を騙して一日を終える。
そうして何日も経った頃、そいつはやってきた。
掴みどころのない軽薄さと、もはや悍ましさすら感じ取れないほど濃密な死の気配を纏わせて――――。
「失礼、そこのお嬢さん――――」
その男を見た最初の印象はなんだかよくわからない男、だ。
身体中にごちゃごちゃとした装飾を施した男は自身をサンジェルマンと呼称し、父と母のことを尋ねてきた。
私は聞かれるがままに答えた。
尋ねられた内容はアレン・エインズワース――私の父が住む家の場所。
私もちょうど帰るところだったのでこの男を家まで案内することにした。
家にたどり着いてただいまの声と共に扉を開けた。
そこから先は一瞬の出来事だった。
扉を開き、父の姿が見えた瞬間。サンジェルマンは右腕を前に構え、
たった一言――「【行使する】」。
その一言でサンジェルマンの右腕から前方2メートルの景色が歪曲した。
空気、建物、人。それらを区別することなく巻き込んで、無慈悲にこの世から削り取る。
近くにいた母は、巻き込まれる形で脇腹をえぐられた。その姿は見るからに痛々しく、母は小さい悲鳴を上げた。
狙いを定められた父はもっとひどい。脇腹どころか左半身をほとんど失うこととなったのだ。これでまだ死んでいないのはさすが魔術師と言ったところ。しかし、長くはもたない。
「サンジェルマン……!? 貴様!!」
父は恨みがましい言葉と視線をサンジェルマンに突き刺した。サンジェルマンはそんな父のささやかな抵抗も意に返さず、淡々とした調子で告げていた。
「踏み込みすぎればどうなるかなんてわかっていただろう。昔……私は何度も君に告げていたからね。――世界に魔力を響かせる手段として音に注目したのは結構。だが、ずっと聞えるんだよ……君があちら側と繋がろうとするたびに世界からの悲鳴が………」
さっきから二人が何の会話をしているのかわからないが、父が何かをやらかしたと言うことだけが分かった。
サンジェルマンの纏う死の気配がより一層強くなり、あぁ……父はここで死ぬんだなと、私は言いようのない感慨にふけった。
「―――――」
場の雰囲気に押し負けたのか、母は悲鳴を上げて外に出ていった。
父もサンジェルマンもそちらに目をくれることはない。ほんの少し、サンジェルマンが自身の指をクイッと動かすと指先から熱線のような魔力弾が発射される。
「君もだよ。エリス・エインズワース……彼のしていた研究がどういったものか理解しておきながら手を貸した。今更後悔して逃げだしたところでもう遅い」
母は心臓を貫かれて死亡した。
家から出てすぐのところで、どちゃりという音を立てながら地面に仰向けの状態で倒れた。
ほどなくして父も殺された。
先程と同じ魔術でチリ一つ残さず、すりつぶされた。
――次はきっと私の番だ。
足音を立ててサンジェルマンが近づいて来る。
私は動けなかった。その理由はおそらく恐怖だ、もしくは諦めだ。私が生まれてから今に至るまでの人生で身に着けたことだ。
「…………っ」
それを自覚した瞬間、羞恥心が胸の奥でしこりのように引っかかった。
なんて無様。これだけ魔術に関わる練習をやってきて身についたものが諦めだなんて……。
急に死ぬのが怖くなってきた。
だってまだ何もできてない。
幸せなんて感じたことが無い。
父に縛られ続けてこんな不幸せに終わるなんて嫌だ!
「――――!」
私は全身の魔力を開放した。
目の前の現実を拒絶するために。
「君は――――!」
サンジェルマンは驚きの声を発し、固まっている。
ならば好機だ。
一か八か魔術で手のひらに星の光を収束させた。
これを放って私は今までの地獄のような『日常』を脱却する。
魔力は遺憾なく全身を巡った。
確実に放てる、そう思った。
しかし、私の魔術は思いもよらぬ形で解放される。
「え―――――?」
ズドン、というすさまじい音と風の衝撃。
私は思わず家の外を見た。
視線の先ではこの村に似つかわしくない程巨大なクレーターが出来上がっていた。
そこを漂う魔力の残滓がこれをやったのは私の魔術だということを教えてくれた。
それで遅れて理解する。あの日、窓越しに見た星屑の光は私が無意識に発動させていたのだ。それをたったいま、明確に敵意をもって魔術を発動しようとした結果なのだ、と。
装填された銃弾たちは解放の瞬間に歓喜した。さきほどのと同規模の流星群。
こんなものが落ちてきたら村がどうなるかなど分かりきっている。
「―――ッまずい!」
サンジェルマンは慌てた様子で結界魔術を発動する、この家の周囲に。
村全体を覆わなかったのは、それでは防ぎきれないと判断したからだろうか。
断続的に響く激突音と衝撃波。そしてそれに交じって響く村人の悲鳴。
それら一つ一つ、一人一人の音が私のこころを打ち壊してきた。
「あ………」
………………違う。
すべて違う。
こんなはずじゃない!
私はこんなことをしたかったわけではない!!
「あぁ………」
確かに助けてくれない村の人たちに憤りを覚えていた。
「ぁあああああああああああああああああああああああああああああああああああああ!!!」
しかしだからと言って村を滅びしたいとは思っていなかったはずだ。
流星群の墜落は五分程続いた。
それが終わると、私は魔力と体力を使い果たして倒れてしまった。
補足。
異世界においては、体の発達する中学生ぐらいの年齢から大人として扱われだします。




