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支配人はコースに出ません  作者: 一之瀬 樹
四番 ローカルルール
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朝いちばんの客

 朝いちばんの客、というのは、店にとっては昼前の客のことや。


 いちばん早うにスタートした組が、九つ回って戻ってくる。店を開けるのは、その時分に合わせてある。せやから、この店の朝いちばんは、コースの朝いちばんと同じ顔ぶれになる。


 いつもの四人や。


 注文は、顔より先に決まっとる。今井さんはカレーの大盛りと熱い茶。あとの三人は、カレーがふたりと、うどんがひとり。席も決まっとって、窓際の、コースの見える四人掛けや。あの人らが座る前に、厨房ではもう盆が動いとる。うどんの人は、カレーは匂いだけもろとくわ、と言うて笑う。毎日同じ冗談で、あたしも毎日笑うてしまう。


 今井さんは、帰りに水筒へ茶を詰めていく。あたしが詰める。蓋は、ようその辺に忘れていく。忘れた蓋は練習場の子が拾うて、届けてくれる。蓋というのは、あの人の周りだけ、渡り鳥みたいに動いとるんや。


 朝いちばんの席は、四人だけやない。同じ時分に、同じような顔ぶれが、何組も戻ってくる。みんな、来る日も、座る席も、頼むもんも決まっとる。あたしはその全部を覚えとる。覚えとるというより、体の中に時間割が入っとるんや。


 あの人らが、コースにお金を払うとらんことは、あたしも知っとる。ゴルフはただで、カレーは払う。それも、きっちり払う。細かいのを先に握って並ぶ人らや。どういう決まりでそうなっとるのかは、あたしは知らん。昔からそうや。昔からのことに、あたしはいちいち理由を聞かんことにしとる。理由を聞き出したら、この山の上のことは、たいがい説明がつかんのや。


 カレーは、この食堂の看板や。開場のころから、献立のいちばん上にある。作り方は厨房が代替わりしても変わらん。変えんことが仕事や、と、あたしはずっと思うてきた。


 五月の終わりに、支配人が仕入れの表を持ってきた。


 肉の欄が、一段安いのに替わっとった。


「これで、お願いします」


 それだけやった。理由は言わんかった。あたしも聞かんかった。聞かんでも分かる。数字を見る人が数字を見て、削れるとこから削っとるんや。よそから削れば、誰かの給金になる。肉なら、肉で済む。


 あたしは、はい、と言うた。


 厨房の若い人が、ええんですか、と小さい声で言うた。


「ええもなにも、仕入れは支配人の仕事や。味は、あたしらの仕事や」


 それで、その週からカレーの肉が一段落ちた。


 しばらくは、誰も何も言わんかった。あたしは盆を出すたびに、少しだけ首をすくめとった。開場の前からここにおるけど、味の変わった看板を黙って出すのは、初めてのことやったからや。


 言い出したのは、やっぱり今井さんやった。


「カレー、なんぞ変わったか」


「変わっとらんよ」


 あたしは嘘をついた。仕入れの話は、店の外に出す話やない。それに、嘘のうちに入らん嘘やと思うとった。作り方は変わっとらんのやから。


 今井さんはスプーンを持ったまま、もうひと口食べた。


「そうか。……そうかなあ」


 そうかなあ、が出たら、あの人は納得しとらん。


 そこから、査問会が始まった。


「肉が変わった」


「歳で舌が変わったんやろ」


「わしの舌は変わっとらん。カレーが変わったんや」


「ルーとちゃうか」


「鍋やろ。鍋を替えたんや」


「水や。今年は水がぬるい」


 次の日には、鍋説の人が厨房まで鍋を見に来た。同じ鍋やと分かって、その場で水説に乗り換えとった。学者みたいな人らや。


 今井さんが、厨房のほうへ首を伸ばした。


「若いの。カレーの何が変わったか、当ててみい」


 厨房の若い人は、鍋の湯気の向こうでしばらく考えとった。


「……盛り付け、ですか」


 場が凍った。あたしは奥で笑いを噛んだ。あの子は何も知らされとらんのやから、あれがいちばん誠実な答えなんや。


 査問会は、何日目かに評決に入った。


 言い出したんは今井さんや。犯人捜しは順番にやらなあかん、言うて、容疑者を一人ずつ呼びよった。呼ぶ言うても、みんな目の前の皿と自分の舌の話やけどな。


「まず、肉。肉は仕入れのもんや。肉のせいやない。無罪」


「次、舌。歳は取っとる。取っとるが、故意やない。無罪」


「ルー。箱が同じや。無罪」


「鍋。見に行った者がおる。同じ鍋やった。無罪」


「水」


 水のときだけ、少し揉めた。今年は水がぬるい、と言うた人が引かんかったんや。今井さんが締めた。


「水に罪を着せるのは、人として、どうや」


「……無罪や」


 容疑者は、全員無罪になった。


「ほな、犯人はおらんのやな」


「おらん」


「おらんのに、味は変わっとるんやな」


「そうや」


「……それが一番怖い話やで」


 閉廷や。


 噂は、それからのほうが育った。


 まず、味が落ちたのは支配人が代わったからや、になった。それから、倹約令が出とるらしい、になった。職員の給金も下がるらしい、と、なぜか職員より先に会員が心配しはじめた。その次には、経営が危ないらしい、になった。危ないから肉を落とした、まではまだ話が通っとる。しまいに、本社はここを潰して何かにする気らしいで、と言う者まで出た。


 それを聞いた席は、みんな笑うた。カレーの肉から会社が潰れるとこまで行くんやから、たいしたもんや、と言うて、ひとしきり笑うて、次の話に移った。


 あたしは笑わんかった。笑い損ねた、というほうが近い。ほんまのことが混ざっとるときの笑いは、どこで息を吸うたらええのか分からんもんや。いや、あたしが何を知っとるわけでもない。ただ、長いことここにおると、風の湿り気で分かることが、たまにあるんや。


 支配人は、指示を出した日から、カレーを頼むようになった。


 来るのは、昼の波が引いたあとの時間や。窓際やない、入口に近い二人掛けに座って、カレーをひとつ。大盛りやない。全部食べて、水を飲んで、伝票どおりに払うて、ごちそうさまでした、と言うて出ていく。


 一遍だけ、あたしは五十円引こうとした。おつりの上に載せかけたら、先に言われた。


「定価で」


 それきりや。常連の決まりが効かん人が、この山にひとりだけおる。


 噂の話は、あの人の耳にも入っとるはずや。事務室は、廊下の噂がいちばんよう聞こえる部屋やからな。


 釈明したらええのに、とは、あたしは思わん。仕入れを替えたのはわたしです、経営のためです、と貼り紙をしたら、噂は消えるやろ。消えるかわりに、別のもんが始まる。あの人はそれを知っとるから、黙ってカレーを食べとるんや。


 あたしも、釈明はせん。そのかわり、決めたことがある。


 肉は一段落ちた。それは仕入れの話や。味は落とさん。それは、あたしの話や。玉ねぎを炒める時間を、黙って延ばした。誰の指示でもない。この店の、書いてないほうの決まりや。


 今井さんは先週、カレーを食べ終わってこう言うた。


「な、直ったやろ。わしの舌は変わっとらんかったんや」


 直っとらん。肉は安いままや。せやけど、あたしは、そうやねえ、と言うた。

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