ズドン
夕方の球拾いが終わったあとの練習場は、静かだ。誰もいない打席に籠を一つ持って入って、暗くなるまで打つ。それが、僕の一日のいちばん最後にある。
教わったことは、ある。今のフォームの元は、中学のときに通った教室と、あとはここで毎朝見てきた人たちのものだ。今井さんの、低く出て同じところに落ちる球。ああいうのを、横で何年ぶんも見た。見た球は、体に溜まる。
教えたことは、なかった。その日までは。
僕は、音で誰が来たかだいたい分かる。車の入り方、戸の閉め方、靴の音。この山の音は、ひととおり頭に入っている。
その日の夕方、後ろから来た足音は、知らない音だった。速くも遅くもなくて、まっすぐで、途中で一度も止まらない。振り向くまで、誰だか分からなかった。
支配人だった。
運動靴を履いていた。手には手帳があった。
「教えていただけますか」
何をですか、とは聞かなかった。練習場で教えることは、一つしかない。
理由も聞かなかった。僕は、聞かない係だ。ただ、頭の中では少し考えた。ゴルフをやらない支配人が、ゴルフを習いに来る。やらない、と、やったことがない、は、違うことだったらしい。
貸しクラブの棚から、いちばん軽いのを選んで渡した。長さを合わせるのに、隣に並んで立ってもらった。並ぶと、僕より頭半分低かった。クラブの長さは、それで決まる。
握り方から始めた。
「どの指に、どれだけ力を入れますか」
「……ぎゅっとじゃなくて、きゅっとです」
「きゅっと」
支配人は手帳に何か書いた。何を書いたのかは、そのときは見えなかった。
次はボールの置き場所をやった。
「どこに置きますか」
「真ん中より、ちょっと左です」
「何センチですか」
「……靴半分です」
靴半分、と支配人は言って、自分の靴を見た。それから靴半分ぶん、ボールを左に置いた。ちゃんと靴半分だった。
「距離は、何で測るんですか」
「歩数です」
「クラブを選ぶときは」
「風と、あとは、なんとなくです」
なんとなく、は書かれなかった。靴半分と歩数は、書かれた。あの手帳の中で、僕の体は、単位になったらしい。
構え方をやった。膝の話をすると、膝は何度くらい曲げますか、と聞かれた。角度で考えたことは、一度もなかった。こう、ふっと落とすんです、と言って、やって見せた。ふっと、と支配人は言って、膝をふっと落とした。思ったより、ふっとしていた。
素振りを何回かやってもらった。素振りは、様になるのが早かった。当てたい欲がないぶん、形が崩れないんだと思う。欲は、球を置いた瞬間から始まる。
振ってもらった。
当たらなかった。
空振りというのは、やった本人がいちばん驚く。たいていの人は、照れるか、怒るか、クラブのせいにする。今井さんの組の人たちなら、風のせいにする。
支配人は、どれでもなかった。クラブを下ろして、僕を見た。
「いまのは、何が違いましたか」
会議みたいな聞き方だった。それが、一球ごとに来た。いまのは何が違いましたか。さっきと比べて、どうでしたか。原因は一つですか、二つですか。
僕は答えた。頭で答えられないぶんは、体でやって見せた。見せると支配人は、いまのが正しいほうですね、と言って手帳に書いた。
教えてみると、分かることがある。自分の中に、思ったより言葉がない。あるのは音ばかりだ。ぐっ、とか、ふっ、とか、そういうのが体の中に並んでいて、僕はそれを順番に鳴らしてゴルフをやってきたらしい。
支配人はその音を、一つずつ手帳に拾っていった。拾われるたびに、僕は少し困った。音は、拾われるために鳴らしてきたものじゃないからだ。困ったけど、嫌ではなかった。
籠が半分空くころに、当たりはじめた。転がるだけだったのが、浮くようになった。支配人は当たっても顔を変えなかった。かわりに手のひらを一度だけ見て、何も言わずにまた握った。
いい当たりが出た。低かったけど、まっすぐ前に行った。
「いまのは」
「……惜しいです。音が違います」
「どの音ですか」
「いい球は、ズドンって鳴るんです」
言ってから、しまったと思った。説明できないことを、言ってしまった。
「ズドン」
支配人は繰り返した。それから手帳を開いて、書いた。
今度は見えた。
日付と、ズドン。
それだけ書いてあった。数字ばかり並んでいるはずの手帳だと、僕は勝手に思っていた。そこに、ズドン。
そのあとも支配人は何回か振って、何回かは当たった。当たるたびに、聞かれた。
「いまのは、ズドンですか」
「違います」
「先ほどのと、いまのは、同じ違い方ですか」
「違う違い方です」
「どう違いますか」
僕は考えた。考えて、正直に言った。
「……ズの長さが」
支配人は、笑わなかった。真面目な顔のまま、ズの長さ、と言って手帳に足した。
笑ってくれたほうが、楽だったと思う。
暗くなりかけたころ、支配人はクラブを返しにきた。ありがとうございました、と先に言われた。教えたのは僕のほうなのに。
それで、なんでか分からないけど、僕は聞いた。
「あの。……僕、プロになれますか」
聞く相手を、間違えている。分かっていて、聞いた。この人は、ゴルフを今日始めた人だ。
支配人は、少し黙った。
「わたしには、判断する材料がありません」
そうですよね、と僕は言った。
「材料は、どこで手に入りますか」
逆に聞かれた。試合に出ることです、と僕は言った。出て、数字を残すことです。
「では、それが材料ですね」
頑張ってください、とは言われなかった。無理でしょう、とも言われなかった。材料の置き場所だけ、教えられた。
支配人は手帳を閉じて、駐車場のほうへ帰っていった。コースには、最後まで出なかった。練習場は、コースではない。
打席の先には、支配人の打った球が散らばっていた。拾うと、どれも同じあたりに固まって落ちていた。散らばり方まで、几帳面だった。
僕は自分の籠を打った。
ズドンは、一球だけ出た。
出たときには、もう誰もいなかった。




