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支配人はコースに出ません  作者: 一之瀬 樹
五番 ロストボール
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10/39

ズドン

 夕方の球拾いが終わったあとの練習場は、静かだ。誰もいない打席に籠を一つ持って入って、暗くなるまで打つ。それが、僕の一日のいちばん最後にある。


 教わったことは、ある。今のフォームの元は、中学のときに通った教室と、あとはここで毎朝見てきた人たちのものだ。今井さんの、低く出て同じところに落ちる球。ああいうのを、横で何年ぶんも見た。見た球は、体に溜まる。


 教えたことは、なかった。その日までは。


 僕は、音で誰が来たかだいたい分かる。車の入り方、戸の閉め方、靴の音。この山の音は、ひととおり頭に入っている。


 その日の夕方、後ろから来た足音は、知らない音だった。速くも遅くもなくて、まっすぐで、途中で一度も止まらない。振り向くまで、誰だか分からなかった。


 支配人だった。


 運動靴を履いていた。手には手帳があった。


「教えていただけますか」


 何をですか、とは聞かなかった。練習場で教えることは、一つしかない。


 理由も聞かなかった。僕は、聞かない係だ。ただ、頭の中では少し考えた。ゴルフをやらない支配人が、ゴルフを習いに来る。やらない、と、やったことがない、は、違うことだったらしい。


 貸しクラブの棚から、いちばん軽いのを選んで渡した。長さを合わせるのに、隣に並んで立ってもらった。並ぶと、僕より頭半分低かった。クラブの長さは、それで決まる。


 握り方から始めた。


「どの指に、どれだけ力を入れますか」


「……ぎゅっとじゃなくて、きゅっとです」


「きゅっと」


 支配人は手帳に何か書いた。何を書いたのかは、そのときは見えなかった。


 次はボールの置き場所をやった。


「どこに置きますか」


「真ん中より、ちょっと左です」


「何センチですか」


「……靴半分です」


 靴半分、と支配人は言って、自分の靴を見た。それから靴半分ぶん、ボールを左に置いた。ちゃんと靴半分だった。


「距離は、何で測るんですか」


「歩数です」


「クラブを選ぶときは」


「風と、あとは、なんとなくです」


 なんとなく、は書かれなかった。靴半分と歩数は、書かれた。あの手帳の中で、僕の体は、単位になったらしい。


 構え方をやった。膝の話をすると、膝は何度くらい曲げますか、と聞かれた。角度で考えたことは、一度もなかった。こう、ふっと落とすんです、と言って、やって見せた。ふっと、と支配人は言って、膝をふっと落とした。思ったより、ふっとしていた。


 素振りを何回かやってもらった。素振りは、様になるのが早かった。当てたい欲がないぶん、形が崩れないんだと思う。欲は、球を置いた瞬間から始まる。


 振ってもらった。


 当たらなかった。


 空振りというのは、やった本人がいちばん驚く。たいていの人は、照れるか、怒るか、クラブのせいにする。今井さんの組の人たちなら、風のせいにする。


 支配人は、どれでもなかった。クラブを下ろして、僕を見た。


「いまのは、何が違いましたか」


 会議みたいな聞き方だった。それが、一球ごとに来た。いまのは何が違いましたか。さっきと比べて、どうでしたか。原因は一つですか、二つですか。


 僕は答えた。頭で答えられないぶんは、体でやって見せた。見せると支配人は、いまのが正しいほうですね、と言って手帳に書いた。


 教えてみると、分かることがある。自分の中に、思ったより言葉がない。あるのは音ばかりだ。ぐっ、とか、ふっ、とか、そういうのが体の中に並んでいて、僕はそれを順番に鳴らしてゴルフをやってきたらしい。


 支配人はその音を、一つずつ手帳に拾っていった。拾われるたびに、僕は少し困った。音は、拾われるために鳴らしてきたものじゃないからだ。困ったけど、嫌ではなかった。


 籠が半分空くころに、当たりはじめた。転がるだけだったのが、浮くようになった。支配人は当たっても顔を変えなかった。かわりに手のひらを一度だけ見て、何も言わずにまた握った。


 いい当たりが出た。低かったけど、まっすぐ前に行った。


「いまのは」


「……惜しいです。音が違います」


「どの音ですか」


「いい球は、ズドンって鳴るんです」


 言ってから、しまったと思った。説明できないことを、言ってしまった。


「ズドン」


 支配人は繰り返した。それから手帳を開いて、書いた。


 今度は見えた。


 日付と、ズドン。


 それだけ書いてあった。数字ばかり並んでいるはずの手帳だと、僕は勝手に思っていた。そこに、ズドン。


 そのあとも支配人は何回か振って、何回かは当たった。当たるたびに、聞かれた。


「いまのは、ズドンですか」


「違います」


「先ほどのと、いまのは、同じ違い方ですか」


「違う違い方です」


「どう違いますか」


 僕は考えた。考えて、正直に言った。


「……ズの長さが」


 支配人は、笑わなかった。真面目な顔のまま、ズの長さ、と言って手帳に足した。


 笑ってくれたほうが、楽だったと思う。


 暗くなりかけたころ、支配人はクラブを返しにきた。ありがとうございました、と先に言われた。教えたのは僕のほうなのに。


 それで、なんでか分からないけど、僕は聞いた。


「あの。……僕、プロになれますか」


 聞く相手を、間違えている。分かっていて、聞いた。この人は、ゴルフを今日始めた人だ。


 支配人は、少し黙った。


「わたしには、判断する材料がありません」


 そうですよね、と僕は言った。


「材料は、どこで手に入りますか」


 逆に聞かれた。試合に出ることです、と僕は言った。出て、数字を残すことです。


「では、それが材料ですね」


 頑張ってください、とは言われなかった。無理でしょう、とも言われなかった。材料の置き場所だけ、教えられた。


 支配人は手帳を閉じて、駐車場のほうへ帰っていった。コースには、最後まで出なかった。練習場は、コースではない。


 打席の先には、支配人の打った球が散らばっていた。拾うと、どれも同じあたりに固まって落ちていた。散らばり方まで、几帳面だった。


 僕は自分の籠を打った。


 ズドンは、一球だけ出た。


 出たときには、もう誰もいなかった。

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