五十円
スタートの小屋に、紙が貼ってある。六番の池がどうの、右の林がどうのと、細かいことが書いてある。そのコースだけの決まりで、ローカルルールと言うんやそうや。
あたしの店にも、ある。
書いてはない。書いてはないけど、ある。常連さんは五十円引き。それが、この売店のローカルルールや。
あたしはこの店に、クラブが開場する前からおる。まだコースが土の色をしとって、山の上で男の人らが杭ばっかり打っとったころ、飯場に茶を運ぶ係で入った。それからずっとおる。建物が建って、売店ができて、気がついたら、あたしごと売店になっとった。
支配人は、何人も代わった。売店は代わっとらん。
五十円引きを始めたのは、あたしや。いつからかは、覚えとらん。それだけのことや。
常連の決まりも、あたしの中にある。一回目はお客さんや。二回目からは常連や。厳しいことを言う人は、それは常連やのうてただの二回目や、と言うやろうけど、うるさいわ。二回来てくれたら、あたしはもう顔を覚えとる。覚えた顔から五十円取るのは、なんや、取りにくいんや。
レジには、定価で打つ。五十円は、レジを通さんと、手で返す。おつりの上に載せて、はいお待たせ、と渡す。レジという機械は正直やから、夕方に締めると、その日の五十円のぶんだけ、現金が足らんことになる。
足らんだけやない。多い日もある。前の日に細かいのがのうて、明日でええよ、と言うた人が、次の日にちゃんと持ってくる。持ってきたときに、あたしが打ち忘れる。ほんで多なる。
多い日も、少ない日も、レジは合わん。悪気は一円も入っとらんのに、や。
昔は、足らんぶんを自分の財布から入れとった。そのほうが話が早いからや。会計を見とった人に、それはやめてくれ、余計に分からんようになる、と言われて、やめた。財布から入れても、入れんでも、分からんもんは分からんのやから、ほっとくことにしたんや。それで長いこと、誰も困らんかった。
支配人が代わって、いろんなものが数えられるようになった、という話は聞いとった。予約の印やら、部屋の中身やら。順番からいうて、いつかレジに来るやろうとは思うとった。
来た。
夕方に来て、まず棚を見て回った。何も言わんと、賞味期限のとこだけいくつか手に取って見とった。それから冷蔵庫の温度計を見て、最後にレジの前に立った。順番のある人や、と思うた。
夕方の締めのあとに支配人がレシートの束と現金を並べて、しばらく黙っとった。
「合いませんね」
「合わんよ」
あたしが言うと、支配人は顔を上げた。驚いた顔やった。合わんことにやのうて、あたしが驚かんことに驚いた顔や。
「毎日ですか」
「毎日や」
「理由を伺っても」
「常連さんは五十円引きやから」
支配人は、少し黙った。
「レジには」
「定価で打つ。五十円は手で返す。機械に覚えさせるほどのことやないもん」
「いつから引いているんですか」
「さあ。始めた覚えはあるけど、やめた覚えがないだけや」
支配人は手帳を出した。この人の手帳は、よう働く手帳や。
「常連とは、どなたですか」
「みんなや」
「……具体的に」
あたしは、具体的に言うた。
卵サンドの人やろ。あの人は雨の日でも卵サンドや。それから、コーヒー牛乳の先生。瓶がのうなってから機嫌が悪いけど、紙のでも飲みはる。大きい飴の袋を月に一遍買うていく奥さん。あれは孫やのうて自分で食べとる。カツカレーやった人。いまはうどんや。歯ぁの都合でな。せやけどあの人のことは、あたしはいまでもカツカレーの人やと思うとる。それから――
支配人の鉛筆が、途中で止まっとった。
「お名前で伺っても」
「名前も言えるよ。食べたもんと一緒やったら」
嘘やない。あたしは人を、名前と、その人が何を食べたかで覚えとる。名前だけ言え、と言われたら、順番が出てこん。卵サンドから思い出すと、全部出てくる。
支配人は手帳を閉じた。
「あとで、まとめて伺います」
まとまるもんなら、あたしが聞きたいわ。
帰りぎわに支配人は棚のほうを一度見て、それから言うた。
「値引きは、やめていただかなくて結構です」
「やめられても困るしなあ」
「はい。……やめていただくと、たぶん、別の形で合わなくなりますので」
どういう意味か、そのときは分からんかった。あとで考えたら、たぶんこういうことや。あたしは五十円を止められたら、別のとこで返す。飴を一つ余分に袋へ入れるとか、大盛りにするとか、そういう形でや。自分でも、そうやろうと思う。あの人は、ひと月であたしの何かを分かったらしい。
次の日に、今井さんが来た。手袋を買いに来たんや。
「手袋、あるか」
「あるよ。左やろ」
「左や。カラスに持っていかれてな」
「鳥に?」
「投げたら、持っていきよった」
「なんで投げたん」
「……いろいろあるんや」
あたしは声を出して笑うた。笑いながら棚から左のを出して、五十円引いた。カラスに持っていかれた人から、定価は取れんやろ。
今井さんは、向こうは片っぽで何に使うんやろな、と言いながら帰っていった。
知らんがな、と思うた。思うたけど、あたしもちょっと考えてしもうた。
その日の午後に、支配人がまた来た。今度は紙を一枚持っとった。
「お願いがあります。値引きをやめてください、ではありません」
先にそう言うてから、紙を置いた。
「値引きをした数だけ、ここに、正の字を付けてもらえますか」
正の字や。あたしは、ええよ、と言うた。断る理由がない。五十円引くのに、理由が要らんのと同じや。
その日から、レジの横に紙がある。
正の字は、付く日と、付かん日がある。忙しいと忘れる。忘れたぶんは、次の日にまとめて付ける。まとめて付けるときに、何人やったか思い出せんことがある。そういうときは、食べたもんから思い出す。卵サンド、コーヒー牛乳、うどん。指を折ると、出てくる。
レジは、いまも毎日合わん。
合わん理由が書いてある紙が、横に置いてあるだけや。それでも支配人は、締めのたびにその紙を見て、手帳に何か書いて、ありがとうございます、と言うて帰る。
何に対しての、ありがとうございます、なんやろうねえ。
あたしは、まだ聞いとらん。




