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紳士たること

 五月の月例の日やった。わしの組が四番を上がったところで、前が詰まった。


 月に一度、競技の日がある。月例と呼んどる。ハンディをつけて順位を出して、優勝した者の名前が食堂の入口の額に入る。わしは競技委員というものを、長いことやっとる。


 なり手のおらん役というのは、断らん者に回ってくる。わしは断らんかった。それだけのことやが、長う続けとると、それだけのことでは済まんようになる。


 競技委員の仕事は、揉め事の裁定や。ゴルフの規則は分厚い本に全部書いてあって、その本が、何年かに一度変わる。せやからわしは三冊持ち歩いとる。いちばん新しい白いのと、その前の赤い表紙のと、もっと前の黒いのや。新しいの一冊でええやろうと言う者は、規則が変わった直後の朝というものを知らん。


 五番のティーで待った。待っても動かん。そのうちに、前の組のキャディが小走りに戻ってきた。


「大庭さん。六番でもめとります。委員さんに来てくれと」


 呼ばれた。


 わしが、や。


 長いことこの仕事をやっとるが、コースの真ん中から呼ばれることは、じつはそう多くない。たいがいの揉め事は、わしが着くころには、声の大きいほうが勝って終わっとる。


 六番まで歩いた。途中、待っとる組の前をいくつも通った。どの組も、なんで止まっとるのかは知らされんまま、ただ待っとった。わしだけが、呼ばれて、どこへ、何をしに行くのかを知っとった。


 ええ天気やった。


 六番は池のあるホールや。池の縁に沿うて、赤い杭が並んどる。杭の内側は、いまの規則ではペナルティーエリアと呼ぶ。昔はウォーターハザードと呼んだ。呼び名が変わっただけやと思うとる者が多いが、変わったのは呼び名だけやない。そこが、この日の話や。


 池の手前に人が輪になっとって、輪の真ん中に球があった。


 球は、杭の内側の泥の上に、半分だけ頭を出して止まっとった。水には入っとらん。打てんことはない。


 球の主が言うた。


「そのまま打つ」


「打つのはええけどな、触ったらあかんで。クラブを地面につけたら二打や」


「つけてええんや、いまは」


「ええわけあるかい」


 これや。


 わしは鞄から白いのを出した。老眼鏡を出して、開いて、読んで聞かせた。ペナルティーエリアの中では、クラブを地面につけてよろしい。罰はない。


「いつからや」


「変わったんや」


「誰が変えたんや」


「イギリスや」


「遠いな」


 球の主は、しばらく球を見とった。それから、やめた、と言うた。


「泥の中の球を触らんと打つのが、わしのやり方や。触ってええと言われたら、触らんでも、もうわしのやり方にはならん。拾うて、外へ出す。一打払う」


 好きにせえ、と誰かが言うた。ここまでは、まだ揉め事ですらない。


 揉めたのは、出し方や。


「拾うて出すんやったら、後ろへ下がって打ち直しやろ」


「横に出してええんや。杭が赤いんやから」


「赤いと、なんで横に出せるんや」


「赤やからや」


「せやから、なんで赤なんや。池やろ。池やったら黄色とちゃうんか」


 そこで、みなが黙った。


 黙って、それから、そろって、わしを見た。


「あの池はな。昔は、沢やった」


 誰も、止めんかった。


 沢というのは、流れや。池みたいにホールの前に横たわる水やのうて、コースの脇を、ホールと同じ向きに走る水や。球は、流れを越えて入るんやない。横から入る。ほんなら、球と旗を結んだ線の後ろへ下がろうにも、下がった先が、まだ流れの上や。後ろへ下がるという救済が、使いようがない。せやから流れの縁の杭は、赤で打つ。横へ出してよろしい、という印や。ずっと昔にこの山をならしてコースにしたとき、沢はせき止められて、池になった。せやけど杭は、沢のころのまま、赤で残った。誰かが間違えたんやない。あの赤は、この土地の履歴や。


 言い終わるまで、誰も止めんかった。


「……ほな、横へ出してええんやな」


「ええ」


「初めて最後まで聞いたわ、その話」


 球の主は球を拾うた。クラブを地面に置いて長さを測って、落とす場所を決めた。


 そこで、また止まった。


 球の主が、球を持った手を、肩の高さに上げたからや。


 誰かが言うた。


「膝や」


「なにがや」


「落とすのは膝の高さからや。いまは」


「肩やろ。わしは肩と習うた」


「変わったんや」


「それもイギリスか」


「せや」


「あそこは暇なんか」


 球の主は手を下ろして、構え直した。ええ歳の男が、腰をかがめて、膝の横から球を落とす。球は泥の上で跳ねもせんと、そのまま止まった。


「……なんや、この格好は」


 誰も答えんかった。規則やからや。


 球の主は打った。乗らんかったが、本人は満足そうやった。


 わしが自分の組へ戻りかけたとき、後ろで待っとった組の一人が、すれ違いざまに言うた。


「委員さん。いまの、どれだけかかったか知っとるか」


「さあ」


「三十分や。後ろは全部止まっとった」


「規則の話やからな」


「ゴルフは紳士のスポーツと違うんかい。紳士やったら、後ろがつかえとるとき、はよ進むもんやろ」


 そう言うて、その人はティーのほうへ歩いていった。


 その日の自分のスコアは、ようなかった。裁定のことを考えとったからやない。紳士のことを考えとったからや。


 わしはその晩、家で、三冊を全部読み直した。


 紳士、という言葉を探したんや。


 規則書というのは、たいしたもんや。泥の上の球の扱いから、打った球を鳥が持っていった場合まで、全部書いてある。球が動いとる水の中にある場合。球が果物に食い込んだ場合。球が、脱いで置いた自分の帽子に入った場合。全部ある。


 紳士は、どこにも書いてなかった。


 白いのにも、赤いのにも、黒いのにもない。黒いのには、エチケットという章が立っとった。削った跡は砂で直せ。バンカーはならせ。前の組に打ち込むな。することは書いてある。せやけど、紳士が何かは書いてない。白いのになると、その章が縮んで、ゴルフの精神、という一節に変わっとった。誠実であること。ほかの者への配慮。コースをいたわること。三行や。


 規則は分厚うなって、紳士は三行になった。


 わしは長いこと、規則書に書いてあるとおりにやるのが紳士や、と思うてやってきた。書いてあるとおりにやる者のことを、規則書のほうでも、紳士と呼んでくれとるんやと思うとった。


 規則書は、そんなことは一言も言うてくれとらんかった。


 書いた者は、紳士が何かを知っとって、書かんかったんか。それとも、知らんかったんか。


 どっちにしても、載っとらんもんは、載っとらん。


 明日、誰かに聞かれたら何と答えるか、それも考えた。考えてから、誰も聞かんことに気がついた。わしに聞かれるのは、規則のことだけや。


 わしは三冊を積んで、寝た。いちばん新しいのを、上にした。深い意味はない。

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