↓ ↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
支配人はコースに出ません  作者: 一之瀬 樹
二番 乗り入れ可
PR
5/39

枯れた芝

 掲示が出たのは、五月の連休が明けた週だった。


 クラブハウスの入口の横、いつも競技の組み合わせが貼ってある板に、新しい紙が足してあった。


 カート乗り入れについて、と書いてあった。


 乗り入れというのは、カートを道から降ろして、芝の上を走らせることを言う。ここはこれまで、雨の日と、雨の翌日と、二番と七番の谷は駄目だった。紙には、それが全部消えて、原則として可、とあった。


 僕は読み直した。今度は、条件が小さい字でどこかに残っていないかを探して読んだ。残っていなかった。


 その日のうちに、中根さんのところへ行った。中根さんはキャディの割り振り表を書いていて、手を止めずに、聞いたわ、と言った。


「歩けん人が増えとる。それだけの話や」


 それは本当だった。朝いちばんに来る人たちは、半分がもう歩いては回らない。カートを道に置いて、球のところまで歩いて、打って、また道まで戻る。あの往復がなくなるなら、来る人は増える。


 僕は割り振り表を見て、帰った。何も言わなかった。


 言うことがなかったのではない。言い方を探しているうちに、中根さんの手が次の欄に移っていた。


 次の週の月曜から、カートが芝に乗った。朝いちばんの組が出ていくのを、僕は三番の脇で見ていた。見ていたかったわけではない。その日が三番の手入れの日だった。


 最初の組は、道から芝へ降りるところで止まった。本当に降りていいのかどうか、確かめている。中根さんが、いいですよ、と手で示した。次の組は道を走ったままだった。その次が芝へ降りて、あとは全部降りた。


 昼前に、七番で一台が動かなくなった。


 谷の底の、水が集まるところだ。先週まで禁止されていた場所で、禁止でなくなったから、入った。四輪とも土に埋まっていた。


 乗っていた四人と、僕とで押した。動かなかった。


 後ろの組が追いついてきて、事情を聞いて、降りてきた。人は増えたが、動かなかった。押すところが足りない。カートは小さい。


 後ろの組の一人が、うちのを持ってきて引っ張ればいい、と言った。理屈は通っている。誰も反対しなかった。


 その人は自分のカートを道から降ろして、谷へ回り込んできて、埋まっているカートの手前で止まった。


 止まったのではなく、止まってしまったのだった。


 二台目は前輪だけで、そのぶん浅い。浅いから、あと少しで出そうに見える。出そうに見えるほうを先にやろうという話になって、全員が二台目へ移った。


 二台目を押しているあいだに、一台目がもう少し沈んだ。


 中根さんが来たのは、そのころだ。道の上から見て、キャディを呼んだ。


 二台目は道まで戻った。戻したときに、押していた側は全員、前へ倒れた。谷の底は水が集まるところで、そこはもう土ではなかった。


 誰も怒らなかった。立ち上がって、手を払って、一台目のほうへ戻った。手を払っても取れなかった。


 板を敷こう、という話になった。僕が道具小屋まで走り、コンパネを二枚持って戻った。工事に使う厚い合板だ。足りなかった。取りに戻った。それでも足りなかった。次は、いちばん年上の人がついてきて、一緒に持ってくれた。


 中根さんが、トラクターを出すか、と言った。


 出せば上がる。それは分かっていた。ただ、あれは重い。濡れている谷の底へ入れれば、カートの溝が、幅の広い溝になる。


 僕は、それはちょっと、と言った。それだけ言った。


 中根さんは僕を見て、谷の底を見て、何も言わずに板のほうへ回った。


 途中で支配人が来た。クラブハウスから歩いてきて、何も言わずにいちばん後ろについて押した。低いヒールが土に埋まって、抜くときに片方脱げた。脱げたまま押していた。誰も笑わなかった。押すのに忙しかったからだと思う。


 上がったのは、そのすぐあとだった。


 急に軽くなって、カートは板の上を走って、道のほうへ出ていった。押していた全員が、そこへ倒れた。


 僕も倒れた。顔から行かなかったのは、前の人の背中があったからだ。


 起き上がってみると、みんな同じ色になっていた。上と下の区別がつかない人が二人いた。一台目を埋めた当人が、座ったままで言った。


「これは楽しかったな」


「あんた、明日は腰が立たんで」


「明日は明日や」


 本当に楽しそうだった。


 支配人は、いちばん後ろにいたので、いちばん後ろに倒れていた。片方だけ靴を履いて、片方は裸足だった。ジャケットは前も後ろも同じ色になっていた。


 起き上がって、脱げたほうの靴を谷の底から抜いて、それから言った。


「ここは、道を一本増やせないか、見ておきます」


 誰も返事をしなかった。中根さんが、道の上から見ていた。


 支配人は靴を履いて、上がったのを確かめてから戻っていった。泥のついたままだった。


 僕は板を片づけながら、谷の底を見ていた。溝が残っていた。


 何日かして、三番のフェアウェイの入口に線が二本ついた。降りる場所は決まっているので、みんな同じところを通る。そこだけ回数が違う。


 線は、最初は色が違うだけだった。踏まれた芝は寝るので、光の当たり方が変わる。


 色はじきに抜けた。そのあと、土が見えた。


 傷むのは入口と出口と、グリーンの手前で回り込むところだ。全体が薄くなるのではなく、傷むところだけが、はっきり傷む。


 僕は毎朝そこを見て回るようになった。測りにいくより先に見にいった日もあった。


 入口を変えてみた。いちばん近いところを縄で塞いで、少し先から降りてもらうことにした。


 すぐに、塞いだ隣に線が二本ついた。人は近いところから降りる。散らすには降りる場所を毎日変えるしかなくて、毎日変えれば、傷むところが毎日増える。


 縄は外した。


 乗り入れは、よかったこともある。二番の谷を登れなくて九ホールでやめていた人が、十八まで回るようになった。終わってから僕の顔を見て、楽になったよ、と言った。


 その人がフェアウェイを横切ってきた跡が、後ろに残っていた。


 五月の終わりに、役員会に呼ばれた。コースの状況を一言、ということだった。


 部屋には役員が並んでいて、奥の席に支配人がいた。靴は違うものだった。


 僕の前に、支配人が報告した。


 五月の来場者は、先月より一割多い。乗り入れを開けてから予約の入りが変わった。数字をいくつか読んで、それだけだった。


 誰かが、それはよかった、と言った。別の誰かが、天気もよかったからな、と言った。支配人は、はい、と答えて、それ以上は言わなかった。


 順番が回ってきて、名前を言って、それから言った。


「今月の平均は八・九です。先月比でマイナス〇・三」


 誰も何も言わなかった。支配人が手元の紙に何か書いた。ほかの人はうなずいたり、うなずかなかったりした。次の議題は、アウトから回るかインから回るかだった。その議題は、僕の数字よりずっと長かった。


 僕は座って、最後まで聞いていた。言った数字は正しい。


 ただ、その〇・三はエアレーションのせいだ。カートとは関係がない。


 僕はそれを知っていて、その数字を言った。言ってから、なぜ言ったのかを考えた。コースの状況を一言と言われて、僕が持っている数字がそれしかなかったからだ。


 一割と、マイナス〇・三。同じ部屋で、続けて読まれた数字だ。どちらも乗り入れのせいだと思った人がいたかもしれない。どちらも違う。


 乗り入れのせいで本当に起きていることは、その部屋で一つも数字になっていなかった。


 三番の入口の土は、何フィートでもない。


 二番の谷の、裸になっているところの幅も長さも、測れば出る。出るけれど、それは僕が今日決めた測り方の数字で、先月のぶんがない。比べるものがない数字は、会議では数字にならない。


 三年ぶんの手帳に、役に立たない場所が一つあった。


 部屋を出るときに、支配人がこちらを見た。何か言われるのかと思って少し待った。支配人は書類を揃えて、揃え終わってから立ち上がった。それだけだった。


 次の日の朝、僕は三番の入口の芝を、一株抜いた。


 根ごと、土のついたまま。上のほうは茶色く、根は白いけれど短い。思っていたより簡単に抜けた。抜けるということは、根が張っていないということだ。


 それを持ってクラブハウスへ行った。事務室に人はいたけれど、誰も僕を見なかった。奥の部屋の戸が開いていて、机が見えた。支配人はいない。


 僕は入って、机の端に芝を置いた。紙は書かなかった。書けば説明になる。説明を書けば、この芝が説明の材料になる。


 置いて、出た。


 その日の夕方、日報を書いていつもの箱に入れた。八・九。前の日と同じだ。机の上のことは書かなかった。


 次の週も同じものを置いた。三番の入口は先週より広くなっていて、抜くところに困らなかった。


 先週のぶんは、水を入れたコップに挿されて、窓際に置いてあった。誰がやったのかは分からない。枯れた芝は、水では戻らない。


 六月に入って、グリーンは九・二に戻った。日報には数字だけ書いた。


 三番の入口は、戻らなかった。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。