応じなかった人たち
締切の翌日、わたしは新しい綴りを一冊作った。
戻ってこなかった紙の、控えの綴りだ。表紙に書く名前が、決まらなかった。応じなかった方々、と書いて、消した。事実だけれど、綴りの表紙に毎日見える字にしては、とがっている。ご辞退、と書いて、消した。辞退の届が出たわけではない。結局、お預かり、と書いた。何を預かっているのかと言えば、返事だ。返事は、まだどこかの家の抽斗の中にある。抽斗の中のものは、預かりものと同じで、いつか出てくる日があるかもしれない。
応じなかった人は、いろいろだった。
封も切らずに返してきた人がいた。理由を、受付で言っていった。
「読まん。読んだら、判子を押してしまうやろ」
自分の説得されやすさを、自分がいちばんよく知っている人だった。綴りには、未開封、と控えた。
読んで、質問をして、質問の答えにも全部うなずいて、それでも押さなかった人がいた。理由は言わなかった。言わない理由に、こちらから名前を付けないのが受付だ。
亡くなった方の欄もある。相続のお手続き中で、返事のしようがない家だ。それは応じなかったのとは違う。違うが、綴りの上では同じ場所に入る。
権利は、みなさんの手元に残った。
同意しなかった人の預かり金は、一円も減らない。そのまま、帳簿の上に残る。爆弾という言い方を、弁護士の先生がしていたと聞いた。
消えたお金は、一円も戻らなかった。
戻す話は、最初から誰もしていなかった。減らす話だった。減らす話に、九百十八人が判子を押した。
土地の話は、締切より少し前に、ついた。
ついた、としか、わたしは聞いていない。都会のあの会社の名前は、あれきり聞かない。どうついたのかは弁護士の先生と支配人のあいだにあって、わたしの担当範囲の外だ。担当範囲の外のことを知りたがらないのは、受付の職業病で、今度ばかりは、その病気に助けられた。
土地の賃貸借の紙が、わたしの家にも来たからだ。
貸主のお一人、として、だ。
祖母の持分は、春のうちに、わたしのものになっていた。売りませんか、というお手紙には、返事を出さないままにしてあった。伯父は、いっぺんは売る気だった。売る気のまま、わたしに、みなみちゃんはどう思う、と聞いた。決めさせて、と祖母が言っていたことは、中根さんから聞いたとおりに、家にも伝えてあった。伯父は、書類を広げる人で、畳む人ではない。畳むほうの話は、わたしに回ってきた。
わたしは、売らないことにした。
理由は、うまく言えない。言えないなりに書けば、こうなる。あの山の上で、わたしは毎朝、予約表を刷っている。祖母は、あの山の上の受付で、中根さんに伝票の字を直させていた。売るというのは、その二つを、知らない帳簿へ移すことだ。移した先の帳簿を、わたしは確かめに行けない。確かめられない帳簿は、わたしの性に合わない。
賃貸借の紙には、申入れの取り下げと、賃貸借の続きと、上がった地代が並んでいた。それだけ読んで、家の卓袱台で判子を押した。
祖母の卓袱台だ。実印というものを、わたしはこの春、生まれて初めて作った。押す欄は、貸主の側だった。職場では借りる側に立って判子を千枚近く数えて、家では貸す側の欄に一つ押す。同じ手が両方をやっているのに、誰も困らない書式になっている。
地代が上がったぶんが、どこから出るのかは、受付にも一つだけ見えた。名簿を、今年は刷らない。毎年刷って、亡くなった方にも届いていた一冊が、来年は誰にも届かない。
週明けに、中根さんに言った。
受付で印の紙を渡すついでに、なるべく普段の声で言った。
「祖母の分は、売りません。持って、ここに居ります」
中根さんは、印の紙を受け取った手を、止めなかった。止めないで、確かめて、返して、それから言った。
「そうか」
「はい」
「……ほな、あれは、要らんな」
胸のポケットから、あの空の封筒を出した。表書きを一度だけ見て、折ってまた胸のポケットに戻した。紙を折って胸のポケットに入れる手つきが、妙に板についていた。長年の癖の、動きに見えた。
「要らんようになる、いうのはな」
中根さんは、そこで少し黙った。
「三十年で、いちばんええ日や」
それだけ言って、スタート小屋へ歩いていった。歩き方は、いつもの歩き方だった。いつもの歩き方ができる、ということの値打ちを、わたしはこの受付で覚えた。
その週のうちに、会費の新しい欄に五人目と六人目が入った。
朝の組のお二人で、連れ立って来て、順番で揉めて、結局あいうえお順になった。欄というものは、二人目までが仕事で、五人目からは勝手に育つ。
役員会は、三十分で終わったそうだ。
どちらから回るかの議題が、同数のまま消えたからだ。役員のお二人は、いまは連れ立って回っている。アウトから出た日はインの話をして、インから出た日はアウトの話をするらしい。終わったら終わったで、寂しいもんやな、と、どちらかが食堂で言っていた。
一年前の春のことを、わたしは、はじめのほうにこう書いた。
本社がとりあえず打った、もう一球。あの人のことを、わたしたちはそういうものとして見ていた、と。見方が間違っていたと分かるのはずっと先だ、とも書いた。ここが、その先である。
間違いの中身は、こうだった。暫定球というのは、先に打った球が見つかれば、拾って終わる球だ。わたしたちは一年、先の球が見つかるのを、どこかで待っていた。見つからなかった。最初から、なかったのだと思う。だから規則のとおり、あの球が、わたしたちの球になった。
あの人がなぜ、誰も手を挙げないこの山に志願したのか。事業の実績のため、と本社からは聞いているし、わたしもそう控えてある。控えは、ときどき間違う。間違っていても、直す日まで、控えは控えだ。
七月の最初の朝、前の晩に刷っておいた予約表を受付の机に広げた。
朝いちばんの枠は、埋まっていた。印を確かめて、中根さんに回した。数えるものが一つ減った受付で、数えないものが、今日も先に始まっていく。
最後に、お断りを。この作品はフィクションです。作中の制度や手続きについては、できるだけ正確に書くようにしていますが、筆者はその分野の専門家ではありません。制度はこの先変わっていきますし、同じ制度でも、一人ひとりの事情によって扱いが変わります。ここに書いたことを、ご自身の判断に使わないでください。実際に手続きが必要な方は、資格のある方に必ずご相談ください。これらの記述について、筆者は責任を負うことができません。




