締切日
アテスト、という言葉を、わたしは大庭さんに教わった。
競技のスコアは、自分でつけただけでは数字にならない。同じ組で回った人が確かめて、署名して、初めて成立する。その署名のことをアテストという。自分の数は、自分では証明できない。ゴルフというのは、ずいぶん受付に似た決まりで出来ている。
六月の最後の日が、同意書の締切日だった。
朝は、いつもどおりに始まった。前の晩に刷って、印を足しておいた予約表を中根さんに回して、朝いちばんの組を送り出す。その枠は、今日も埋まっている。世界の終わりが来ても、たぶんこの枠だけは埋まる。そういうことを考えるのは、中根さんの癖が移ったのだと思う。
朝の組を送り出してしばらくすると、机の前に人が絶えなくなった。
締切日に動く人というのは、どこの世界にもいる。読んで、決めて、それでも判子は最後の日に押す。遅いのではない。そういう順番の人なのだ。御代田さんが最後に回すと言っていた顔ぶれが、ちゃんと最後に来ていた。わたしは一枚ずつ受け取って、日付の欄を確かめて、綴りに足していった。
ファクスも動いた。
丸まった紙を伸ばすと、同意書だった。判子の印影まで、ちゃんと写っている。写っているだけだ。
お電話をした。
「判子は、原本でお願いします」
「押したがな」
「押していただいたのは、そちらのお手元の紙で」
「そっちに送ったがな」
「送っていただいたのは、写しで」
昼に、ご本人が原本を持って現れた。机に置いて、一言だった。
「ファクスは、気持ちや」
気持ちは、朝のうちに確かに届いていた。原本は、綴りに入った。帰り際、その人は机の上の綴りをしばらく見て、ようけ集まったな、と言った。ようけ集まって、まだ足りない。このひと月、机の上はずっと、そういう場所だった。
昼下がりに役員のお二人が、同時に来た。
アウトから回る側の重鎮と、インから回る側の重鎮だ。役員会が二十年、どちらから回るかで揉めてきた、あのお二人だ。それぞれ、胸に紙の束を抱えていた。このひと月、それぞれの側で、迷っている人たちを回って集めてきた束だ。集めはじめた理由は、聞いていない。片方が始めたから、というのが、たぶんいちばん近い。
「篠田さん。わしの集めた分と、あっちの分は、分けて数えてくれ」
「なぜですか」
「なぜて、分けなあかんやろ」
理由は、それで全部らしかった。わたしは分けて数えた。片方の束を数え、正の字で控え、もう片方を数えた。
同数だった。
お二人が、黙った。
「……数え直してくれ」
数え直した。同数だった。今度は二人とも、わたしが数えるあいだ身を乗り出して手元を見ていた。見られて狂うような数え方は、この受付ではしていない。
それからお二人は、ほとんど同時に上着の内側へ手を入れた。それぞれ、一通ずつ出てきた。最後に出すつもりで、隠し持っていた一通だ。
二通を足した。同数のままだった。
「まだ、お持ちですか」
「「無い」」
声が、揃った。
お二人は、顔を見合わせた。二十年揉めてきて、声が揃ったのは、たぶんそれが初めてだったのだと思う。どちらからともなく、ほな、と言って、連れ立って食堂のほうへ歩いていった。少し、寂しそうな背中だった。
ロビーの隅では、大庭さんの新しい一席が始まっていた。
迷って最後の日まで来た人を、ソファに座らせて、話して聞かせている。池の話ではない。聞こえてくる山場が、わしは知らんかった、で、そこでいちばん受けている。受けたあとで、聞いていた人が立ち上がって、わたしの机へ来る。このひと月、何度も見た順番だった。一席の終わりに、大庭さんは必ず、規則書は持っとらん、と両手を広げてみせる。
夕方、締切の時刻が来た。
机を閉めて、綴りを事務室へ運んだ。数えるのは、それからだった。
足りる線は、先に決めてあった。九百。弁護士と本社の計算で出た数字で、ここを越えれば、クラブの立て直しの数字が立つ、という線だ。線の根拠の中身を、わたしは半分も説明できない。できないが、九百という数字だけは、このひと月、毎晩見てきた。
一枚ずつ数えた。正の字で控えながら、日付の欄と判子の欄を確かめながら、数えた。レジで覚えて、予約表で使って、香典帳まで来た数え方の、これがたぶん、いちばん大きい仕事だった。
数え終わって、逢坂くんを呼んだ。
「検算、お願いします」
「はい」
逢坂くんは、束を最初から数え直した。数えるあいだ、息を止める癖がある。束が大きいので、途中で顔が赤くなって、それでも止めなかった。数え終わって、息を吐いて、言った。
「同じでした」
紙に数字を書いて、二人で名前を書いた。
支配人室へ持っていった。
支配人は紙を受け取って、数字を見た。
「九百十八です」
「はい」
線を越えたことは、言わなかった。言わなくても、九百は二人とも見飽きた数字だ。支配人は紙をもう一度見て、それからわたしと逢坂くんの名前のところを見た。
「お二人で、数えたんですね」
「アテストです」
わたしがそう言うと、支配人は少しのあいだ黙って、それから手帳を出して何かを書いた。何を書いたのかは、見えなかった。
「ありがとうございました。今日は、もう上がってください」
「はい」
戸のところで、一度だけ振り返った。支配人は九百十八の紙を机の真ん中に置いて、両手を机について、立ったままそれを見ていた。座って見る数字と、立って見る数字があるのだと思う。
外はまだ明るかった。六月の末は、日が長い。
集まった。足りるぶんだけ、集まった。
全員ぶんは、集まらなかった。机の下には、戻ってこなかった紙の控えが、まだ綴じないまま束になって残っている。そちらの話は、明日からの話だ。
数え終わった夜は、思っていたより、静かだった。
最後に、お断りを。この作品はフィクションです。作中の制度や手続きについては、できるだけ正確に書くようにしていますが、筆者はその分野の専門家ではありません。制度はこの先変わっていきますし、同じ制度でも、一人ひとりの事情によって扱いが変わります。ここに書いたことを、ご自身の判断に使わないでください。実際に手続きが必要な方は、資格のある方に必ずご相談ください。これらの記述について、筆者は責任を負うことができません。




