規則書を閉じる
三日、クラブに行かんかった。
行かん三日のあいだに、家で何をしとったかというと、何もしとらん。庭の草を抜いて、昼寝して、規則書の背表紙を眺めとった。開けんかった。白と赤と黒。三冊とも、わしより物知りや。
四日目の朝、行った。
行くと決めたんは、ゴルフのおかげや。ゴルフには、審判がおらん。林の中で球を蹴っても、誰も見とらん。せやから罰は、自分で数えて、自分で言う。自己申告や。それがでけん者は、スコアがなんぼ良うても、ゴルフをしたことにならん。
わしは競技委員を長年やっとる。人の申告は、ようけ聞いてきた。自分の番が、来たというだけのことや。
ロビーに入ると、いつもの顔ぶれがいつものように寄ってきた。
「大庭さん、聞いたで。弁護士が来たんやてな」
「あんたの決議は、どうなったんや」
「無効やそうや」
自分で言うた。言うてから、声が大きかったことに気がついた。ロビーの端まで届く声や。まあええ。申告いうもんは、聞こえんとこでやっても、申告にならん。
「無効て、あんた」
「無効や。会員一人ずつの判子がない決めは、外の約束には効かんのやと。理事会でも、総会でも、や」
「ほな、あんたが慌てんでもええ言うとったんは」
「あれは、忘れてくれ」
みなが黙った。黙った顔が、気の毒そうな顔になりかけたんで、わしは先に言うた。
「わしは、知らんかった」
言えた。存外、するっと出た。三十年、いちばん遠くに置いとった言葉が、口から出たら、ひと息や。ひと息を惜しんで、わしは何年、字引の顔を守っとったんやろな。
「知らんかったて、あんた、生き字引が」
「字引に載っとらんことは、字引も知らんのや。ほんで、載っとらんことのほうが、大事やった。それだけの話や」
それから、鞄から黒い規則書を出して、なかほどを開いた。いちばん古いやつや。エチケットの章が、まだ章のままやったころのや。
みなの前で、閉じた。
閉じるも何も、この三日、開けてもおらんかったやないか、と思うやろ。違うんや。わしはこの三十年、あの三冊を、頭の中でいっぺんも閉じたことがなかった。誰かが何か言うたら、条文で受ける。定義で返す。
音が、思うたより大きかった。
受付の篠田さんが顔を上げた。ロビーの二人が振り向いた。革の表紙いうもんは、ええ音がするんや。静粛に、の音やない。閉廷の音や。
閉じた規則書を鞄に戻して、わしは篠田さんの机へ歩いた。同意書の机や。十月からこっち、わしが一度も正面から座らんかった机や。
「用紙を、もらえるか」
篠田さんが、新しい紙を出しかけた。
「いや、待ち。ある」
黒い規則書を、もういっぺん出した。表紙の裏に、十月に配られた同意書が、しおり代わりに挟まったままになっとる。折り目が付いとるが、判子に折り目は関係ない。篠田さんは、折り目を手で伸ばして、日付の欄を指で示した。
判子は持ち歩いとる。建材屋は、書類の多い商売やったんや。
押した。
印面を確かめて、息を一つ吐いてから、まっすぐ押した。建材屋の判子は、曲がったら仕事にならんのや。
押してから、周りが静かなことに気がついた。いつもの顔ぶれが、みな、わしの手元を見とった。生き字引の判子は、重いか軽いか知らんが、遅い判子ではあった。
支配人が、事務室から出てきた。わしは聞いた。
「どうなんや、集まりは」
支配人は、手帳も開かんと言うた。
「進行、遅れています」
言葉が、いっぺんで分かった。分かりすぎて、笑うてしもうた。
あれはな、競技委員が、詰まった組の後ろへ回って言う言葉や。急かすんやない。事実を言うだけや。事実を言われた組は、自分らで考えて、自分らで詰める。わしも長年、ようけ言うてきた。前の組に、若いのに、初めての客に。
言われてみれば、そのとおりや。進行を遅らせとった組の、先頭がわしや。
「……前が、つかえとってな」
「はい」
「今日から、後ろから詰める。字引はな、引かれてなんぼや。存分に引いてくれ」
「はい。存分に」
支配人は、それだけ言うて、事務室へ戻っていった。ああいう人の、はい、は、契約書より確かや。判子は要らん。
それからのわしは、忙しゅうなった。
慌てんでもええ、と言うて回った相手を、一人ずつ思い出して、一人ずつ訪ねた。訪ねて、何を話すかというと、決議の自慢話やない。その逆や。わしは知らんかった、の一席や。
これがな、効くんや。
池の話は、三十年やって、最後まで聞いた者が数えるほどしかおらん。知らんかったの話は、みな、最後まで聞く。聞いて、笑うて、それから真顔になって、あの大庭さんが言うんやから、と判子を押しに行く。字引としては複雑やが、判子は判子や。
週の終わりに、受付で財布を出しとる年寄りを一人見た。
朝いちばんの組の人や。会費を、と言うとった。篠田さんが、新しい欄に書き込んどる。会費くらい、なにをいまさら改まって払うもんでもなかろうに、と思うて、思うただけにした。聞いとらんだけで、知らんのとは違う――と言いたいところやが、あの改まり方は、わしの知らん筋の話やろ。この歳になると、知らん筋は知らん筋のまま置いとくのも、芸のうちや。
帰りのロビーで、ソファに座った。久しぶりに座った。資料は広げんかった。
あの言葉を、あの人がどこで覚えたか、ずっと考えとった。中根やろか。競技の進行の言葉やぞ。手帳に書いて、いっぺん練習してから言うたんやろ、と思うことにしとる。練習した言葉に、わしは負けたんや。それなら、負け方に筋が通る。
規則書は、家の棚に置いてきた。
三冊とも、要らんようになったわけやない。裁定は、これからもやる。ただ、持ち歩くのは、やめた。三冊ぶん軽うなった鞄いうもんは、思うたより軽い。軽すぎて、しばらくは調子が狂うやろ。狂うたら、そのときは、また誰かに言えばええ。
わしは知らんかった、と。二度目からは、するっと出る。
最後に、お断りを。この作品はフィクションです。作中の制度や手続きについては、できるだけ正確に書くようにしていますが、筆者はその分野の専門家ではありません。制度はこの先変わっていきますし、同じ制度でも、一人ひとりの事情によって扱いが変わります。ここに書いたことを、ご自身の判断に使わないでください。実際に手続きが必要な方は、資格のある方に必ずご相談ください。これらの記述について、筆者は責任を負うことができません。




