あれは無効です
六月に入ると、篠田さんの机の前まで行きかけて行かん者が増えた。行きかけた足が、わしのソファの前で止まる。同意書の締切が、今月の末や。
「大庭さん、あんた、押したんか」
「わしか。わしは、まあ、慌てんでもええ思うとる」
「押したんか、押しとらんのか」
「慌てんでもええ、と思うとる」
「ほうか。ほな、わしも待つわ」
そう言うて帰る背中を、わしは何人も見送った。見送るたび、悪い気はせんかった。生き字引の言うことが、まだ効く。効くいうことは、わしがまだ字引や、いうことや。
慌てんでもええ、には、わしなりの根拠があった。預かっとる金には、寝かせとく決めがある。わしが理事長のときに、その寝かせる期間を、理事会で延ばしたことがある。いっぺん延ばせたもんは、要るときに、また延ばせる。せやから、慌てて切らんでも、クラブは保つ。そう思うとった。
週の半ばに、支配人室から呼ばれた。
昔の理事会の記録のことで、ご存じの方に伺いたい、という。わしは規則書を三冊と、クラブの規約を、鞄に入れて出かけた。土地の話は九番アイアンでは打てんが、決まりの話なら、道具はこれで足りる。
応接には、支配人と、もう一人おった。
顧問の弁護士や。若い。名刺の字ぃが細い。顔を見るのは初めてやが、評判は聞いとる。あの先生が来た日は、事務室の茶が濃うなる、いう評判や。高砂さんが麦茶を持ってきて、わしのだけ、グラスの下に受け皿が付いとった。年の功は、法律より長持ちしとる。
「あんた、来るたび悪い知らせや、そうやな」
「はい。良い知らせは、電話で済みますので」
悪い気のせん男や。悪い知らせしか持ってこん男やが。
机の上に、古い綴りが開いたった。理事会の議事録や。わしの名前が、いちばん上にある。議長、大庭恒夫。ええ字で書いたる。書いたんは当時の事務局やが、ええ決議は字ぃまでようなるもんや。
口を開いたんは、弁護士のほうやった。
「この決議の、当時の経緯を伺いたいのです」
経緯なら、任せとき。わしは話した。あの年、預託金の据置の期限が近づいとった。預託金いうのは、会員が入会のときにクラブへ預けた金や。据置いうのは、返すのをしばらく待ってもらう約束のことや。期限が来たら、返してくれ、と言える建前になる。いっぺんに言われたら、どこのクラブかて保たん。せやから理事会で決議した。据置を、もう十年、延ばす、と。よそでも、ようやっとったことや。
「あの決議が、クラブを守ったんや」
話し終わって、麦茶を飲んだ。ええ話をしたあとの麦茶はうまい。
弁護士は、綴りを見たまま言うた。
「この決議の、会員お一人ずつの同意書は、ありますか」
「同意書? 決議やぞ」
「はい。決議の、同意書です」
「理事会が決めたんや」
「理事会でも、です」
「総会に諮っても、通っとったで」
「総会でも、です」
話が噛み合わん。わしは鞄から、クラブの規約を出した。
「規約を読も。ここや。総会は、クラブの最高の議決機関とする。最高、と書いたる」
「それは、クラブの中の決まりです。お預かりしているお金は、会員さんお一人ずつとの、クラブの外の約束です。外の約束は、中の多数決では、変えられません」
ほんなら、と、わしは白い規則書を出した。いちばん新しいやつや。委員会いうもんの権限がどう書いたるか、読んで聞かせたろ思うたんや。
「大庭さん。それは、ゴルフの規則です」
「規則は規則や」
「はい。コースの上では、民法より規則書のほうが強いです。降りたら、逆になります」
言われて、手ぇが止まった。コースの上では法律より強い。ええ言葉や。ええ言葉やが、いまは応接におる。
それでもわしは、引かんかった。引かん代わりに、わしのいちばん得意な土俵へ話を持っていった。裁定の筋や。
「ほな、規則の筋だけ言わせてもらう。ええか。ローカルルールいうもんはな、朝のうちに貼るんや。スタートの前に、今日はこの決まりでやります、と全員に見せる。回っとる途中で、昼から変えるんは、あかん。もう打った球に、あとから決めた規則は効かん。これが競技の筋や。そうやろ」
「おっしゃるとおりです」
「せやろ」
「ですから」
弁護士は、そのまま続けた。
「会員さんがお金をお預けになったのは、昔の決まりのときです。据置を延ばす決めは、あとから、理事会だけで貼り替えられました。もう打った球に、あとから決めた規則は効きません。……大庭さんの、いまのお話のとおりです」
部屋が、静かになった。
長いこと裁定をやっとるから分かる。いまのは、文句の付けようがない。裁定、異議なし、や。
「あれは、無効です。決議に効力はありません。当時から、です」
当時から、が効いた。十五年やぞ。十五年、わしはあの決議を、クラブの柱や思うて生きてきた。
「……ほな、聞くがな。この十五年、何がクラブを守っとったんや」
「請求が、来なかったことです」
「なんで来んのや」
「分かりません。私の職業では、そこは分からないことになっています」
聞いとらんだけで、知らんのとは違う。いつもの一枚を出しかけて、仕舞うた。今日は、出しどころがない。聞いとらんのやない。知らんかったんや。誰も教えてくれんかったんやない。誰も知らんことを、わしだけが知っとる顔で、十五年座っとったんや。
支配人は隣で、何も言わんと聞いとった。手帳も出しとらん。あの人が手帳を出さん話は、数字にならん話や。今日のわしは、数字にもならんかった。
帰り際に、支配人が言うた。
「大庭さん。今日のお話は、助かりました。決議の年のことを順番に話せる方は、もう、大庭さんしかいらっしゃいません」
「……字引の仕事や」
「はい。それで、その」
支配人が、めずらしく、言葉を選んどった。
「同意書のことは、また改めて」
「宿題に、させてくれ」
わしはそう言うて、応接を出た。
ロビーのいつものソファに、座らんかった。座ったら、誰かが寄ってくる。寄ってきたら、わしはまた、慌てんでもええ、と言うてしまうかもしれん。言うた相手の顔が、今日は一人ずつ思い出せた。思い出せる、いうのは、ええことやないな。
その晩、家で、三冊とも開かんかった。
開かん夜は、初めてやった。紳士の載っとらん夜も、わしは開いて確かめたんや。今日は、確かめることがない。規則書に載っとらんことが、また一つ増えただけや。載っとらんことのほうが、だんだん増えていきよる。
最後に、お断りを。この作品はフィクションです。作中の制度や手続きについては、できるだけ正確に書くようにしていますが、筆者はその分野の専門家ではありません。制度はこの先変わっていきますし、同じ制度でも、一人ひとりの事情によって扱いが変わります。ここに書いたことを、ご自身の判断に使わないでください。実際に手続きが必要な方は、資格のある方に必ずご相談ください。これらの記述について、筆者は責任を負うことができません。




