一枚だけの空白
スタート表から、名前が二つ減った。冬のあいだに、葬式が一つあった。朝の組の人や。春になって、もう一人、息子の町へ越していった。
予約表の朝の欄に、その二人の印は、もう付かん。俺は印を足す係やから、付かんようになったことも、俺がいちばん先に知る。数えとるわけやない。覚えとるだけや。
何日か経った夕方、支配人室に呼ばれた。
行ったら、篠田がおった。
閉店のあとで、事務室の明かりは半分落としてある。机の上には、何もなかった。支配人は俺と篠田に椅子を勧めて、自分は座らんかった。
「中根さんから、篠田さんに、お話があります。わたしは、席を外します」
篠田が、俺のほうを見た。俺は、紙袋を膝に載せとった。
「お茶は、濃いのをお願いしてあります」
支配人はそれだけ言うて、出ていった。なんで濃いんや、と思うた。思うとるうちに、高砂さんが盆で濃い茶を二つ置いていった。何も言わんと、置いて、出ていった。戸の閉まり方が、いつもより丁寧やった。
濃い茶の作法を、俺は知らん。知らんまま、飲んだ。うまかった。
篠田は、湯呑みに手ぇを付けんと、待っとった。受付の待ち方や。急かさん待ち方いうのは、それだけで人をしゃべらせる。節子さんも、そういう待ち方をする人やった。
俺は紙袋から封筒を一つ出して、机に置いた。
空の封筒や。三十年、何も入らんかった。表書きだけ、書いたる。
篠田が、封筒を手に取った。読んで、俺の顔を見て、また読んだ。
「……節子さん、って」
「あんたの、お祖母さんや」
篠田は、封筒をもういっぺん見た。三回目や。何も書いてない紙を三回見る人間を、俺は初めて見た。いや、書いたるのは表書きだけや。表書きを三回、見とった。
「祖母を、ご存じなんですか」
「知っとる、いう言い方では足らんな」
俺は、順番に話した。順番に話すんは、性に合わん。合わんが、この話は順番を飛ばしたらあかん話や。
十八のとき、俺はここへ拾われた。行くとこのない小僧や。そのころの受付に、主任がおった。内山節子さんや。予約の取り方も、客の名前の覚え方も、金の勘定も、詫びの言い方も、全部あの人に教わった。キャディの仕事は外で覚えたが、人間の仕事は、受付で教わった。
篠田が、途中で、口を挟んだ。
「祖母が、ここに、勤めて」
「勤めとった。あんたの座っとる受付は、もともと節子さんの持ち場や」
「……知りませんでした」
「やろな。辞めた人間は、自分の話をせん。ええ辞め方をした人間ほど、せんのや」
それからな、と俺は言うた。あんたの紙袋の畳み方。輪ゴムの留め方。忘れ物の控えの書き方。あれは、節子さんの畳み方や。
「教わってません」
「教わらんでも移るんや。事務いうもんは」
篠田は少しのあいだ黙って、湯呑みを持って、置いた。飲まんかった。
「それで……この封筒は」
「あの土地の話や」
口が十七に分かれとって、十六は俺が買うた。そこまでは、先に支配人に話したとおりや。篠田は、驚かんかった。驚く代わりに、背筋が受付の背筋になった。仕事の話として聞く気ぃや。それでええ。
「最後の一口が、節子さんの分や。……あんたの分や、いまは」
「どうして、祖母にだけ」
「言えんかったんや」
三十年、言えんかった。節子さんの旦那さんが遺した土地や。それを銭で買わせてくれ、と切り出すんは、俺には、あの人の仏壇に値ぇ付けるんと同じことに思えた。よその家には言えた。世話になっとらん家やからや。世話になった家にだけ、言えん。筋が通っとらんのは、分かっとる。分かっとって、三十年そのままにした。
「そのままに、って……法事とか、お会いには」
「会うとった。年にいっぺんか、二へんな。土地の話は、どっちからもせん。それが決まりみたいになっとった」
いっぺんだけ、向こうから言わはったことがある。何年か前や。帰り際に、玄関で、世間話の続きみたいに言わはった。
――私が死んだら、孫に決めさせて。
「俺は、はい、と言うた。それから先は、どっちも、その話をせんかった」
篠田は、封筒の表書きを見たまま、動かんかった。
「せやから、俺は待っとった。待っとるうちに、亡くなりはった」
言うてから、湯呑みの茶を飲んだ。濃い茶は、こういうときに飲むもんかもしれん。話の区切りに、ちょうどええ濃さや。
篠田が、顔を上げた。
「お通夜に、いらっしゃらなかったのは」
「……行けんかったんや」
これも、順番を飛ばさんと言わなあかん。
「通夜の席に並んだらな、俺は、香典を持った近所の人間の顔をして立つことになる。せやけど、俺の中身は違う。節子さんが亡うなって、いちばん困って、いちばん……その先の話が動く男や。そういう男が、あの晩、あんたの前で焼香でけるか。でけんかった」
「香典は、いただきました。……お字の、丁寧な」
「字ぃは、節子さんに直されたからな。おまえの字は読めん、て。読める字ぃになるまで、伝票を書き直させられたんや」
篠田が、初めて、少しだけ笑うた。笑うてから、すぐ真顔に戻った。真顔のほうで、言うた。
「わたしに、売ってほしい、というお話ですか」
「違う」
これだけは、はっきり言うた。
「頼みに来たんやない。売ってくれとも、売るなとも、俺は言わん。節子さんが、孫に決めさせて、と言うたんや。ほんなら、決めるんはあんたや。俺の仕事は、あんたが決める前に、知っとることを全部並べることや。並べた」
「知らない会社からの、お手紙も来ています。伯父は、その、売る話も」
「聞いとる。それも、あんたらの話や。俺は口を出さん」
篠田は空の封筒を、机の真ん中に置き直した。それから、鞄から手帳を出した。
「控えて、いいですか」
「おう」
「日付と、いまのお話を。……決めるのは、それからにします」
泣くより先に控える。あれも節子さんの流儀や。俺は、ええよ、と言うて、篠田の鉛筆が止まるまで待った。
帰り際、廊下に支配人が立っとった。聞いとった顔やない。聞かんと決めて、決めたとおりにしとった顔や。数字にならん話やから、外したんやろ。そういうことにしとく。
俺は、一言だけ言うた。
「終わりました」
「はい。……お茶は、どうでしたか」
「濃かった」
「そうですか」
明くる朝、印の紙は俺が自分で受付へ取りに行った。篠田は、おはようございます、と言うた。いつもの言い方やった。
空の封筒は、持って帰った。
中身が入る日が来るんか、来んのか、俺は決めん。球は、あるがままや。落ちた場所から打つんは、俺やない。
最後に、お断りを。この作品はフィクションです。作中の制度や手続きについては、できるだけ正確に書くようにしていますが、筆者はその分野の専門家ではありません。制度はこの先変わっていきますし、同じ制度でも、一人ひとりの事情によって扱いが変わります。ここに書いたことを、ご自身の判断に使わないでください。実際に手続きが必要な方は、資格のある方に必ずご相談ください。これらの記述について、筆者は責任を負うことができません。




