数えはじめ
翌日から数えはじめた。
刷って使い終わった予約表は、月ごとに綴じて受付の下の引き出しに入れる。年が替わると、一年ぶんを箱に移して保管庫に置く。わたしが入る前のぶんも残っている。誰が始めたのかは知らない。
数えるのは簡単だった。名前の横の〇無に鉛筆で点を打って、最後に数える。木曜から水曜まで、七日ぶんで八十七。
わたしはその数を、予定表の余白に書いた。書いてから、これでいいのだろうかと思った。
数えているあいだ、同じ名前を何度も書いた。月曜に書いた名前を、水曜にも金曜にも書く。前からそうだったし、変だと思ったことはない。
予約は、いまだにファクスでも来る。丸まった紙を伸ばして名前を読む。手書きは読めないことがある。読めない名前は、かけ直して確かめるか、当てて入れる。
当てて入れた名前には、印のつけようがない。
金曜に、予約の電話を取った。
組の代表が名前を言って、日にちと時間を言う。同伴の方の名前も聞く。ここまではいつもどおりだ。
途中の名前で、手が止まった。
聞いたことのない名前だった。会員さんかもしれないし、ビジターかもしれない。会員だとしても、〇無かどうかが分からない。
いつもなら分からなくてよかった。あとで中根さんか誰かが見て、印を足す。そうやって回っていた。
でもわたしは、数えることになっていた。
「あの、その方は」
そこで詰まった。
無料の方ですか、とは聞けなかった。プレー代を払わない方ですか、はもっとひどい。会員番号を、と言えばいいのかもしれないが、そらで言える人はほとんどいない。
「……ご一緒に回られるのは、いつもの方ですか」
電話の向こうが少し黙った。
「いつもの、というと」
「すみません、こちらの控えの確認で」
相手はいい人で、自分から会員番号を調べて教えてくれた。番号を名簿で引くと、名前は載っていた。
載っていただけだった。
そのあとも何度か同じことがあった。それからは聞かなくなった。分からない名前は中根さんに回す。回せない日は、そのままだ。
だから八十七という数は、そのままにした日のぶんだけ足りない。
月曜に、正誤表が届いた。箱ではなく紙の束で、それと、印刷所の人が二人。
挟み込みはそちらでお願いします、と沢渡さんが電話で言ったのは、着任した日のことだ。あのときは言い方だと思っていた。二人が事務室の隅で、一冊ずつ三ページ目を開いて紙を挟んで、閉じて、積んでいくのを見ていたら、あれは言い方ではなかったのだと分かった。
二人は朝から始めて、暗くなる前に終わった。途中で高砂さんが茶を持ってきて、二人はそのたびに立ち上がって礼を言った。そのぶん遅くなった。
名簿の三ページ目には、紙が一枚ずつ挟まっている。『支配人の欄の誤りについて』という見出しと、正しい肩書きが刷ってある。
その日の夕方、大庭さんが受付の前を通って、本社の人はもう帰ったのか、と言った。名簿はもう直っている。
火曜に、名簿と会費の請求書を発送した。それで午前中が終わった。水曜の閉店まで数えて、七日ぶんが揃った。
数を持っていくつもりだったのに、木曜は電話で潰れた。名簿が届きはじめたのだ。
最初は、届きましたという挨拶だった。そのうち、三ページ目のことを言う人が出てきた。
「あの、これ、支配人さんは奥様なんですか」
「いえ、誤植です。訂正の紙が挟んでございます」
「ああ、あれね。あれを読んだから聞いてるんだけど」
そう言われて、初めて分かった。紙が挟まっていなければ、あんなページを開く人はいない。紙が挟まっていると、人はそこを開く。
別の人は、こう聞いた。
「奥様やったら、旦那さんは何をしてはる人なん」
「誤植でございますので、旦那さんはおりません」
「旦那さんがおらんのに、奥様なん」
「……誤植でございます」
「誰の」
「印刷所の、です」
「印刷所の奥様なん」
わたしは少し黙って、最初から説明した。最初から説明すると、長い。
電話は、受付と、事務室の奥にある。ふだん奥のほうは鳴らない。
その日は、両方鳴った。
受付を取ると奥が鳴る。奥を取りにいくと受付が鳴る。やっと取るころには、先の人が待っていて、待たせたぶんだけ話が長くなる。
昼前にファクスが動きはじめた。予約だ。誰も取れないので、紙は床まで伸びて、そこから丸まった。わたしは受話器を肩に挟んだまま、それを見ていた。
聞かれたのは受付だけではなかった。高砂さんは売店で、中根さんはスタートで聞かれた。中根さんの答えは、知らん、だった。
午後に、大庭さんが受付の前に来た。
電話中だと分かっていて、待っていた。待ちながら、名簿の三ページ目を指で叩いていた。
わたしは電話の人に、少々お待ちください、と言って、送話口を手で押さえた。
「大庭さん、どうされました」
「これな、支配人さんが」
そこで、奥の電話が鳴った。
わたしは受話器を肩と耳で挟んだまま、コードの伸びるかぎり事務室のほうへ下がって、身体をねじって奥の受話器を取った。両手がふさがった。大庭さんはカウンターの向こうで、口を開けたまま待っている。
「――誤植でございます」
言ってから、どちらに言ったのか分からなくなった。
奥の受話器の向こうは、黙っていた。
「……失礼しました。どちらさまでしょうか」
「沢渡です」
支配人室の内線だった。
少し間があった。
「明日の午後、時間をもらえますか」
「……はい」
それだけだった。誤植のことは、何も言われなかった。
肩の受話器のほうは、まだ待っていた。待っていた人は、三ページ目のことを聞いた。
両方切ったとき、大庭さんはまだいた。
「それでな、さっきの続きやけどな」
「はい」
「この字な、わしが最初に気づいたんや。言おう思うて来たら、もう直しの紙が挟んどった」
「……はい」
「わしが最初や。それだけや」
大庭さんは名簿を小脇に抱えて、帰っていった。
木曜と金曜で、十一件あった。十一件とも、聞きたいことは同じだった。
十二件目の人は、奥様によろしく、と言って切った。
金曜の午後に、わたしは支配人室へ行った。先に、電話のことを言った。
「三ページ目のことで、お問い合わせが十一件です」
「内容は」
「……支配人が奥様なのか、という」
沢渡さんは、少し考えてから言った。
「正誤表の単価は、いくらでしたか」
「一枚三円です」
「九千円ですね」
怒った様子も、笑った様子もなかった。
わたしは紙を出した。
「それと、こちらが数です。七日で八十七。分からなかったぶんは入れていません」
沢渡さんは紙を見た。それから、少し間があった。
「これは、回数ですか」
「回数です」
「何人ですか」
わたしは口を開けて、閉じた。またやっている。
今度は、答えが出てこなかったのではなかった。答えを出す道がないことに、そのとき気づいたのだ。
毎日来る人がいる。たまにしか来ない人もいる。八十七のうち何回が同じ人なのかは、点を数えても出てこない。名前を突き合わせても、この七日に来なかった人は出てこない。
それより先に、確かめなければならないことがあった。
「少し、お時間をいただけますか」
わたしは事務室に戻った。
会員のことはパソコンに入っている。名簿の原稿も、会費の請求書も、ここから出す。画面を開いて、欄を端から見ていった。名前、会員番号、住所、入会年。それだけだった。
〇無に当たる欄は、無かった。欄が無いのだから、誰も入れようがない。
名簿のほうも、めくって確かめた。発送のとき、手元に残しておいた一冊だ。会員一覧にも、役員一覧にも、理事一覧にも、巻末の規則の抜粋にも、そういう区別はない。三千部刷って全会員に送った名簿に、その線は一本も引かれていない。
それを持って、支配人室に戻った。
「パソコンにも、名簿にも、載っていません」
「どこに載っていますか」
「……予約表だけです」
沢渡さんは、机の上の名簿を一ページずつめくった。速くはなかった。三ページ目で、挟んだ正誤表が落ちかけて、指で戻していた。
「予約表は、いつからありますか」
「保管庫の箱が、たぶん十年ぶんくらいです」
「その前は」
「分かりません」
沢渡さんはうなずいて、名簿を閉じた。
その帰りに中根さんのところへ寄って、あの印は誰が決めているんですか、と聞いた。
「昔からや」
「昔って」
「俺が来る前からや」
中根さんは十八のときからここにいる。それはわたしも知っている。それ以上は、そのとき聞かなかった。
その夜、みんなが帰ってから保管庫の箱を全部開けた。
箱は年ごとに一つで、中の綴りは紐で束ねてある。古い箱ほど、紙が茶色い。いちばん下の箱を出すのに、上の箱を全部床に下ろした。
いちばん古い束を開くと、わたしが入るずっと前の四月だった。刷った字ではない。全部、手で書いてある。線が細くて、数字の四の書き方がいまと違う。それでも、名前の横には〇無があった。同じ大きさで、同じ位置に、同じだけ並んでいた。
その下には、何もなかった。箱の底に、紐の切れ端が落ちているだけだった。
わたしは束を戻して、箱を順に積み直した。
この印を最初に書いた人は、何人ぶん書くつもりだったのだろう。その数は、たぶんどこかに書いてある。書いていないなら、誰かが覚えているはずだ。




