支配人夫人
支配人夫人。
それが、新しい支配人の肩書きだった。少なくとも、印刷所から届いたばかりの会員名簿の三ページ目には、はっきりとそう組まれていた。
三千部。
わたしが最初に見つけたのは、段ボールを開ける係がわたしだったからで、名簿を読みたかったわけではない。上のを抜いて、なんとなくページをめくった。役員一覧、理事一覧、事務局。そして、支配人の欄。
沢渡冴子(支配人夫人)
わたしはその行を三回読んだ。三回読んでも文字は動かなかった。
受付のカウンターの向こうでは、中根さんがキャディたちの朝の割り振りを終えて、腕を組んで立っていた。わたしはできるだけ何でもない顔で近づいて、名簿を開いて見せた。中根さんは老眼鏡を出さずに顔を近づけ、少しだけ黙ってから、こう言った。
「印刷屋に電話しといたほうがええな」
それだけ言って、朝の割り振り表に戻っていった。中根さんはいつもそうだ。世界の終わりが来ても、たぶん先にスタート時間を確認する。
新しい支配人が来るという話は、二月から出ていた。本社から来るらしい、女の人らしい、ゴルフはやらないらしい。
その人は、八時十分に来た。
正面ではなく従業員通用口から入ってきて、事務室の入口で足を止め、それから中に入ってきた。紺色のジャケット。ヒールは低い。手には書類鞄だけ。花もなければ、菓子折もなかった。
「今日から支配人を務めます、沢渡です」
それだけだった。事務室にいた全員が、それぞれの椅子の上でなんとなく背筋を伸ばして、なんとなく座り直した。誰も拍手をしなかったし、たぶんしないほうが正解だった。
沢渡さんは奥の支配人室に入って、書類鞄を机に置いた。わたしは名簿を持って続き、三ページ目を開いて指をさした。
「あの、これ、印刷所のミスで」
沢渡さんは、わたしが三回読んだ行を、一度だけ読んだ。それから聞いた。
「何部届いてます」
「……三千部です」
「刷り直しの見積もりは」
「まだ、取ってないです」
「取ってください。それと、正誤表を挟む場合の単価も。挟み込みの手間賃も別で出してもらってください」
わたしは、はい、と言った。言ってから、何かおかしいと思った。
この人は、怒らなかったのだ。恥ずかしがりもしなかった。
自分の肩書きが『支配人夫人』になっている名簿が三千部あって、それをこれから全会員に送るという状況で、この人が最初に出した言葉は単価の話だった。
印刷所には、朝のうちに電話がつながった。担当の人は泣きそうな声でひとしきり平謝りして、前の版の役員名簿にあった『令夫人』が辞書に残っていて、という説明まで全部してくれた。
電話を代わった沢渡さんは、すぐだった。
「刷り直しでも正誤表でも構いません。御社のご負担になる、ということでよろしいですね」
そこで少し間があった。
「では正誤表で。挟み込みはそちらでお願いします。こちらの人間の手が空きませんので」
受話器を置いて、沢渡さんはわたしのほうを見た。
「刷り直しだと納期が二週間延びます。会費の請求書を名簿と一緒に送る予定でしたよね」
わたしはまた、はい、と言った。予定表を見なくても分かる予定を、この人はもう知っていた。
昼前に、大庭さんが来た。
大庭さんはロビーのソファに座って、競技委員会の資料を膝に広げて、通りかかる人全員に六番の池の話をする。わたしはもう、そらで言える。この日は相手が悪かった。沢渡さんがロビーを横切ったのだ。
「おや、あなたが本社の」
大庭さんは立ち上がりかけて、少しよろけて、それから言った。
「奥さ……いや、支配人さん、でしたな」
名簿はまだ配っていない。だからこれは、印刷所とはまったく無関係に、大庭さんの中から自然に出てきた言葉だった。
沢渡さんは表情を変えずに名刺を出した。大庭さんは両手で受け取って、老眼鏡を出して、字を確認して、うん、と言った。何がうんなのかは分からなかった。
それから、六番の池の話が始まった。
沢渡さんは書類鞄を持ったまま立っていた。座らなかったし、座らせてももらえなかった。杭の色まで来たときに、御代田先生が入ってきた。水曜だから当然だ。
「おや、大庭さん」
「先生。ちょうどええ。新しい支配人さんや」
沢渡さんは、名刺をもう一枚出した。御代田先生は両手で受け取って、表を読んで、裏を返して、また表に戻した。
「ああ、事務のほうの」
「支配人さんや」
「支配人さんの」
「支配人さん、が、や」
言い合いはしばらく続いた。沢渡さんは黙って立っていた。済むと、御代田先生は沢渡さんのほうを向いた。
「それで、支配人さんは、いまどちらに」
名刺は、まだ手に持っていた。
「今度、一緒に回れないかと思いましてね」
「支配人はコースに出ませんので」
わたしは受付から言った。この答えを使うのは、この日が初めてではない。支配人の前で言うのは初めてだった。
そこへ高砂さんが、売店から茶菓子の皿を持って通りかかった。事務室へ持っていく途中だ。新しい支配人にというより、あれは事務室に持ってくる用の菓子で、三十年前から同じ袋のものだと思う。
高砂さんは足を止めて、沢渡さんを見た。
「あらまあ、若い人が」
「四十四です」
高砂さんは声を出して笑った。この日、クラブハウスで笑い声が出たのは、たぶんそれが最初だった。
その四十四を、大庭さんが拾った。
「いや、もっと前や。五十年は前や」
「……五十年前の、何のお話ですか」
沢渡さんが聞き返した。聞き返してしまった、のだと思う。ここでは誰も、大庭さんに聞き返さない。
「せやから、池や。六番のな、あれは昔、沢やったんや。杭の色が違うんはそのせいでな」
「池が、どうかしましたか」
御代田先生が話に入ってきた。名刺は持ったままだった。
「先生には、もう話したがな」
「それで、支配人さんは、いまどちらに」
「支配人さんはな、いま、池の話を聞いとる」
初めて全員の話が繋がって、繋がった先が、それだった。
沢渡さんは、わたしのほうを一度だけ見た。わたしは予約表を見た。助け舟は出せない。この航路に、舟はない。
そこから先は、三つの会話が、一人に向かって同時に進んだ。
「それでな、あの水は湧いとるんや。せやから冬でも凍らん」
「それは、いつごろなら空いてますでしょう」
「空いとらん。年中湧いとる」
「年中。……お忙しいのですなあ」
「お茶、淹れましょか。熱いのと、薄いのとあるけど」
「冬はことに冷えるで、あそこは」
「ほな、熱いほうを、支配人さんに」
「支配人さんは、いま忙しい言うとるやろ」
池の話と、お誘いと、お茶が、それ、あれ、どちら、を取り合っていた。どの答えも、隣の会話への答えとしてだけ、完璧に筋が通っていた。沢渡さんは書類鞄を持ったまま、順番に三人の顔を見ていた。目は動いて、足は一歩も動いていなかった。
それから、一度だけ息を吸って、言った。
「――池は、いずれ拝見します。予定は、空いておりません。お茶は、熱いのをいただきます」
三人が、初めて同時に黙った。
大庭さんが、御代田先生と高砂さんの顔を順に見てから、感心したように言った。
「……この人、話が通じるで」
この日、沢渡さんがロビーで成立させた会話は、最後のその一文だけだった。
電話が鳴って、わたしは電話を取った。
切って顔を上げたら、ロビーには誰もいなかった。
中根さんが受付の横を通っていくところだった。
「なんて言ったんですか」
「九時半の組が待っとる、て」
九時半はとっくに過ぎている。誰も待っていない。
それでも三人とも動いた。
沢渡さんのためにやったのかどうかは分からない。中根さんは、ロビーに人が溜まるのを嫌う。
名刺はどちらも、ロビーには残っていなかった。お茶は、少しあとで事務室に届いた。
閉店の作業をしていたとき、沢渡さんが受付に来た。刷ったばかりの、翌日の予約表をカウンター越しに見ている。
予約はパソコンで受ける。ウェブで入れる人と、電話の人と、ファクスの人がいて、どこから来ても最後は同じ画面に入る。朝いちばんに使うぶんは、前の日に紙へ刷る。時間の枠に組の名前が並んで、翌日は四月にしては入っているほうだった。
刷った紙に、鉛筆で印を足すのが決まりだ。
「この、丸に無、というのは何ですか」
沢渡さんが指したのは、名前の横についた小さな印だった。〇の中に『無』。わたしが入社したときにはもうそうやって足されていて、教わったとおりに足している。
「無料の方です」
「無料」
「はい。プレー代がかからない方たちで。会員さんです」
沢渡さんは予約表の上を、指でゆっくり追った。朝の枠の端から端まで。〇無、〇無、〇無。
「何人いますか」
わたしは口を開けて、閉じた。
開けたのは答えようとしたからで、閉じたのは、答えが出てこなかったからだ。毎日書いている。毎日見ている。予約の電話も、わたしが取っている。
「……数えたこと、ないです」
沢渡さんは、予約表から目を上げなかった。怒った顔でも、あきれた顔でもなかった。ただ、そこに書いてある文字を、初めてその字を見る人のように見ていた。
「明日から、数えてもらえますか」
その夜、駐車場で車のドアを開けながら、わたしはなぜか、支配人夫人の三千部のことを考えていた。あの誤植は、じきに誰も覚えていなくなる。正誤表が挟まって、それで終わる。
この日、あの人を支配人と呼ばなかったのは、印刷所だけではなかった。
ただ、事務室の人間はみんな、あの人のことを、本社の人、と呼んでいた。名簿が刷り直されなかったのと同じくらい、その呼び方も直りそうになかった。
暫定球、という言葉がある。
打った球が見つからないかもしれないとき、もう一球打っておくことをそう言う。見つからなければ、暫定球が正式な球になる。
わたしたちはたぶん、あの人をそういうものとして見ていた。本社がとりあえず打った、もう一球。
あとから考えれば、その見方は間違っていた。ただ、間違っていたと分かるのはずっと先のことで、その日のわたしは、明日から〇無を数えなければならない、とだけ思っていた。




