ウォームアップ
五時半に来ると、まだ暗い。
クラブハウスの鍵は中根さんが持っていて、僕は持っていない。だから練習場の裏の木戸から入る。
木戸には南京錠がついている。去年、新しいのに替わった。ただ、戸のほうが下がっていて、閂は何年も通っていない。持ち上げて横へずらすと、錠がかかったまま開く。
来たばかりのころ、中根さんに言ったことがある。
「戸、閉まらないんですけど」
「錠はかかっとるやろ」
「かかったまま開くんです」
「かかっとるならええんや」
それきりだ。今朝も、かかっている錠の横から入った。
打席の照明は、球洗いより先につける。一本だけ、去年からついたりつかなかったりする。これも言ったことがある。
「奥の照明、つかない日があるんですけど」
「叩け」
「叩いてもつかない日は」
「そういう日もある」
今朝は、叩く前についた。そういう日もある。
球洗いは、スイッチを入れると、ごろごろ、と鳴りだす。しばらくすると勝手に止まる。そのあいだに打席を回って、マットの下の砂を掃いて、ゴムのティーを真ん中に戻す。高くても低くても文句が出る。真ん中がいちばん少ない。
三月の朝は息が白い。マットの下の砂が凍って、掃いても取れない日がある。今朝は取れた。
洗い終わった球を籠に詰めて、打席の後ろに並べておく。球はただで、みんな好きなだけ打つ。
七時までに籠を積んでおく。それが僕の朝だ。
その球が、少しずつ減っていく。夕方に拾って戻るぶんは、朝に出したぶんより、いつも少しだけ少ない。打った人が持って帰るわけではない。
カラスが持っていく。ネットの外へ運んで、どこかに落とす。落ちたものは戻ってこない。
去年の春に、鷹のデコイを買った。プラスチックの鷹で、棒の先につけて奥に立てる。カラスは鷹を怖がると書いてあった。最初の何日かは来なかった。それからは、上に乗るようになった。肩が平らで、乗りやすいらしい。
場所を変えても乗られた。中根さんに言った。
「デコイ、効いてないんですけど」
「もう一個買え」
「効いてないのに、ですか」
「一個で効かんのやから、二個なら分からんやろ」
冬にもう一つ買った。いまは二つとも使われている。
空が白んできたら照明を落とす。例の一本は、落とさなくても勝手に消えていることがある。
七時になる少し前、駐車場に軽トラックが入る音がした。今井さんだ。停めるのが早い。一度で入れて、切り返さない。音で誰が来たかは分かる。
「おはようございます」
「おう。寒いな」
「はい」
今井さんはいつも同じ打席に入る。理由は聞いたことがない。
そのすぐあとに残りが来て、いつもの四人になる。
今井さんの球は高く上がらない。低く出て、途中から少しだけ上がって、いつも同じあたりに落ちる。転がる距離まで同じに見える。
「どうや、今日は」
「いいと思います」
「どこがや」
「……最初のところです。上げるときに、こう、途中でぐっと止まらないで、そのまま行ってるので。止まると、あとでパンって出るんです」
「そのままか」
「はい。そのままです」
今井さんはもう一球打った。同じところに落ちた。
「わしはもう、そのままでええんや」
そう言って笑った。何がおかしいのかは分からなかったけれど、こういうときは笑っておけばいいと思っている。
打席のあいだで、話が始まった。
「四月から替わるらしいな」
「なにが」
「支配人や」
「ああ」
球を打つ音がした。
「本社から来るんやと」
「へえ」
「女の人らしいで」
「ゴルフはやらんという話や」
「やらんのか」
「やらんらしい」
「ゴルフをやらん支配人て、何をするんや」
「支配人をするんやろ」
「支配人て、何をするんや」
球の音が、あいだに入った。
「……知らんな」
「わしらの知らん仕事や」
誰かが短く笑って、それで終わった。次に誰かが喋ったのは、デコイの話だった。
「あれ、まだ乗られとるんか」
「乗られとる」
「目やろ。目が動かんから、鳥は分かるんや」
「動く目のがあるんか」
「あるやろ。いまはなんでもあるんやから」
「値段がな」
「値段は、聞いてみんと分からん」
「聞いてどうするんや。買うんか」
「買わん」
そこで四人とも黙って、何球か打った。
デコイの話は、去年の夏からずっと同じところで止まっている。
一羽が、打席のほうへ歩いてきた。
どこから来たのかは見ていなかった。今井さんの隣の打席の脇まで歩いてきて、そこで止まった。
止まって、こちらを見た。
「おい」
「来とるで」
「見えとる」
みんな見ていて、誰も動かなかった。打つのをやめなかったのは今井さんだけで、その一球のあいだに、カラスは籠まで来て、いちばん上の球をくわえた。
籠から取るのは、初めて見た。
僕が手を叩くと、カラスは少し行って、止まった。球はくわえたままだった。
「もっと大きい音や」
「音は効かん。追いかけんと」
「追いかけたらネットのほうへ行くだけやろ」
「行かせたらええがな」
誰も打席から出なかった。出ないまま、僕にやり方を教えてくれた。四人とも違うことを言っていた。
もう一度叩くと、戻ってきた。
そこで、今井さんが動いた。
手袋を外して、それを投げた。
手袋は、思ったより飛んだ。カラスの手前に落ちて、カラスは一歩よけた。それだけだった。
誰も何も言わなかった。
カラスは球をくわえたまま、手袋のところまで歩いた。
くわえていた球を、いったん置いた。
それから手袋をくわえて、飛んだ。
四人がそろって奥を見た。この朝、四人のうちの誰かが練習場の奥を見たのは、それが最初だった。
「……あれ、革やろ」
「革や」
「食えんやないか」
「食うために持っていくんとちゃうやろ」
「ほな何のために持っていくんや」
「巣に敷くんやろ」
「革をか」
「ええ巣やな」
今井さんが僕のほうを向いた。
「悪いけど、球のほう、拾うてきてくれるか」
僕は拾いにいった。球はあった。手袋はなかった。
戻ってくると、話は風の向きに変わっていた。今日は追い風だとか、いや朝のうちだけだとか。手袋の話は誰もしなかった。
今井さんは、そのあと素手で打っていた。何も言わなかった。
僕は籠を並べながら聞いていた。いまの支配人には、数えるほどしか会ったことがない。顔は思い出せる。声は思い出せない。替わっても、球は洗うと思った。
ひとしきり打って、四人は引き上げていった。今井さんが最後だった。マットの砂を自分で払ってから出ていく人は、この人だけだ。
「ほな」
「いってらっしゃい」
四人はカートを取りに行った。朝いちばんの枠に、この人たちが入る。
僕は打席を回って、籠を集めた。今井さんの打席のマットの上に、水筒の蓋があった。今井さんのだ。ポケットに入れて、あとで売店に預けた。そういうことになっている。
籠は人数ぶん出して、空で戻ってきたのは今井さんのだけだった。あとは半分ほど残っていた。
そのあとは、ずっと同じだった。籠を半分も打たずに出ていく人が続く。空いた打席のティーを真ん中に戻すと、戻したそばから次の人が高くする。
やがて車の音が来なくなって、最後の組が出ると打席が空いた。駐車場は、僕が来たときとは反対に、ほとんど埋まっていた。
ここからが球拾いだ。手押しの集球機を押して、球の溜まるネットの手前から順に取っていく。
拾っている途中で、今井さんが歩いてきた。
「蓋、こっちやったか」
「売店に預けました」
「……おう。そうか」
「前半どうでした」
「四十七。六番で二つ入れた」
今井さんは池のあるほうを顎で指した。
「ほな、後半行ってくるわ」
「いってらっしゃい」
全部拾い終わると、昼が近かった。夕方にもう一度、同じことをする。
ここで打っていいのは、支度が終わったあとと、球拾いが終わったあとだ。研修生はそういうことになっていると、来た日に中根さんから聞いた。書いたものはない。
この日は、昼までだった。
僕はいちばん端の打席に入って、自分のクラブを出した。籠は自分で詰めた。いちばん上まで入れた。
打つ前に、少しだけ手を回す。今井さんの真似だ。効くのかどうかは知らない。
誰もいない練習場は、音が遠くまで届く。奥のネットに当たる音まで聞こえる。
一球目は、パンと出た。




