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支配人はコースに出ません  作者: 一之瀬 樹
十三番 待ちの組
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患者名簿

 水曜に行くと、受付の横に小さい机が一つ増えていた。


 同意書の机である。篠田さんが座って、来る人に紙を渡し、聞かれたことに答えていた。渡す紙は一枚。答える言葉は、たぶん、決められた範囲。あの机は、受付というより、うちの医院の受付に似ていた。渡すものが決まっていて、痛い話が控えている机は、みなあの顔になる。


 私は、その場で書いた。


 説明会の晩に読んで、決めてあったからだ。預かってもらっているお金の一部を、ないことにする。そのかわり、この山は残す方へ進む。書いてあることは、それだけだった。それだけのことが、一枚になるまでに、どれだけの数字が要ったのかは、十五分の説明で聞いた。


 判子は、持ち歩いている。歯科医は、書類の多い商売なのである。


 押して、出した。篠田さんが受け取って、少しのあいだ紙と私を見比べた。


「お早いですね」


「回数を数えるのは、誠意の問題です。一回目は、早いほうがいい」


 あとで聞いたら、私のが第一号だったそうである。十四回断られた男の判子は、軽い。軽くても、判子は判子である。


 その週のロビーは、荒れていた。


 紙を持って帰った人たちが、読んで、それぞれの顔で戻ってきていた。静かに質問をする人。質問の形をした文句を言う人。文句の形をした不安を言う人。篠田さんの机は、うちの待合室の混んだ日と、ほとんど同じ生態になっていた。


 怒鳴る人も、出た。


 声の大きい会員だった。うちの患者ではない。歯の丈夫な家系というのは、いるのである。


「あんたが来てから、削る話ばっかりや。あんた、ほんまは潰しに来たんやろ」


 支配人は、演台のときと同じ姿勢で立って、怒鳴られていた。訂正もせず、頭も下げず、ただ聞いていた。あの立ち方は、慣れている立ち方だった。


 気がついたら、立っていた。


 かき揚げの日と同じである。体が先に動くことが、私にはたまにある。ただ、あの日と違って、この日は、動いた先で言うことも決まっていた。


「抜くと決まったわけでは、ありません」


 声の大きい会員が、こちらを向いた。


「いまは、悪いところを診てもらっている段階です。診てもらっているあいだに怒鳴る患者さんを、私は、治療できたことが一度もない」


「……あんた、歯医者やろ。関係あるかい」


「あります。この方は」


 私は支配人を手で示した。


「悪いところを、隠さずに全部言う方の医者です。全部言う医者は、患者に嫌われます。嫌われない医者が欲しければ、悪いところを言わない医者を探すことです。その医者は、抜く日まで、何も言いませんが」


 声の大きい会員は、何か言いかけて、やめて、紙を持ったまま出ていった。同意はしなかったと思う。


 支配人が、こちらを見た。


「御代田さん。助かります」


 十四回のお願いの、どの返事よりも、いい声だった。


 いい声だったことが、少し、こたえた。帰ってから待合室の椅子に一人で座って、しばらく考えて、考えるのをやめた。


 次の水曜に、受付で別のものを見た。


 朝の組の、年配のお二人である。二人とも、うちの患者だ。奥歯の具合も、家の場所も、知っている。そのお二人が、受付の窓口で財布を出していた。


「会費いうもんを、わしらも、払お思うてな」


 篠田さんが、固まった。


 固まってから、画面を操作して、また固まって、奥へ引っ込んで、支配人と一緒に戻ってきた。


「あの、大変申し訳ないのですが」


「なんや。受け取れんのか」


「……欄が、無いんです」


 お二人の会費を受け取ろうにも、請求の仕組みの中に、お二人の欄が無い。無いところには、入れようがない。三十年、請求が来なかったのと同じ理屈で、三十年ぶりの申し出も、受け取れないのだった。


 片方が言った。


「三十年、無かったんやから。あってもよさそうなもんやが」


 もう片方が言った。


「無かったから、無いんや」


 どちらも正しくて、どちらも役に立たなかった。


 支配人が、前へ出た。


「作ります」


 短かった。


「欄を作って、来月から、お受け取りできるようにします。今日のところは、お気持ちだけ、確かにいただきました」


 お二人は、ほな頼むわ、と言って、財布を仕舞って、帰っていった。


 帰り際に篠田さんの机に寄って、私は一つ申し出をした。


「同意書のことで、迷っておられる方が、いらっしゃるでしょう」


「……はい。たくさん」


「その中に、うちの患者さんが、かなりいるはずです」


「はい」


「うちで治療した人は、まず断らない」


 統計として言ったのだが、篠田さんは少し困った顔をした。


「それは、その、大丈夫な情報ですか」


「大丈夫です。診療の中身は言いません。私が言えるのは、誰が、話を最後まで聞く人か、ということだけです。待合室で二十年、それだけを見てきました。話を最後まで聞く人から順に説明に行けば、同意書は、怒鳴り合いにならずに済みます」


 篠田さんは、支配人のほうを見た。支配人は、少しのあいだ考えて、それから、お願いします、と言った。


 こうして私は、水曜の男から、名簿の男になった。


 持っているのは患者名簿ではない。患者名簿は医院のもので、外へは出さない。私が持ち出すのは、この町の口の中を見てきた二十年の、順番の勘だけである。誰から話すか。誰は最後にするか。それだけの勘が、この局面では、たぶん、いちばん役に立つ。


 その週のうちに、朝の組のお二人の欄が出来て、山の帳簿に、三十年ぶりの新しい列が生えた。


 私の判子は第一号で、お二人の会費は、新しい欄の第一号である。

 最後に、お断りを。この作品はフィクションです。作中の制度や手続きについては、できるだけ正確に書くようにしていますが、筆者はその分野の専門家ではありません。制度はこの先変わっていきますし、同じ制度でも、一人ひとりの事情によって扱いが変わります。ここに書いたことを、ご自身の判断に使わないでください。実際に手続きが必要な方は、資格のある方に必ずご相談ください。これらの記述について、筆者は責任を負うことができません。

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