患者名簿
水曜に行くと、受付の横に小さい机が一つ増えていた。
同意書の机である。篠田さんが座って、来る人に紙を渡し、聞かれたことに答えていた。渡す紙は一枚。答える言葉は、たぶん、決められた範囲。あの机は、受付というより、うちの医院の受付に似ていた。渡すものが決まっていて、痛い話が控えている机は、みなあの顔になる。
私は、その場で書いた。
説明会の晩に読んで、決めてあったからだ。預かってもらっているお金の一部を、ないことにする。そのかわり、この山は残す方へ進む。書いてあることは、それだけだった。それだけのことが、一枚になるまでに、どれだけの数字が要ったのかは、十五分の説明で聞いた。
判子は、持ち歩いている。歯科医は、書類の多い商売なのである。
押して、出した。篠田さんが受け取って、少しのあいだ紙と私を見比べた。
「お早いですね」
「回数を数えるのは、誠意の問題です。一回目は、早いほうがいい」
あとで聞いたら、私のが第一号だったそうである。十四回断られた男の判子は、軽い。軽くても、判子は判子である。
その週のロビーは、荒れていた。
紙を持って帰った人たちが、読んで、それぞれの顔で戻ってきていた。静かに質問をする人。質問の形をした文句を言う人。文句の形をした不安を言う人。篠田さんの机は、うちの待合室の混んだ日と、ほとんど同じ生態になっていた。
怒鳴る人も、出た。
声の大きい会員だった。うちの患者ではない。歯の丈夫な家系というのは、いるのである。
「あんたが来てから、削る話ばっかりや。あんた、ほんまは潰しに来たんやろ」
支配人は、演台のときと同じ姿勢で立って、怒鳴られていた。訂正もせず、頭も下げず、ただ聞いていた。あの立ち方は、慣れている立ち方だった。
気がついたら、立っていた。
かき揚げの日と同じである。体が先に動くことが、私にはたまにある。ただ、あの日と違って、この日は、動いた先で言うことも決まっていた。
「抜くと決まったわけでは、ありません」
声の大きい会員が、こちらを向いた。
「いまは、悪いところを診てもらっている段階です。診てもらっているあいだに怒鳴る患者さんを、私は、治療できたことが一度もない」
「……あんた、歯医者やろ。関係あるかい」
「あります。この方は」
私は支配人を手で示した。
「悪いところを、隠さずに全部言う方の医者です。全部言う医者は、患者に嫌われます。嫌われない医者が欲しければ、悪いところを言わない医者を探すことです。その医者は、抜く日まで、何も言いませんが」
声の大きい会員は、何か言いかけて、やめて、紙を持ったまま出ていった。同意はしなかったと思う。
支配人が、こちらを見た。
「御代田さん。助かります」
十四回のお願いの、どの返事よりも、いい声だった。
いい声だったことが、少し、こたえた。帰ってから待合室の椅子に一人で座って、しばらく考えて、考えるのをやめた。
次の水曜に、受付で別のものを見た。
朝の組の、年配のお二人である。二人とも、うちの患者だ。奥歯の具合も、家の場所も、知っている。そのお二人が、受付の窓口で財布を出していた。
「会費いうもんを、わしらも、払お思うてな」
篠田さんが、固まった。
固まってから、画面を操作して、また固まって、奥へ引っ込んで、支配人と一緒に戻ってきた。
「あの、大変申し訳ないのですが」
「なんや。受け取れんのか」
「……欄が、無いんです」
お二人の会費を受け取ろうにも、請求の仕組みの中に、お二人の欄が無い。無いところには、入れようがない。三十年、請求が来なかったのと同じ理屈で、三十年ぶりの申し出も、受け取れないのだった。
片方が言った。
「三十年、無かったんやから。あってもよさそうなもんやが」
もう片方が言った。
「無かったから、無いんや」
どちらも正しくて、どちらも役に立たなかった。
支配人が、前へ出た。
「作ります」
短かった。
「欄を作って、来月から、お受け取りできるようにします。今日のところは、お気持ちだけ、確かにいただきました」
お二人は、ほな頼むわ、と言って、財布を仕舞って、帰っていった。
帰り際に篠田さんの机に寄って、私は一つ申し出をした。
「同意書のことで、迷っておられる方が、いらっしゃるでしょう」
「……はい。たくさん」
「その中に、うちの患者さんが、かなりいるはずです」
「はい」
「うちで治療した人は、まず断らない」
統計として言ったのだが、篠田さんは少し困った顔をした。
「それは、その、大丈夫な情報ですか」
「大丈夫です。診療の中身は言いません。私が言えるのは、誰が、話を最後まで聞く人か、ということだけです。待合室で二十年、それだけを見てきました。話を最後まで聞く人から順に説明に行けば、同意書は、怒鳴り合いにならずに済みます」
篠田さんは、支配人のほうを見た。支配人は、少しのあいだ考えて、それから、お願いします、と言った。
こうして私は、水曜の男から、名簿の男になった。
持っているのは患者名簿ではない。患者名簿は医院のもので、外へは出さない。私が持ち出すのは、この町の口の中を見てきた二十年の、順番の勘だけである。誰から話すか。誰は最後にするか。それだけの勘が、この局面では、たぶん、いちばん役に立つ。
その週のうちに、朝の組のお二人の欄が出来て、山の帳簿に、三十年ぶりの新しい列が生えた。
私の判子は第一号で、お二人の会費は、新しい欄の第一号である。
最後に、お断りを。この作品はフィクションです。作中の制度や手続きについては、できるだけ正確に書くようにしていますが、筆者はその分野の専門家ではありません。制度はこの先変わっていきますし、同じ制度でも、一人ひとりの事情によって扱いが変わります。ここに書いたことを、ご自身の判断に使わないでください。実際に手続きが必要な方は、資格のある方に必ずご相談ください。これらの記述について、筆者は責任を負うことができません。




