相原ふみ
約束の日、支配人は夕方に来た。
あたしは、濃いのを淹れた。仕舞うた話の茶ぁや。
「その先を、伺いに来ました」
「ああ」
あたしは、仕舞うたままの景色を出すことにした。
「海老が一本になった時分や。事務室の灯りが、夜までついとる時期があった」
「毎晩ですか」
「毎晩やない。せやけど、ついとる晩は、遅うまでついとった。あたしは仕舞いのあとに、台所の戸締りで裏を通るやろ。ほしたら、窓に灯りが見えるんや」
「どなたが、いらしたんですか」
「事務の子ぉが一人と、ときどき塚原さんや」
支配人の鉛筆が、音を立てんと構えた。あたしは茶ぁを一口飲んで、続けた。
「若い事務の子ぉがな、机で、ずうっと書きもんをしとった。何十枚も、や。一晩やない。何晩も何晩も、書いとった」
「何を、書いておられたんでしょう」
「知らん。読んどらん。読まんのが行儀や」
盆は、読まん。読まんかわりに、見とる。書いとる手ぇの動きは、いまでも思い出せる。ゆっくりで、止まらんのや。一枚書き上がるたんびに、空いとる机の上へ字ぃを上にしてそうっと置く。乾かしとったんやろな。紙が、白い座布団みたいに並んどった。
「あたしはな、夜なべの手ぇに、茶ぁを持っていったったんや。何遍か」
夜食も出した。夜食は皿で覚えとる。あの子には、握り飯と、沢庵と、濃い茶ぁや。甘いもんは、字ぃがだれる言うて取らんかった。字ぃのために食いもんを断る人間を、あたしはあの子のほかに知らん。
「その方は」
「ふみちゃんや」
言うてから、フルネームも足した。この歳になると、名前は出るときに出しとかんと、次に出るとは限らん。
「相原ふみ。事務員の子ぉや。字ぃの、そらもうきれいな子でな」
支配人は、名前を手帳に書いた。書くとき、手ぇは止まらんかった。あたしの言うたとおりで合うとるか、あいはら、と読みだけ確かめて、それだけやった。
「字が、おきれいだった」
「きれいなんてもんやない。はらいがな、先のほうで、すうっと細うなって消えるんや。ああいうはらいは、習うて出るもんやない。生まれつきの手ぇや」
賞状やら、案内の宛名やら、あらたまった書きもんは、みなあの子に回っとった。塚原さんが回すんや。
そこで支配人が、静かに聞きよった。
「食堂の入口の、優勝者の木札は、塚原さんのお字だと伺いました。字がうまくてな、と」
「誰が言うたん。大庭さんやろ」
「はい」
「あれも半分は、ふみちゃんの字や」
支配人の鉛筆が、初めて止まった。
「塚原さんはな、自分でも書かはるよ。書かはるけど、ええ木札は、字ぃのきれいな子に書かさはるんや。書かさはって、自分の判子を押さはる。塚原さんは、字ぃのきれいな子に書かさはる名人やったんや」
「判子」
「そうや。夜の紙もな、書き上がって乾いたやつに、塚原さんが来て、判子を押しとった。あたしが茶ぁを持って入った晩に、いっぺん、ちょうど押しとるとこやった。一枚ずつ、確かめて、押しとった。手つきだけは、いまでも褒めたるわ。丁寧やった」
「枚数は、どのくらい」
「数えとらん。……何十枚や。白い座布団が、何列も並んどった」
朱肉のええ色がな、夜の電気の下で、列になって光っとったんや。きれいやな、て、あのとき思うてしもた。きれいや思うたことを、なんでか、いまでも覚えとる。
支配人は、紙のことも聞きよった。
「紙の大きさは、覚えておられますか」
「便箋より大きい。半紙くらいやな」
「一枚に、字は、どのくらい」
「そない多うない。手紙やないんや。……お品書きくらいや。上に太いのがひと筋、下に細いのが何行か」
寸法まで皿で測るんか、て顔をされたけど、しゃあないやろ。あたしの物差しは台所に置いたるんや。
書いたんは、ふみちゃん。押したんは、塚原さん。
あたしが見たんは、それだけや。
支配人は、長いこと手帳を見とった。それから、時期の確認をしよった。
「時期は」
「海老一本の時分や」
「……海老一本期、と控えてあります」
控えとき。
「ふみさんは、いま、どちらに」
「知らん。紙の時分のじきあとに、辞めはった。家のことがある言うて。行った先は聞いたか聞かなんだか、もうのうなっとる」
辞める日にな、台所へ挨拶に来たんや。夜食の礼を言うて、頭を下げて。ええ辞め方やった。
「……ああいう字ぃの子が、そのあと、どういう字ぃを書いて生きたんかは、知らんまんまや」
支配人は、そうですか、と言うた。それから茶ぁを飲み干して、ごちそうさまでした、と言うて、丁寧に頭を下げて、出ていった。手帳は、鞄やのうて、手に持ったまんまやった。
その週の店で、注文が一つ減った。
窓際の、朝いちばんの四人掛けや。うどんが減ったんは夏やった。今度は、カレーふたつ、が、カレーひとつ、になった。大盛りは、まだ来る。葬式の話は、店ではせん。せんかわりに、あたしは盛りを少しだけ良うする。四人掛けは、二人になっても、四人掛けや。
夕方、芝の子が目土の袋を担いで裏を通ったから聞いてみた。目土いうのは、何のためにするんや、て。
傷んだとこに薄う土をかけて、上から芝が伸びてくるのを待つんです、と言いよった。埋めるんやない、伸びる場所を作るんです、て。
ほうか、と言うて台所へ戻った。




