台所の記憶
九月に入ると、仕込みの手が少し変わる。冷たいもんを減らして、汁もんの出汁を濃いめに引く。山の上の秋は、麓よりひと足早う来るんや。
その仕込み前の時間に、支配人が台所へ来た。
手帳を持っとった。手帳を持っとるときのあの人は、仕事や。盆を持っとるときのあたしと同じや。
「昔のことを、伺いたいんです」
「昔て、どのへんの昔や」
「三十年ほど前の。……山向こうの施設で、昔の話を聞いてきました。年号が、揺れてしまって」
「ほうか。ほんで、揺れん者のとこへ来たんか」
「はい」
「ええ順番や」
あたしは手ぇを拭いて、椅子を一つ出した。長うなる話は、立ってさせるもんやない。それに、三十年前と言われて、あたしは別に驚かん。台所に三十年前は、昨日の隣くらいに置いたる。
支配人の聞き方は、最初、役所の聞き方やった。
「それは、何年ごろのことですか」
「海老フライが二本やった時分や」
「……西暦で言いますと」
「海老で言うとるやろ」
年号いうもんは、あたしの中に残っとらんのや。残っとるのは、皿や。あの時分の定食は海老フライが二本で、タルタルは別の小鉢やった。それがある日から一本になって、小鉢が消えて、キャベツが太う切られるようになった。皿の上のことは、一枚も間違わん。毎日、何十枚と出したんやから。
支配人は手帳の上で鉛筆を止めて、しばらく考えとった。
それから、聞き方を変えよった。
「海老が一本になったのは、いつ、の代わりに、こう伺います。それは、ほかの何より前でしたか、後でしたか」
「何よりや」
「たとえば、食堂が夜まで開いていた時分より」
「後や。だいぶ後や。夜まで開いとった時分は、海老は二本で、松茸の土瓶蒸しまであったんや」
「松茸」
「あった。会員さんの秋いうたら土瓶蒸しやった。お造りの付く定食もあったし、正月は膳が二の膳まで出た。ええ時分やった。ええ時分いうのは、皿の数で残るんや」
「それが」
「まず松茸が消えた。次にお造りが消えて、二の膳が消えて、しばらくして海老が一本になって、それからカレーの肉の等級が一遍替わった。消える順いうのは、決まっとるんやで。値ぇの張るもんからやない。無うても文句の出んもんからや。文句の出るもんは、最後まで残る。カレーが最後まで残っとるんは、そういうことや」
支配人の鉛筆が、動き出した。書きながら、口の中で小さう繰り返しとった。松茸の消えた年。海老二本期。海老一本期。
書き上がった手帳を、あたしにも見せてくれた。線が一本引いたって、その上に皿の名前が順番に並んどる。年号は一つも書いてない。
「海老一本期、と控えました」
あたしは声を出して笑うた。笑うたけど、あの並べ方は正しい。あたしの台所の年月は、ほんまにあの順番で並んどるんや。
それから支配人は、夜まで開いとった時分の話をようけ聞いた。
塚原さんの自慢話と同じ話や、と思うたら、そうやと言いよった。施設で聞いてきはったんやろ。バスを仕立てて競技に行った話。食堂が夜まで開いとった話。あれはほんまやで。夜のうどんの出汁を引くんは、あたしやったんやから。
ほんで、聞き取りの途中であたしは一つ教えといた。
「支配人さん。偉い人らの話はな、盆が入ると止まるんや」
「盆が」
「あたしが茶ぁやら膳やら持って入るやろ。ほしたら、話が止まる。あたしが出たら、また始まる。三十年、それの繰り返しや」
「……止まる話は、覚えておられますか」
「止まった、いうことをな。中身は聞いとらん。聞いとらんけど、いつ止まって、誰の顔が下向いとったかは、運んだ者が知っとる。偉い人らは、盆を数に入れとらんのや。盆かて、目ぇも耳もついとるのにな」
「皆さん、高砂さんのお顔は」
「覚えとらんよ。三十年通うた会員さんでも、あたしの顔は出てこん。盆の高さの顔は、覚えられんように出来とるんや」
「わたしは、覚えています」
「……あんたは、盆側の顔やからな」
支配人はその言い方が気に入ったんか、盆側、と手帳に書いとった。役職の欄にでも書く気か知らんけど。
「いちばん、よく止まった時分は」
「海老一本の時分や」
支配人の鉛筆が、すっと動いた。動いてから、もう一つ聞きたそうな顔をしたんが、分かった。分かったから、先に言うといた。
「その先はな、支配人さん。この茶ぁの濃さでは、せん」
「……お茶の、濃さ」
「うちはな、薄いのは世間話、濃いのは仕舞うた話、て決まっとるんや。今日の茶ぁは薄いやろ。仕込み前の茶ぁやから」
支配人は湯呑みの中を見てから、分かりました、と言うた。決まりに文句を言わん人や。決まりの出どころも聞かん。あたしが決めた、て言うたら、この人はたぶん、それがいちばん確かな決まりです、て言うんやろ。
支配人は長いこと黙って、それから手帳に何か書いた。何を書いたかは見んかった。見んのが行儀や。
茶菓子を出した。いつもの袋の、三十年前から同じやつや。支配人は袋を見て、少しだけ笑うた。笑うたことは、帳面には書かんとくわ。
日の暮れる前に、支配人は立った。
立ってから、戸口で一つ言いよった。
「では、濃いお茶の日に、その先を、伺いに来ます」
「……ええよ。淹れたるわ」
支配人が出ていってから、あたしは布巾を畳む手ぇをいっぺんだけ止めた。止めたことに、自分で気がついて、また動かした。
その先、と言われて出てくる景色が、あたしには一つある。海老一本の時分の、事務室の夜の景色や。仕舞うたままの景色や。聞かれなんだから、仕舞うてあっただけや。




