↓ ↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
支配人はコースに出ません  作者: 一之瀬 樹
十二番 目土
PR
25/39

台所の記憶

 九月に入ると、仕込みの手が少し変わる。冷たいもんを減らして、汁もんの出汁を濃いめに引く。山の上の秋は、麓よりひと足早う来るんや。


 その仕込み前の時間に、支配人が台所へ来た。


 手帳を持っとった。手帳を持っとるときのあの人は、仕事や。盆を持っとるときのあたしと同じや。


「昔のことを、伺いたいんです」


「昔て、どのへんの昔や」


「三十年ほど前の。……山向こうの施設で、昔の話を聞いてきました。年号が、揺れてしまって」


「ほうか。ほんで、揺れん者のとこへ来たんか」


「はい」


「ええ順番や」


 あたしは手ぇを拭いて、椅子を一つ出した。長うなる話は、立ってさせるもんやない。それに、三十年前と言われて、あたしは別に驚かん。台所に三十年前は、昨日の隣くらいに置いたる。


 支配人の聞き方は、最初、役所の聞き方やった。


「それは、何年ごろのことですか」


「海老フライが二本やった時分や」


「……西暦で言いますと」


「海老で言うとるやろ」


 年号いうもんは、あたしの中に残っとらんのや。残っとるのは、皿や。あの時分の定食は海老フライが二本で、タルタルは別の小鉢やった。それがある日から一本になって、小鉢が消えて、キャベツが太う切られるようになった。皿の上のことは、一枚も間違わん。毎日、何十枚と出したんやから。


 支配人は手帳の上で鉛筆を止めて、しばらく考えとった。


 それから、聞き方を変えよった。


「海老が一本になったのは、いつ、の代わりに、こう伺います。それは、ほかの何より前でしたか、後でしたか」


「何よりや」


「たとえば、食堂が夜まで開いていた時分より」


「後や。だいぶ後や。夜まで開いとった時分は、海老は二本で、松茸の土瓶蒸しまであったんや」


「松茸」


「あった。会員さんの秋いうたら土瓶蒸しやった。お造りの付く定食もあったし、正月は膳が二の膳まで出た。ええ時分やった。ええ時分いうのは、皿の数で残るんや」


「それが」


「まず松茸が消えた。次にお造りが消えて、二の膳が消えて、しばらくして海老が一本になって、それからカレーの肉の等級が一遍替わった。消える順いうのは、決まっとるんやで。値ぇの張るもんからやない。無うても文句の出んもんからや。文句の出るもんは、最後まで残る。カレーが最後まで残っとるんは、そういうことや」


 支配人の鉛筆が、動き出した。書きながら、口の中で小さう繰り返しとった。松茸の消えた年。海老二本期。海老一本期。


 書き上がった手帳を、あたしにも見せてくれた。線が一本引いたって、その上に皿の名前が順番に並んどる。年号は一つも書いてない。


「海老一本期、と控えました」


 あたしは声を出して笑うた。笑うたけど、あの並べ方は正しい。あたしの台所の年月は、ほんまにあの順番で並んどるんや。


 それから支配人は、夜まで開いとった時分の話をようけ聞いた。


 塚原さんの自慢話と同じ話や、と思うたら、そうやと言いよった。施設で聞いてきはったんやろ。バスを仕立てて競技に行った話。食堂が夜まで開いとった話。あれはほんまやで。夜のうどんの出汁を引くんは、あたしやったんやから。


 ほんで、聞き取りの途中であたしは一つ教えといた。


「支配人さん。偉い人らの話はな、盆が入ると止まるんや」


「盆が」


「あたしが茶ぁやら膳やら持って入るやろ。ほしたら、話が止まる。あたしが出たら、また始まる。三十年、それの繰り返しや」


「……止まる話は、覚えておられますか」


「止まった、いうことをな。中身は聞いとらん。聞いとらんけど、いつ止まって、誰の顔が下向いとったかは、運んだ者が知っとる。偉い人らは、盆を数に入れとらんのや。盆かて、目ぇも耳もついとるのにな」


「皆さん、高砂さんのお顔は」


「覚えとらんよ。三十年通うた会員さんでも、あたしの顔は出てこん。盆の高さの顔は、覚えられんように出来とるんや」


「わたしは、覚えています」


「……あんたは、盆側の顔やからな」


 支配人はその言い方が気に入ったんか、盆側、と手帳に書いとった。役職の欄にでも書く気か知らんけど。


「いちばん、よく止まった時分は」


「海老一本の時分や」


 支配人の鉛筆が、すっと動いた。動いてから、もう一つ聞きたそうな顔をしたんが、分かった。分かったから、先に言うといた。


「その先はな、支配人さん。この茶ぁの濃さでは、せん」


「……お茶の、濃さ」


「うちはな、薄いのは世間話、濃いのは仕舞うた話、て決まっとるんや。今日の茶ぁは薄いやろ。仕込み前の茶ぁやから」


 支配人は湯呑みの中を見てから、分かりました、と言うた。決まりに文句を言わん人や。決まりの出どころも聞かん。あたしが決めた、て言うたら、この人はたぶん、それがいちばん確かな決まりです、て言うんやろ。


 支配人は長いこと黙って、それから手帳に何か書いた。何を書いたかは見んかった。見んのが行儀や。


 茶菓子を出した。いつもの袋の、三十年前から同じやつや。支配人は袋を見て、少しだけ笑うた。笑うたことは、帳面には書かんとくわ。


 日の暮れる前に、支配人は立った。


 立ってから、戸口で一つ言いよった。


「では、濃いお茶の日に、その先を、伺いに来ます」


「……ええよ。淹れたるわ」


 支配人が出ていってから、あたしは布巾を畳む手ぇをいっぺんだけ止めた。止めたことに、自分で気がついて、また動かした。


 その先、と言われて出てくる景色が、あたしには一つある。海老一本の時分の、事務室の夜の景色や。仕舞うたままの景色や。聞かれなんだから、仕舞うてあっただけや。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。