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支配人はコースに出ません  作者: 一之瀬 樹
十一番 救済のドロップ
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沢の上

 机に、一覧を広げ直した。所在の分からない共有者が、数名いる。


 共有の土地を売るには、共有者全員の同意が要る。全員、である。十七人なら十七人。一人でも欠ければ、その土地は動かない。ここまでが原則で、原則のままなら、私の仕事はここで終わっている。


 いまは、道がある。


 民法二五一条二項。所在の分からない共有者がいるときは、裁判所の決定をもらえば、その人を除いた全員の同意で、土地を動かせる。何年か前にできた、新しい条文だ。行方の知れない判子を、国が代わりに預かってくれる、と言ってもいい。


 ゴルフの規則書なら、これは罰なしの救済に当たる。打てない場所から、手続きに従って、打てる場所へ。私はこの説明を頭の中でしてしまってから、少し嫌になった。


 八月の半ば、二度目の現地に行った。


 この日の目的は、書類ではなく、人だった。土地の古い経緯は、登記に載らない部分がある。載らない部分は、長くいる人の頭の中にある。理事の方々に、昔の話を伺う段取りを、支配人に頼んであった。


 応接には、麦茶と、理事が三人来た。


 三人とも、感じのいい老紳士だった。私も感じ良く出来ている。感じの良さは、この仕事の作業服である。名刺を配り、本社の関係で土地の経緯を整理しております、と言った。嘘はない。全部でもない。


 最初の二人の話は、中身が一行だった。造成のころはまだ入会していない、という話を、お二人とも丁寧に長くしてくださった。


 三人目が、大庭さんだった。


 規則書を三冊、机に置いてから座った。何の規則の話になると思われたのかは、分からない。


「昔の土地の経緯、と言いなさったな」


「はい。ご記憶の範囲で結構です」


「ほな、順番に話さんとあかん。まず、六番の池や」


 隣の理事のお二人が、ほとんど同時に、腰を浮かせた。用事を思い出した、という顔の作り方が、お二人ともあまりに滑らかだった。避難の練度が高い。この話は、そういう話らしかった。


 私は残った。残って、手帳を構えた。


「あの池はな、昔は沢やったんや」


「沢、ですか」


「沢や。せやから杭の色が違う」


 私は、聞いた。最後まで聞いた。


 仕事だから、と言ってしまえばそれまでだが、聞いてみれば、面白い話だった。山の水がどこを通っていたか。造成でどこを埋め、どこを残したか。池になっても杭がなぜ赤のままなのか、いつから誰も気にしなくなったか。話は前後し、脱線し、脱線の脱線に入り、それでも、聞く側が地図を持って聞けば、筋は一本通っていた。


 途中で一度、大庭さんは自分から脱線を詫びた。


「話が逸れたな。年寄りの話は逸れるんや」


「逸れて結構です。逸れた先に、地図にないことがあります」


 これは本心である。登記は結論しか書かない。結論の手前の、誰が渋り、誰が譲り、どの順で山が削られたかは、逸れた話の中にしか残っていない。


 私は、誰も聞かなかったらしい質問をした。


「沢だったのは、いつごろまでですか」


 大庭さんの動きが、止まった。


「……あんた、いま、何て聞いた」


「沢だったのは、いつごろまでかと」


「聞かれたん、初めてや」


 それから大庭さんは、目に見えて若返っていった。池になっても杭を赤のままにしたのは、どなたのご判断ですか、と私が聞いたときには、身を乗り出して、椅子が鳴った。


「あのあたりを、土地の言葉で、昔は何と呼びましたか」


「沢の上や。……せやから何やねん、と言われたら困るがな」


「いえ。呼び名は、登記より長生きしますので」


 大庭さんは、その一言がずいぶん気に入ったらしく、グラスを置いて、もういっぺん言うてくれ、と言った。私は、もう一度言った。二度目も本心だった。古い呼び名は、古い水の通りを覚えている。水の通りは、境界の言い分を覚えている。


 土地の字の呼び方、水路の通り、造成の順番。私の手帳は、この三十分でいちばん埋まった。使えるかどうかを別にすれば、全部いい話だった。


「あんた、ええ若いのやな」


 私が席を立つと、大庭さんは言った。


「最後まで聞いて、質問までしたんは、あんたが初めてや」


 誰も質問をしなかった話を、私は査定のために聞いた。聞かれた側は、査定だと知らない。この釣り合いの悪さは、伝票のどこにも載らないが、私のどこかには載る。載ったまま、私は礼を言って応接を出た。


 昼は、食堂でカレーを食べた。


 うまいカレーだった。レジは定価で打たれて、白衣の年配の方がおつりの上に五十円を載せて返した。


「常連の値段や」


「まだ二度目ですが」


「顔は覚えた」


 常連の定義が、私の知っているどの約款よりも簡潔だった。私は返された五十円を受け取った。報告書には書かない。


 帰り際のロビーで、大庭さんが支配人をつかまえていた。


「支配人さん、あの若いのはいい」


 声が大きいので、聞こえてしまった。


「話の分かる若いのや。ああいうのが本社におるんなら、まだ捨てたもんやない」


「……そうですね」


 支配人は、それだけ言った。


 九月に入って、裁判所への手続きの準備が整った。


 所在の分からない方々について、公告が出る。公告は官報に載る。読まれない紙の上で、所定の期間が静かに過ぎて、それで要件が満ちる。誰かの判子が、その人の知らないうちに、要らないものになっていく。


 合法で、正確で、誰の顔も潰さない道である。顔を潰さないのは、顔を見ないからだが。


 道の先に何が建つのかは、私の決めることではない。私は道を通すだけだ。


 通した道を、誰が歩くのかも。

 最後に、お断りを。この作品はフィクションです。作中の制度や手続きについては、できるだけ正確に書くようにしていますが、筆者はその分野の専門家ではありません。制度はこの先変わっていきますし、同じ制度でも、一人ひとりの事情によって扱いが変わります。ここに書いたことを、ご自身の判断に使わないでください。実際に手続きが必要な方は、資格のある方に必ずご相談ください。これらの記述について、筆者は責任を負うことができません。

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