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支配人はコースに出ません  作者: 一之瀬 樹
十番 打ち直し
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21/39

一度目

 七月のグリーンは、朝のうちに水をやらないと、昼には焼ける。


 だから夏の僕の一日は早い。散水と、刈りと、日報。日報の数字は、夏場は少し落とす。速さより、生かすことが先だ。数字を落とす勇気、と書いた本があって、僕はあの言い方は好きじゃない。勇気ではない。計算だ。


 その朝、散水を終えたところで支配人室に呼ばれた。机の上に、役所の書式の紙が何枚か重なっていた。読まなかった。


「山向こうの施設まで、乗せていただけませんか。肥料屋さんの近くだと伺ったので」


 調べてある。僕が週のはじめに肥料を取りに行くことも、肥料屋がどこにあるかも。この人はいつも、頼みごとを、ついで、の形に整えてから持ってくる。断りにくいからではないと思う。ついでで済むことを、ついでで済むように組むのが、癖なのだ。


 行き先を聞いて、少しだけ間が空いた。


 昔、支配人をやっていた人――塚原さんという人が入っている施設だった。


 僕は塚原さんを知らない。会ったことがあるかどうかも、あやしい。知っているのは名前と、グリーンにうるさい人だったという評判だけだ。評判は、うるさい、の側で聞いた。うるさい、は、僕の業界では悪口に数えないことになっている。


 支配人は車の中で書類鞄を膝に載せて、しばらく窓の外を見ていた。それから、山の斜面の色のことを聞かれた。


「あの茶色いところは、枯れているんですか」


「休んでいます。夏の芝は、暑さで一度休みます。枯れると休むは、見た目が同じで、中身が違います」


「見分けは、どこで」


「根です。引いてみて、抵抗があれば休んでいるだけです」


 支配人は、根、と小さく言って、手帳には書かなかった。書かない話を聞くのが好きな人なのかもしれない、と、このごろ思う。


 何を聞きに行くのかは、言わなかった。僕も聞かなかった。肥料屋のついでに、聞くことでもない。


 施設は、白くて平たい建物だった。


 受付で手続きをしていると、職員の人が僕のほうへ来て、ご面会ですか、と言った。また僕だ。業者も、施設の人も、なぜか最初に僕へ来る。


「こちらです」


 支配人を手で示した。クラブでこれを言うのは何度目か、もう数えていない。言うたびに短くなって、いまは五文字になっている。


 面会室ではなく、談話室に通された。窓の大きい部屋で、塚原さんは窓際の椅子に座っていた。


 思っていたより、大きい人だった。椅子の中で、姿勢が良かった。


 僕たちが近づくと、先に口を開いた。


「九番は、いまスティンプなんぼや」


 初対面の第一声だった。名乗るより先に、九番だった。


「八・六です。夏場なので、落としています」


「そうか。夏はそれでええ。焼くなよ」


「焼かせません」


「うん」


 それで僕の面接は終わったらしい。塚原さんは支配人のほうへ顔を向けて、少しのあいだじっと見た。


「……あんた、どこの子や」


「霞ヶ丘から参りました。沢渡と申します。いま、支配人をしております」


 塚原さんは、うなずいた。分かってうなずいたのか、分からないまま置いたのか、僕には見分けがつかなかった。


 支配人は、手土産を出した。売店のいつもの袋の、いつもの茶菓子だ。塚原さんは袋を見て、手に取って、裏を返した。


「……この菓子、まだあるんか」


「あります」


「そうか。まだあるか」


 まだある、を、塚原さんはもう一度、自分のために言った。袋の菓子ひとつが、この部屋では、僕の日報より確かな記録だった。


 職員の人がお茶を持ってきた。塚原さんは盆の上の湯呑みを見て、一つずつ向きを直した。


「客の湯呑みは、絵が客に向くように置く。教えたやろ」


 職員の人は、すみません、と笑って、教わっていない詫びをした。誰に教えた話なのかは、誰も聞かなかった。


 それから塚原さんは、職員の人に支配人を手のひらで示して言った。


「うちの支配人や」


「はいはい、支配人さんね」


 職員の人はやわらかい声でそう受けて、盆を持って出ていった。


 合っているのに、と僕は思った。


 話は、支配人が切り出した。昔の事務のことで、教わりたいことがあって、と。


 塚原さんは、窓の外を見た。


「金の話やろ」


「はい」


「返さなあかん金があってな」


 声が、少し低くなった。


「預かっとる金や。預かっとるもんは、返さなあかん。当たり前のことや。当たり前のことがでけへんときに、どうするか、や」


「どう、なさったんですか」


「今週中に、なんとかせんとあかん」


 今週中に、と塚原さんは言った。カレンダーは壁に掛かっていて、七月だった。塚原さんの今週は、僕たちの今週ではないところに掛かっているようだった。


「銭がないなら、銭やないもんで返すしかないやろ」


「銭ではないもの、というのは」


「紙に書いてもろとる。ちゃんとしとる。わしは、ちゃんとしとったんや」


 書いてもろとる、と言った。書いた、ではなかった。僕は芝の人間だから、聞き分けだけして、意味は考えなかった。


「詳しいことは、帳面に付けたる。帳面を見い」


「帳面は、どちらに」


「事務室の、右の棚や」


 支配人は、はい、と言って、それを手帳に書いた。あとで聞いたら、事務室の右の棚は、いまはコピー用紙の置き場だそうだ。三十年前の右の棚が何の棚だったのかは、もう誰も知らない。


 支配人は、それ以上押さなかった。手帳に何かを書いて、それから話を変えた。変えた先が、九番のグリーンだった。


 塚原さんは、九番の話になると、年号の霧が晴れた。西からの風の日に旗をどこへ切るか。夏の夕方の水のやり方。三十年前の話のはずなのに、全部、今日の九番に効く話だった。僕は途中からメモを取った。昔の支配人に教わることが、こんなにあるとは思っていなかった。


 帰り際、塚原さんは僕に言った。


「あんた、ええ芝や」


 芝を褒められたのか、僕を褒められたのか、分からなかった。どっちでもよかった。


 車で山を下りながら、支配人が言った。


「スティンプ、と伺ったら、すぐ数字が出るんですね」


「出ます」


「……いいですね、数字で済む話は」


 支配人はそれきり黙って、膝の手帳を見ていた。手帳のページは、あまり進んでいなかった。


 肥料は、帰りに積んだ。ついでは、ちゃんと、ついでになった。

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