内容証明
六月の終わりの、よう晴れた午前や。
わしはいつものソファで、競技委員会の資料を膝に広げとった。広げとっただけで、読んではおらん。読まんでも、だいたい頭に入っとる。入っとらんのは新しい規則のほうやが、それは読んでも入らんのやから、同じことや。
事務室の奥では、このところずっと、紙を数えとる。受付の篠田さんまで駆り出されて、朝から段ボールと画面のあいだを往復しとる。何を数えとるのかは聞かん。聞かんのが、長生きのこつや。
そこへ、郵便屋が来た。
いつもの郵便屋やが、いつもの顔と違うた。窓口に篠田さんがおらんのを見て、封筒を胸に抱えたままロビーを見回した。ロビーにおるのは、わしや。
「お受け取りの、ご印鑑かサインをいただきたいのですが」
書留の類やな、と思うて立っていった。封筒の表に、内容証明、とある。
内容証明いうもんは、中身より先に、送った側の覚悟が届く郵便や。文面をもう一通、郵便局が預かって、いつ何を送ったか、国が証人になってくれる。仕事で何遍か受け取ったし、二遍ほど送った。二遍とも、金の話や。内容証明で恋文を送るやつはおらん。あれは、話し合いの終わりから届く郵便や。
「わしが受け取ったろ」
言うてから、手が止まった。
わしは会員や。職員やない。クラブ宛の内容証明を、会員が受け取ってええもんか。競技の裁定なら三冊のどれかに書いたるが、郵便の裁定はどの規則書にも載っとらん。クラブの規約にも、郵便の条項はない。ないことは、わしがいちばんよう知っとる。作った側やからな。
「あんた、会員でも受け取れるんか」
「ご関係の方でしたら、どなたでも」
「会員は、関係か」
「ご関係でしたら」
「せやから、会員は関係かと聞いとるんや」
「……お勤めの方ですと、確実です」
郵便屋は正直や。正直なぶん、話が進まん。ためしに、誰も押さんかったらどうなるんや、と聞いてみた。
「お持ち帰りに、なります」
「持ち帰って、どうなる」
「局で、お預かりに」
「預かりの先は」
「期間が過ぎますと、差出人さまに、お返しします」
「返したら、送った側は、どう思うやろな」
「それは、私からは」
押さんかったら消える、いう郵便やないことだけは分かった。押しても押さんでも、送った側の帳面には、送った日付が残る。逃げ場のことまで考えて作ったる制度や。感心せんでもないが、受け取る朝に感心はできん。
そこへ高砂さんが、盆を持って通りかかった。
「なんの騒ぎや」
「郵便やが、押す判子がおらんのや」
「あたしが押したろ」
「あんたのは食堂の判子やろ」
「判子に食堂も受付もあるかいな。丸うて、名字が彫ったるだけや」
「気持ちの問題や」
「気持ちで郵便が受け取れるかいな」
郵便屋が、あの、と言うて、また、ご関係の方でしたら、と言うた。言うたが、誰も動かん。高砂さんは盆があるし、わしは会員やし、郵便屋は郵便屋や。
逢坂が通りかかったので、事務室の奥へ走らせた。
戻ってきた逢坂は、小さい盆を持っとった。盆の真ん中に、判子が一本、立ててある。
「篠田さんは両手が塞がってるので、判子だけ預かってきました」
判子は来た。押す本人が、来とらん。
高砂さんが言うた。
「ほな、篠田さんの手ぇだけ借りてきたらどうや」
「手だけは、来ないと思います」
逢坂が返した。冗談で言うたんか、本気で言うたんか、あの若いのは顔が変わらんから分からん。
全員で、盆の上の判子を眺めた。判子は立派に立っとった。人の判子を、本人のおらんところで押してええもんか。ええわけがない、と思うとるのに、目の前まで来られると、理屈が揺れる。郵便屋まで一緒になって眺めとった。あんたが眺めてどうすんねん。
「ご本人さまの印でなくても、お受け取りは」
郵便屋がそこまで言うたところで、高砂さんに、ほな最初からそう言い、と言われて、すんまへん、と謝った。謝ることでもない。誰も聞かんかっただけや。
そこへ、支配人が通りかかった。
支配人はロビーの人だかりと、盆の上の判子と、郵便屋の封筒を順に見た。それから自分の判子を出して、受領の紙に押した。
一秒や。
「判子は、押すためにありますので」
一秒で済むことに、わしらは知恵を出し合うて、二十分かけた。
郵便屋は生き返った顔で礼を言うて、次へ走っていった。あの男も今日、家で話すことが一つできたわけや。
封筒は、支配人の手に渡った。
渡る前に、わしは表書きを見とった。見る気で見たんやない。郵便屋が長いこと胸の前で持たされとったから、目に入ったんや。宛名は、霞ヶ丘カントリークラブ御中。差出人は、知らん名前やった。
ちゃんとした名前や。ちゃんとしとるだけに、応えた。
わしはこの町で長いこと商売をやって、理事長も競技委員もやって、頭の中に名簿が一冊できとる。建材屋いうのは、町の名前が全部通る商売や。家を建てるとき、直すとき、仕舞うとき、どの家も三遍はうちを通る。冠婚葬祭で会うた名前、請求書で書いた名前、池の話を聞かせた名前。その名簿を、上から下までめくった。
おらんかった。
町の外の名前や、ということや。町の外の人間が、このクラブに、覚悟のいる郵便を寄越した。
支配人は封筒を持って、事務室に入った。
その日の事務室は、ガラス越しに見とっても、天気が変わった。電話が続けてかかった。篠田さんが棚から古いファイルを出した。夕方、支配人が受話器に向かって言うのが、戸の開いた拍子に聞こえた。
「――ええ。申入れから、一年です。来年の、六月の末に」
何の一年かは、分からんかった。分からんかったが、期限のある話が、この日からクラブに一つ増えたことだけは分かった。期限のある話は、嫌いや。競技と違うて、延長がない。
明くる日の朝、家に電話が鳴った。篠田さんやった。
「大庭さん。支配人が、お話を伺いたいと。この土地の昔のことを、ご存じの方に、と」
ご存じの方、や。
呼ばれた。わしが、や。
受話器を置いてから、しばらく動かんかった。呼ばれるのは、ええ。生き字引と呼ばれて、断ったことはない。動かんかったのは、別のことや。
昨日の差出人の名前が、まだ、どこにも見つからんのや。
最後に、お断りを。この作品はフィクションです。作中の制度や手続きについては、できるだけ正確に書くようにしていますが、筆者はその分野の専門家ではありません。制度はこの先変わっていきますし、同じ制度でも、一人ひとりの事情によって扱いが変わります。ここに書いたことを、ご自身の判断に使わないでください。実際に手続きが必要な方は、資格のある方に必ずご相談ください。これらの記述について、筆者は責任を負うことができません。




