第60章(オルゴール療法に託す本当の想い)
「オルゴール療法って知ってる? 脳幹に働きかけて、体温を上げ、様々な病気を治すらしいよ。
だから、1台、剛君にプレゼント。スイスオルゴールは宝飾品や時計のように、
代々大切にされてきたものなんだけど、最近の研究でオーケストラや森の中にある低周波と
高周波を出していることが分かって、音楽療法として注目を浴びているから。試してみて。
1日2時間以上は聴く方がいいって言われているけど、ネジを回すのも大変だから、
ヒマな時に聴いてもらったらと思って買ってきたの」 そう言ってネジを巻き、
台の上に置いてあげる。カノンの響きが優しく部屋を包み込む。
植物人間にも効果があると聞いたことがある。でも、剛のために一緒に聴く由紀奈の神経にも、
きっといい効果があるはずだ。母にも1台買ってあげたが、最近は精神が落ち着いている。
ただでさえストレスの多い時代だ。金属的な音に囲まれ、都会には自然の響きがない。
電子音や人工的な物に囲まれ、便利だけど神経は休まらない。
だから、木の箱から奏でられる音は、最初に早く、少しずつ緩やかになっていく。
安らかな睡眠に入ることができる。 カノンの曲は、何度聴いても飽きることがないから不思議だ。
母のためにと買ったのに、一緒に聴いている明菜が元気になっているのを実感しているからだ。
「50万円近くするんでしょう? そんな高いもの、ものらうわけにはいかないわ。お金払わせて」 と
由紀奈が言うけれど、 「結婚と出産と誕生日のお祝いね。胎教にもいいらしいし、
お腹の子と3人で聴いてもらったら、お安いものよ。たまに涼さんにも聴いてもらいたいし」 と言って、涼の方をチラッと見る。いきなり自分の名前を言われて、涼は驚いている。
話を真剣に聞いていなかったようだ。 「こんなことがあるってことは、一緒に元気になるよう、
神様からの贈り物なのよ。2人でバカ話していたら、剛さんも細胞が笑って、目覚めるかもよ」
そう言うと、涼も近くに来て、オルゴールの音色に耳を傾ける。
その時、主治医の北村透が様子を伺いに入ってきた。
「何? オルゴール? カノンだね。スイスオルゴールは、僕も随分コレクションしているんだ」と
優しい声で話しかけた。剛の身体につながった計器の数値をチェックしている。
「脳波の数値が高くなっている。オルゴールのせいかな? いい兆候だ」と言ってくれたので、
皆の心に希望が生まれた。 毎日、剛の様子を診てくれる北村先生と由紀奈は、
親密な信頼関係を紡いでいるようだった。あのため口の由紀奈が、透の前では大人しい。
茶髪で耳にピアスをしているというのに、どこか威厳を感じる。
「透はアメリカに留学して、第一線で勉強していたのに、剛のことを聞いて帰国してくれたんだ。
こう見えても、京都大きっての天才なんだよ」 と涼が紹介してくれた。
「ヨットの合宿の時、ベースを弾いていた方? 確か、同じヨットに乗っていたよね」 と
明菜が言うと、 「嬉しいね。覚えてくれていたなんて。美人揃いで参加してくれただろう?
あの時は、男どもが色めき立ったよ」 と懐かしそうに笑った。
「透には本当に感謝しているんだ。こう見えても、あんな所にいさせてはいけないとは思うんだけど、
他に頼れる奴がいない。いつまでかかるか、何年ここに引き止められるか、
わからないことばかりだけど、よろしく頼むよ」 と涼が言うのを、
「やめてくれ。俺が好きでやってることなんだから。剛は俺たちの大切な仲間じゃないか。
それに、結構、これでも楽しんでいるんだから。毎日、由紀奈さんとも会えるしね」 と
北村先生は目くばせした。由紀奈の耳たぶが赤い。 剛が横に立っていて、切ない声で言った。
「透も昔から由紀奈ちゃんに気があったんだ。友達の彼女だからって節度を持ってくれているけれど、
先日、由紀奈が眠っていた時、キスしてたんだ。すごく嫉妬したけど、どうにもできない。
そのうち、『透なら由紀奈ちゃんを大切にしてくれるんじゃないか?』って考えるようになってね。
だから、他の奴と結婚したっていいって言ったんだ」 剛のために、
毎日一緒に過ごす時間が二人の距離を縮めているのを感じる。お互い好意を持っているのがわかる。
これも、剛のひとつの選択なのかもしれない、と何も答えなかった。
ただ、病室を出る時、由紀奈の耳元にこう伝えておいた。
「剛さんが、透さんなら由紀奈を任せられるって言ってたよ」 由紀奈はちょっと驚いた後、
複雑な顔をしていた。今は、剛とお腹の子供のことしか考えられないのだろう。
いずれ、その時が来たら、今日の剛の言葉が意味を持ち、その優しさに永遠の愛を勝ち取ることだろう、と予感しながら、涼と部屋を後にした。
カノンの音色がドアの向こうから、かすかに聴こえていた。




