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 ラスカが湯船に身を沈めるのを確かめてから、セシリアもそっと浴室へ入った。先ほど飛び込んできた際、上着を羽織ったまま水に濡れてしまっている。しかしそれどころではなかった。


「ラスカさん……その翼って……?」

「元々生えていたもんや。ただ、もがれてな。それが生えて驚いたんや。でかい声だしてすまんかったな」


 魔族は魔物の特徴を残してることが多い。レオニダスもフェンリルの体を持つ。ラスカの翼も、鳥類型の魔物の特徴が残っているのだろう。

 気になるのは……。


「もがれた……?」


「……ちょっと過去に、いろいろあってな」


 ラスカはそれ以上語らなかった。セシリアも聞かなかった。

 辛そうな表情から、翼に関することに、触れて欲しくないのだろうと察したからである。


(魔族であることを知られたくなかったから、あんな格好をしてたのかな)


 彼女はターバンで頭を包み、腰の翼を布でぐるぐると縛って隠してきた。翼が生えている箇所は人間にはない。だからあのような出で立ちをしていたのだろうと思っていた。しかし実際には、失われた翼を隠すためでもあったのだ。


 セシリアが黙っていると、じっとこちらを見つめていたラスカが、静かに口を開いた。


「……もう何年も前のことや。ポーションも魔法も効かへんかった。もう生えてくることはないって言われてた」


「それが……回復したんですね」

「そういうことになる。なんで治ったか、わかるか?」


 ラスカが問うと、セシリアは少し考えてから答えた。


「お風呂ですね。正確には……温泉に混じっている聖女の魔力が、翼の細胞を修復したんだと思います」


 黄昏の竜や、神獣が風呂に入ったとき、細胞の再生・活性が起きた。

 同じことがラスカの身にも起きたと考えるのが妥当である。


「聖女……やはり……」


 失言ではなく、意図して、セシリアは自らの身分を明かした。

 確かに自分の正体は隠しておきたい。けれど、不可思議な現象により、ラスカを驚かせてしまった。


 下手にごまかすよりは、きちんと説明するべきだろう。そう思ったのである。


「……聖女の、魔力」

「はい……ごめんなさい。隠してて」


 ラスカはゆっくりと目を開いた。月の目が、湯の中に揺らめく黄金の光を映し出す。確かに——この湯には、並外れた魔力が溶け込んでいた。


(やっぱり、普通の温泉やあらへん……)


 確かに傷や打ち身に効く温泉は存在する。だが、失った体の部位が元通りになるなんてありえない。それはもはや、魔法だ。


「なあ、セシリアはん」

「はい」

「あんた、なにがしたいんや? 何がしたくてこんなところに?」


 少し間を置いて、セシリアは答えた。


「女将です」


 人を癒やして金儲けしたいわけじゃない。魔道具を作って富を得たいわけじゃない。


「私はただ、快適な宿を作り、そこに来てくれたお客さんが、喜んでくれれば、それでいいんです」


 そのために、セシリアは聖女の力を使っている。


「……ほんまに、それだけか?」

「……それだけです」


 ラスカはじっとセシリアを見つめた。月の目が彼女の魔力を映し出す。黄金に輝く、底知れない魔力。しかし不思議なことに、その魔力から悪意も害意も感じられなかった。ただ——温かかった。


(……悪い人やないんやろな)


 温泉から伝わる暖かさには、まったく邪気が感じられなかった。

 それが全てだった。


「……そか」


 ラスカはそれ以上問わなかった。


「ありがとな。翼を治してくれて」

「お礼を言われることじゃないですよ。ただお風呂を作っただけですから」

「それが大したことなんやって……はあ」


 セシリアは本当に、自分がやったことの凄さをわかっていないらしかった。ラスカはもう驚くことすらあきらめた。


「……なあ、ちょっと聞いてもええか」

「なんですか?」

「フィーネ姫が、あんたのことをものすごく気にしてはる。知ってたか?」


「え、そうなんですか?」

「……気づいてなかったんやな」


 無自覚にもほどがある。


「どうやらフィーネ姫は、三十年前に亡くなった聖女セシリアを、ずっと慕ってはったんや。その方の手記に書かれたことが、今の姫さんの指針になってる……」

「そうなんですね……」


 セシリアの表情がかすかに揺れた。しかしラスカは追及しなかった。


「うちには関係あらへんことやけど……もし姫さんが望むなら、一度きちんと話してあげてほしいな。あの方、ずっとあんたのことを探してはるから」

「…………」


「これだけや。それだけ言いたかった」


 湯からゆっくりと立ち上がり、ラスカは先に浴室を出た。その後ろ姿に、今まで見えなかった漆黒の翼が、美しくたたまれている。

 一人残されたセシリアは、しばらくの間、じっと湯の揺らめきを見つめていた。


(フィーネさんは……気づいているんだろうな)


 見せていないはずの正体を、それでもフィーネは知っている。しかし何も言わずにいてくれている。


(ちゃんと話せるときが来るかな)

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