第26話「底力」
大滝が三振に倒れ、クロ高が8回の攻撃を終えた。その裏、秋江工業の攻撃が始まろうとしていた。
「ナイピ江戸川!」「ここで決めてくれると思っていたぜ」「1点差ならなんとかなる」
秋江ベンチも少し明るめだ。
「油断せずに行こう。この前の練習試合、あの目つき悪いのから打てたやつ一人もいないからな」
溝口が警戒した面持ちで鷹戸を見る。しかし、大坂がそれを笑い飛ばした。
「何言ってんだ。俺らが数ヶ月間怠けていたわけじゃあるまいし、きっと打てる。打てると思わなきゃ打てないぜ」
腑抜けた笑い声に、江戸川も同調した。
「そうだな。第一、俺はまだ一度しかその球見てねえんだ。次は打ってやるさ」
江戸川の言葉に、溝口は思わず笑いがこぼれる。
(ほんと、頼もしいなこいつら……)
8回裏、先頭打者溝口を四球で出塁させるも、続く下位打線3人を完璧に抑え、無失点で終えた鷹戸。6-5。依然としてクロ高有利の状況は続く。ベンチでは、古堂が勝手に投球練習を始めるためブルペンに向かった。
最終回前、監督が打席に向かう伊奈と金条を呼び止めた。
「お前ら、今日当ててるからって油断するなよ。江戸川凛之介は、こういう場面に強い男だ」
「はい!」
大きな声で返事した二人。
まずは5番伊奈が打席に立つ。2回表に出塁して先制点のチャンスを作っただけでなく、7回にはタイムリーツーベースを放ち、打点を挙げている。
(初球ストレートかな)
初球はここまでストレートが多かった。しかし、溝口のことだから、この大事な場面で配給を変えることなど普通にありうる。伊奈もそれを警戒していた。溝口が出したサインは――
「ストライク!」
「ぐっ……(スライダーか!)」
配球を変えることを警戒していたとは言え、ここに来て増す変化球のキレに対応しきれない。初球のスライダー、直球読みで打ちに行った結果空振りとなる。
(確かに今の俺じゃこの人には通用しないかもしれない……。でも、こういう場面で打たなきゃ……例え秋江工業に勝ったって初巾や鉄日に勝てるとは思えねえ!)
伊奈が力を込めてスイングした2球目……ノビのあるストレート。ファウルグラウンドへと鈍いバウンドをする。
(くっ、あれが切れてなかったら凡打じゃねえか……)
2ストライクと追い込まれた伊奈の顔に焦りが見える。ここで普通、3球目は外してフォークボール。もしくはタイミングをずらす意味でもカーブを用いてくる可能性だってある。
(どっちが来たって食らいついてやる……)
意気込む伊奈を前に、溝口が3球目のサインを出す。江戸川が頷いて投げた。
(カーブ!)
山なりを描く変化球。球速は遅め――読みが当たった。伊奈はヒットを狙う。
(エース舐めんじゃねえぞ!!)
対する江戸川はその指先にめいっぱいの体重を乗せて投げていた。鋭くかかった回転、伊奈の手元でボールが急に落ち始めた。
(き、切れるっ!)
ボールは伊奈のバットのさらに下――溝口が構えたミットの箇所へと収まる。空振り三振。先頭打者伊奈はアウトとなった。
(伊奈のやつ、カーブって読みきってたのに外されたか。やっぱりここに来ても江戸川さんの投球は衰えていない。恐ろしいね)
続く金条が打席に立つ。初球のフォークを捉えた金条。打球が打ち上げられる。
(ヒットか!?)
打球を目で追う金条。レフト方向に飛んでいった打球。しかし、レフト里田が打球に追いつき捕球。アウトとなる。
「っしゃあ!」「ナイス里田!!」
「江戸川! 2アウトだぞ!!」
チームメイト同士で声を掛け合う秋江工業。ここに来てさらに好投を見せる江戸川。7番小林は肩の力を抜き、打席に立つ。
(1点勝っている。これはでかい。でも、追加点がなきゃ、鷹戸も安心できないだろうし……)
しかし、小林のスイングをあざ笑うかのように、江戸川の右腕から放たれた投球はことごとく溝口のミットの中に収まっていく。そして、三振に倒れた小林。3アウトとなった。
9回裏、先頭打者は江戸川凛之介。彼はここに来て好投を見せ始めていた。この底力こそが、彼の強みなのだろう、と紅葉監督は笑う。
「お前……今日失点は?」
「6です」
「でもお前は打たれても仕方ない。バッティングもやってるからな。打って取り返してやれ。『攻守本格派』の底力、見せてくれよ」
「はい」
江戸川が打席に向かった。マウンドに立つ鷹戸。
「大丈夫だよな……1点のリード。江戸川、畑中、里田の三人でピシャリと抑えて、勝てるよな」
返田が不安そうに言う。ブルペンで肩を温めていた古堂。元々軟肩なので調子を上げるのも早い。
「大丈夫。鷹戸の球を打てる奴なんてそうそういないよ」
古堂はそう言って笑っているが、投球練習で投げてくるシュートのキレ、ストレートのノビ、どれも出番をずっと待っていたかのような主張力。返田は思わず苦笑いしている。
「強いて言えば……大坂さんともう一回勝負したかったかな――」
古堂がそう言った刹那、鳴り響く金属音。鷹戸のポップするツーシームジャイロボールを打ち返した江戸川の叫び声。一塁ベース付近で沸き立つ砂埃。
「……そ、そんな」
クロ高ベンチの中には、勝利を掴み取ったという手応えを持っていた者もいた。しかし、こうして出塁されてしまっては、大坂に回ってくるリスクが高いということに気がついた。
「ゲッツー取れゲッツー!!」
古堂がブルペンからマウンドの鷹戸へと叫ぶ。鷹戸は不機嫌そうな顔をしたまま無視した。金条は古堂の叫ぶ声に対し、苦笑いしながら、2番バッター畑中を見る。
(こいつの送りバント成功率は高い。下手すりゃゲッツーの可能性を潰されるぞ)
金条が鷹戸にもう一度ポップするジャイロボールを要求した。しかしこれは、鋼のような肩の鷹戸だからこそできる技であり、さすがの彼も多用はできない。それでも、鷹戸は、一塁ランナー江戸川と、打席に立つ畑中を交互に睨みながら、頷いた。
(ただでさえ出塁されて苛立ってるもんな――簡単に送りバントさせねえって顔だぜ)
金条が笑った。初球――見逃してストライク。送りバントの姿勢は取らない。
(なるほど、みすみすアウト一つやるなんてことはしねえってか……体は小さいくせに……考えることはデカイな)
ファースト伊奈が冷静にその場を客観視していた。時々飛んでくる鷹戸の牽制球が痛い。そして2球目。スプリットは下に外れてボール。
打席に立つ畑中は、その球威に思わず仰け反る。
(怖いよなあ……このぴっちゃー、目線も鋭いし……)
3球目。外に外れるストレート。ジャイロ回転はしていない。
(だいたいジャイロボールとフォーシーム、ツーシーム投げ分けるとか反則じみているでしょ。全国のピッチャーに謝れってんだ)
4球目のツーシームを見逃して2ストライク2ボールと追い込まれる畑中。
(完全にバントはできなくなったな……と思ってるよなバッテリー。でもあいにく僕が秋江工業のレギュラーになるために磨いてきたのは、バントだけなんで!)
5球目、コン――と小気味良い音がする。転がる白球が土の上に鈍く落ちる。その間にも江戸川は全力疾走で二塁ベースへ向かう。
(追い込まれてからバントとかどんだけ強心臓だっての!)
金条が打球を拾い上げて一塁に送球。ヘッドスライディングするも間に合わない畑中だったが、送りバントは成功させた。1アウト二塁のチャンスを作り上げた。
「っしゃあナイス畑中!!」
ベンチに戻ると、チームメイトが祝福してくれる。アウトになったにも関わらず――だ。
(僕の最低限の仕事は果たしました――あとは頼みますよ、里田先輩、大坂先輩)
打席に立つ三番バッター里田。向かいのマウンドに立つ鷹戸の不機嫌そうな表情はいつになく増していた。
(やべえ……怒ってるだろうな鷹戸)
金条が初球、ツーシームを要求。鷹戸は睨みながらもこくりと頷く。
(サイン素直に聞いてくれるだけマシか……)
投げられたボール、打ち返す。初球打ちを狙ってきた里田。しかし、手元で沈むボールに芯を外され、転がしてしまう。江戸川は打球を捕球してすぐさま二塁ベースを見る。しかし江戸川は走っていない。すぐさま一塁ベースに投げ、里田をアウトにした。
2アウト二塁の場面。打席に立つのは、毎試合本塁打を放ち、今試合でも三打点をあげる正真正銘の4番バッター、白銀世代の大坂大磨である。腑抜けた声ときりっと締まった表情のギャップに、観客も沸き立つ。そういえば――と思い返すようにスコアボードを見た金条。観客は皆、期待しているのだ。9回裏、逆転のツーランホームランに。
(片や現在1点のリードを保つ、夏に県を制覇した強豪校。片や現在1点を追う、夏一回戦負けの落ちた強豪校。これで逆転打を放てば実にドラマティックな展開になるだろう。どっちかの高校のファンとでもない限り、観客はどうしてもこういう場面、応援したくなるもんさ)
大坂は大きく息を吐いた。この表情――根っからの野球人なのだろうと思わせる。金条も思わず身震いした。しかし、目の前に立つ鷹戸は笑っている。
(あれ、もしかして……大坂ともう一回戦うの楽しみにしてたクチか?)
金条は苦笑いさせられる。不思議と緊張も取れていた。彼の予想どおり、大坂との勝負のために今日来ているようなものだった鷹戸。望まなかったようで、望んでいたもう一打席。ここで完璧に抑えて、自分が上だ――と証明したくなる。大坂大磨はそんなバッターだった。
(敬遠は鷹戸の性格も考えて無し。この場面で大場に回すのも辛いところがある。しかしな……)
絹田監督は動かないようで色々と思案していた。ブルペンを一瞥すると、古堂が既に投げている。
「林里、返田に古堂の調子を聞いてくれないか?」
「あ、はい!」
ベンチで応援していた一年生、林里がブルペンへと走り、返田に古堂について伺う。
「古堂、どう?」
「……こいつ、飢えてる――勝負に」
返田の顔には汗が流れる。林里がベンチを振り返ると、監督と目が合う。ゆっくり頷いた両者。絹田監督がベンチから大きめの声を出した。
「古堂、ちょっと来い」
初球――大坂は空振りをする。いきなりのスプリットに、対応できなかった。
(なんつー勝負強い配球を……溝口と張り合えるんじゃねえのかこいつ)
大坂は金条を見てニヤついた。金条も笑い返す。
(これが――鷹戸遥斗だ!!)
2球目。高めに外れるストレート。
「いい球投げるねえ……」
呟く大坂。この球威にへらへら笑っていたのは、金条が今まで見た中では、クロ高黄金世代の打撃陣くらいである。自信を失いそうになる金条だったが、マウンドからじわりと伝わってくるウェットな闘志に、目を醒ます。
(強豪とか元強豪とか関係ない。毎年チームは変わる。その度に苦悩する。でも、そうやって悩んで、悩んで、悩み抜いて、努力して成長した奴が勝っていくのがこの秋大会だ。それなら……大坂がどんなホームランバッターでも関係ない。観客が逆転の一打を望んでいようと関係ない。黒光はいつだって努力してきた。俺たちが勝つ!!)
金条の3球目の配球。低めギリギリに入ったスプリット。2ストライクノーボールの場面なら、低めに落ちる球を見逃すかも知れない――と選球眼のある大坂の性格を逆手にとったものである。
サインを出した金条。頷く鷹戸。投げられた投球。浅く握られたボールが鋭く回転をしつつも、縫い目が風の抵抗を受けて、その回転を急に失う。打者大坂の手元でぐっと下に落ちたボール。
(来い!)
目を見張った金条。大坂はバットを振りに来ている。さすがにこの場面での見逃し三振は怖いと思ったのだろう。しかし、この低さなら空振りを誘える。この球威なら凡打を誘える。そう金条が確信したその時だった。
「!?」
風圧を受ける金条。遅れてやってくる目の前でバットが振り抜かれた音――直後に響く金属音。
「センター!!」
反射で叫んでいた。まっすぐ打ち返された打球が弧を描く。打球を見上げる鷹戸。後ろに走る山口――――。
「入れー!!」
観客が四面楚歌で打球を後押しする。秋江工業4番の底力に、金条も、鷹戸も、ただただ呆然と立ち尽くすしかなかった。




