第149話「その日の晩」
「凄かったなあ、新田先輩……」
こう呟くのは、小豆空也。
「どうしたんだ? 急にそんなこと呟いて」
尋ねるのは林里勇。彼はグローブにグリースを塗っていたところだった。
「いや、明日、僕にもチャンスがあるんじゃないかなって少し期待してるんだ」
「ほう……まあ、新田先輩の後は鷹戸とコドーだけじゃ若干しんどいと思うしな。伊東さんも調子を上げてきてはいるけど、やっぱりお前の力も欠かせないと思うし」
林里の言葉に、強く頷く小豆。
「風呂はいろーぜ」
そんな二人を呼びに来たのは、大滝と古堂。たった今、ミーティングを終えたところらしい。月も見え始め、空の暗さも目に見てわかる時間だと気づき、小豆と林里は腰を上げた。
合宿場の廊下を歩く4人。その中でも、レギュラーメンバーの二人は、特に静かだった。普段うるさい古堂でさえ口数が無いあまりに、林里と小豆の二人も、思わず緊張を共有していた。
「……小豆はさ、新田さんが膝無理してたって、気づいてた?」
「いや、全く……」
古堂に尋ねられ、小豆は首を横に振る。
「すげえよな」
古堂からかけられた言葉は、意外なものだった。
「……新田さん、限界を超えようとしてまで、居残り練習しまくってたし、試合でも全力で投げてた……。俺たちに悟らせないぐらいに、気迫を押し出して――」
古堂の言葉に、小豆は思った。
(古堂は……新田さんのこと、ガチで尊敬してるんだな……彼のエースとしての側面を)
「俺も、あの人みたいなエースになりたい。あれぐらいのピッチャーになりたい。新田さんがケガして余裕できた今だからこそ、新田さんが引退する前に全部学びたい……」
「……古堂」
いつになく饒舌な古堂に、大滝と林里も少し気にかけている。
「……明日は勝つ」
(古堂が勝利を意識したことって……あったっけ?)
新田のケガによる古堂の変化を、三人はわずかに感じているのだった。
「え? 鷹戸の様子がおかしい?」
合宿場の風呂場の中で、今宮と伊奈と田中の三人が話していた。
「今日の晩、明らかにおかしかったッス。元々ストイックだったんすけど、さらにというか」
「新田の故障に焚きつけられているんだろうか?」
田中の見解に、今宮も同意だったらしく、わざわざ噴き出るシャワーを止めた。
「だとすると、ちょっと危険だと思わないか? 古堂や鷹戸や伊東たちのハードワークに繋がったら、また故障者が出かねない」
「コドーは大丈夫だと思うんすけどねえ」
「わからないぞ。新田のこと一番尊敬してるの、なんだかんだいってあのバカだろ」
少なからず新田の故障に動揺を覚えていたチーム全員。そんな故障者の当人は、誰かに呼ばれて合宿場の屋上に来ていた。足音がして振り返る新田。
「呼んどいて遅れるはないだろ、伊東」
「まあまあ、すまんすまん」
フェンスにもたれかかりながら、新田と同じ方向を向いた伊東。夜空には夏の大三角が出ていた。
「夏大には間に合うんだよな?」
「ああ。間に合わせる」
「良かったぜ」
数秒の沈黙が走る。
「それだけを言いに来たんじゃないだろ?」
沈黙を破る新田の言葉に対し、伊東の返事は無い。
「おい」
少し笑いながら返事を催促した新田。ふと横を見ると、伊東の不安そうな表情があった。
「……俺は不安なんだ」
いつもひょうきんな態度でチームを笑わせてきた伊東の表情に、新田は次の言葉を見失った。
「俺もずっとクロ高でやってきたとはいえ、不安なんだ。もしも新田がいなかったら、俺はエースとして投げられるのかって、ずっと不安に思ってたんだ。こんなことお前に一番言っちゃいけない言葉だってのはわかってる……でも、俺は不安なんだ」
「……伊東」
「鷹戸や古堂が調子を上げてきて、悔しいなって思う反面、全国相手に投げられるやつが入ってきて良かった……って思っちまってる自分もいて……お前も安定してるわけじゃなかったし、いつも不安に押しつぶされそうだったのが、安心しちまってる自分と、それじゃいけねえって思ってる自分とごっちゃになっちまって……」
「……」
伊東の言葉に、新田はただ黙って聞いていた。
「……今日のピッチング見てて思ったんだ。『ああ、やっぱエースはお前しかいない』って」
不安そうな伊東が少し笑いながらいうものだから、新田は思わずこみあげてくるものを感じた。
「そしたらさ、不安がってたこととか、凄くどうでも良くなってさ、ああ。俺はこいつのリリーフなんだ、これで良いんだって思えて……不安も一気に無くなった。ずっと感じてた重荷がさ、すっと無くなっていったんだよ。だからさ……お前も今、凄く不安だと思う。夏大会に間に合わせたい焦りの気持ちとか、チームの士気下げちまったんじゃないかっていう心配だとか、エースとしての責任がとかをよ。でも、任せてくれよ。俺がいる。鷹戸がいる。古堂がいる。小豆や井上だってすげえピッチャーだし。今宮や田中だっている。チーム全員がお前の帰りを待ってる。お前がエースとして帰ってくるまで、この野球部を、お前の帰る場所を残しといてやる。だからさ……」
伊東の言葉に、新田もわずかに感じていたものが、少しずつ無くなっていく気がした。
「明日の試合は勝つぜ。相手は桐陽だけど、勝つ。お前が帰ってくるまで、もう負けねえ」
「……サンキューな……伊東」
二人で夜空を見上げながら、お互いの利き手をぶつけ合った。
「そういえば、テニス部の新井ちゃんとは最近どうなんだ?」
「……はは、今宮といい、お前ら新井ちゃん好きすぎかよ」
「当たり前だろ、うちの学年で一番かわいい子じゃないか」
「バカヤロー。俺には今、野球しかないって」
チームに突如としてのしかかった不安は、すぐには消えないのかもしれない。それでも、じっくりと現状と向き合っていく。クロ高ナインはもう、次を見据えていた。そんな彼らに飛び込んでくるニュースが一つ――
「鉄日高校、北信越大会圧勝……か」
「清龍相手に4-0。初巾はベスト8だった」
携帯電話を見ながら、山口と小林と金条と佐々木が話していた。
「そんで、やべえのがいたんだろ?」
「ああ。それは二回戦の初巾VS諏訪涼成」
「スワ高ですか?」
佐々木が尋ねる。
「ああ、あの法寺がいたところだ」
「スワ高は見たところベスト4ですね。鉄日に1-2で負けてる……え? 2点に抑えたの?」
金条が驚いているのは、圧倒的に上がった守備力――ひいては投手力である。
「ああ、どうやら、レイモンドを三打席全部抑えた化けモンがいるらしい、初巾には2-0で勝ってるからな」
「んで、見てみたところ、諏訪高の一年に松藤貴良っていう左のすげえピッチャーが入ったらしい。んで、こいつ外野とファーストも守れるらしく、木庭とWエースでやってるらしいぞ」
「マジかよ……ただでさえ法寺っつー化けモンいたのに、そんなにいいピッチャーまで入っていたのか」
「鉄日も、珍しく代打継投構成を取ってる。準決勝では宮城-高見-黒鉄。んで、スワ高相手に二点とった二点のうち、一点目は地村さん。二点目は代打で入った2年の暗黒世代――赤河栄介だと」
山口の言葉に、金条は震えた。
「あ、赤河栄介……」
鉄日高校との練習試合で、古堂からスリーランホームランを打ち決勝点を取った男の名を思い出した金条。
「ほかの地方の大会も見てみようか? 4月に終わってる近畿大会では、桐陽が準優勝、優勝は兵庫の鳳鳴学園。まあ、龍宮も知廉も桐陽も、主力を温存させてるからね……」
「東海は……ん? 見たこと無い高校だな、愛知の修習館が準優勝、岐阜の大垣が優勝してるね」
山口と小林が次々の結果に触れていく中、金条は一人思案していた。
(もし、新田さんが復帰間に合わなかったら、古堂や鷹戸だけで、鉄日と戦わなくちゃいけないのか……)
こうして、夜は更けていく。明日は、近畿大会準優勝チーム、桐陽学園との試合である。




