第08話 一曲分の欲張り
延期された集まりには、白薔薇の代わりに松の枝が飾られていた。
荘園主夫人の名はユーディット。夫を亡くしてから十五年、南の谷の荘園を守っているという。迎えられたミラは、彼女が着古した絹を仕立て直しているのを見て、少し親しみを覚えた。
「雪の日は、ありがとうございました。うちの粉挽きも助かりました」
「皆様が、動き方をご存じでしたから」
「でも、あなたもそこへいらした」
夫人は当たり前のように言った。
ミラは、礼を受け取るのも練習が必要だと思った。
広間は城より小さく、客も二十人ほどだった。
楽師が弦を合わせ、食卓には焼いた根菜や肉の煮込みが並ぶ。ミラが迷っていると、ルーカスは香草の入った丸い料理を半分に分けた。
「これは塩味だ。砂糖ではない」
「花に警戒なさっているのですね」
「しばらくは」
笑って受け取ったとき、背後で明るい声がした。
「まあ、珍しい」
赤銅色の髪をした女性が立っていた。ミラより少し年上に見え、淡い緑の服を着ている。姿勢がよく、こちらを見る目がまっすぐだった。
「あなたが人のお皿を気にするなんて」
ルーカスの表情が動いた。
「アデル」
「お久しぶりです、閣下」
少しだけ、呼び方を強調した。
知っている人なのだとわかった。
彼女はミラへ礼をし、名乗った。ユーディットの姪で、幼い頃この谷で暮らしていたという。
「小さい頃の若様は、食事をすぐ済ませて馬小屋へ行ってしまわれたので」
「その話は、今しなくても」
「今のほうがよいでしょう。奥様に、上達ぶりを知っていただかなくては」
ルーカスの困った顔に、昔から知っている人だけが向けられる遠慮のなさがあった。
ミラは胸の奥が少し狭くなるのを感じた。
知らない彼を、この人は知っている。
当然のことだ。出会ってまだ二週間も経っていないのだから。
だが当然だとわかっても、何も感じなくなるわけではなかった。
「奥様は、踊りがお得意ですか」
アデルに聞かれ、ミラは少し迷った。
「練習中です」
「では、閣下のお相手は大変でしょう。昔は三歩目で必ず」
「今は、五歩目までいける」
ルーカスが言う。
「一周できます」
ミラは思わず訂正した。
二人がこちらを見た。
アデルは目を細めた。
「それは失礼いたしました。よい先生がいらしたのですね」
そう言って、あっさり別の客へ向かった。
気まずさだけが残った。
「すみません。余計なことを」
「いや、嬉しかった」
ルーカスは皿の残り半分を口にした。
「君に庇ってもらえるのは、悪くない」
ミラは自分の皿を見た。
味が、よくわからなくなっていた。
一曲目が始まると、ルーカスはすぐ手を差し出した。
昨日までの練習がある。そう思っていたのに、人が見ているだけで膝が固くなる。
「先生」
彼が小声で呼んだ。
「右だったか」
「左です」
「助かる」
わざと聞いたのだと、二歩目でわかった。
肩が少し緩み、足も動く。
広間を回るうち、周りの人の顔が一度ずつ見えた。ユーディットは穏やかに笑っている。ガレスは壁際で何か食べている。アデルは楽師のそばで拍子を取っていた。
ミラは夫へ目を戻した。
今この曲を踊っている相手は、自分だった。
彼の背に触れた指へ、少しだけ力を入れた。
「痛かった?」
「いいえ」
「足ではなかったか」
「はい」
彼は不思議そうだったが、それ以上聞かず、支える手を少し深くした。
曲が終わると拍手が起きた。
ただ一曲、転ばずに踊っただけ。
だがミラには、大勢の前で何かを完成させた初めての日のように思えた。
休憩の間に、ルーカスは荘園の水路の件で呼ばれた。
ミラは窓辺で果実水を飲んでいた。さっきまで熱かった背が、離れるとすぐ寂しくなる。そんなことを考える自分に驚いた。
アデルが隣へ来た。
「彼、あなたを見るときだけ、ゆっくりしますね」
「……そうでしょうか」
「昔はいつも、次にすることを探していました。誰かが手を借りたそうなら、話の途中でも駆けていって」
「今も、そうです」
「でも、さっきはあなたのお返事を待っていた」
ミラは杯へ目を落とした。
「幼い頃から、ご一緒なのですね」
「七つまでです。その後は南で暮らしました。だから、今の彼はあなたのほうがよくご存じでしょう」
「私は、まだ何も」
アデルが首を振った。
「知らないところがあるのと、何も知らないのは違います」
言われて、ミラは指先の傷を思い出した。
酸っぱいものが苦手なこと。暖炉をいじるとき、眉間に皺が寄ること。笑う前に、片方の口角が上がること。
「あなたは、彼の名前を」
声が小さくなった。
アデルは窓の外を見た。
「叔母から、余計なことは聞くなと。ただ、あの人が誰かは知っています」
「ご不快では、ありませんか」
「あなたに、何か強いられているのですか」
「いいえ」
そこだけは、迷わなかった。
アデルは微笑んだ。
「なら、お二人がご自分で話す日を待ちます」
安堵より先に、責任が増えたと思った。
待つ人がいる。
隠している事情を、勝手に暴かずにいてくれる人が。
「ありがとうございます」
「一つだけ、意地悪を言っても?」
ミラが顔を上げると、彼女は笑っていた。
「さっき、一周できるとおっしゃったお顔、とても奥様らしかったです」
意味を考え、頬が熱くなる。
アデルは夫へ手を振った。広間の向こうにいる茶色の髪の青年が、慌てて杯を置く。
「うちの人も上達しました。三年かかりましたけれど」
既婚者だった。
ミラは自分の胸の狭さを、果実水と一緒に飲み込んだ。
帰りの馬車で、ルーカスが聞いた。
「疲れたか」
「少し。でも、楽しかったです」
「アデルと何を話していた?」
「あなたのお話を」
彼は警戒する顔になった。
「どの程度、昔の」
「今のお話も」
「今なら訂正できる」
ミラは笑った。
窓の外には雪が光っている。馬車の中は暗く、向かい合うより隣に座ったほうが暖かいと言われて、二人は同じ座席にいた。
「私、少し、羨ましかったのだと思います」
「何が」
「あなたを、昔から知っていることが」
言ってしまうと、後戻りができなかった。
ルーカスは黙ったまま、こちらを見た。
「お姉様の代わりに来ただけなのに、おかしいですね」
「おかしくない」
返事は低かった。
「俺も、君の好きなものを最初に知りたいと思っている」
「……最初に?」
「林檎はリネ殿が知っていた。冬星草は俺が先で、少し嬉しかった」
そんな競争があったとは知らなかった。
ミラは膝の上で指を組んだ。
「では、今日知ったものを」
「何だ」
「あなたと踊るのが、好きです」
馬車の揺れで、二人の肩が触れた。
彼は離れなかった。
「それは、俺も今日、確かめた」
「練習でも?」
「練習でも。本番では、もう一曲欲しかった」
「私もです」
手が重なった。
手袋をしているので、軟膏の匂いはしなかった。でも、あの掌だとわかった。
ルーカスが少し顔を近づける。
ミラは、目を閉じるべきか迷った。
その瞬間、馬車が大きく跳ねた。
二人の額が、軽くぶつかった。
「っ」
「すまない!」
御者が外から謝る。
「石がございました!」
ルーカスはミラの額を確かめた。ミラも彼の額を見た。
同時に、笑いが漏れた。
「大丈夫です」
外へ答えてから、ミラは夫を見た。
彼の指がまだ額に触れていた。
「続きは、揺れないところで」
自分が言ったのだと、少し遅れて理解した。
ルーカスは目を見開き、やがて小さく頷いた。
「覚えておく」
城へ着くまで、つないだ手は離れなかった。




