第07話 花嫁は待たない
集まりの日、ミラの靴は最後まで泥を踏まなかった。
それは晴れたからではない。出かける前に、靴を履き替えたからだった。
午後、南の鐘が三度鳴った。
広間でルーカスと最後の練習をしていたミラは、彼の足が止まったことで、それが時刻を知らせる音でないとわかった。
「橋だ」
彼は手を離し、扉へ向かった。
離れる前に、振り返る。
「南門へ行く。ガレスと状況を見てくる。君は暖かいところに」
「はい」
反射で答えてから、ミラは聞き直した。
「私にできることは?」
「まだわからない。わかったら使いを出す」
それは、何もしなくていいという言い方ではなかった。
ミラは頷き、彼を送り出した。
蓄音石の曲はまだ流れていた。エダが部屋へ入ってきて、石の上に布をかぶせると、音が止まった。
「お着替えを?」
「ええ。裾の短いものをお願い」
宴用の服に何かをこぼしたときと違い、今は躊躇しなかった。
状況はすぐに伝わった。
吹き下ろす風で荷車が橋の出口を塞ぎ、向こう岸に粉挽き小屋の一家が取り残されている。白布の二本は見えた。だから後続の荷車は止まり、巻き込まれずに済んだ。
ただし、橋の上の馬を動かさなければ、一家は渡れない。
ノアは馬をなだめている。ルーカスは外壁から風を弱め、ガレスが人を運ぶ。
使いの少年は息を切らしながら言った。
「奥様には、道を開けるほうをお願いしたいって」
ミラは立ち上がった。
リネが厚い手袋を差し出す。
「石に触れるときだけ外してくださいませ」
「ありがとう」
階段を上がると、昨日の婚礼の場所が別物になっていた。
雪が横へ飛んでいる。ルーカスの外套が風に張りつき、彼は石へ掌を押しつけていた。
「来てくれたか」
目の下が少し強張っていた。
「どこを、見れば?」
「橋の出口。青い柱と、岸の大岩の間だ。通り道を細く残して、左右へ逃がす」
ミラは手袋を外した。
石は冷たかった。それから掌の下だけが温まる。光が伸び、橋の上に薄い膜が現れた。
昨日より、ずっと難しかった。
吹雪の向こうに柱が見えたり消えたりする。焦って力を入れると、膜はかえって揺れた。
「遠く全部を見なくていい。道の先を、一つ」
夫の声へ呼吸を合わせた。
大岩が見えた。岩の黒い影の手前に、細い道を思い浮かべる。
風が少しずれた。
下で歓声が上がった。ガレスが縄を持ち、橋を進む。ノアが馬の頭へ布をかけた。
ミラの掌が熱くなった。
まだ、離せない。
そう思ったとき、ルーカスが言った。
「熱いか」
「少し」
「一度離す。ノア!」
彼が叫び、橋番が顔を上げた。
腕で丸を作ると、下から同じ合図が返る。二人で同時に石を離した。
急に風が戻った。
ミラは恐ろしくなった。
「まだ向こうに」
「岩陰に入った。休んでからでないと、次はもっと短くなる」
彼が自分の手を見せた。赤くなっている。
無理をさせたのではないかと思うと、胸が痛んだ。
ルーカスはミラの手を取った。
「君が来るまで、一人でやりすぎた。俺のほうの問題だ」
「でも」
「今は反省をしている場合ではない。水を飲もう」
差し出された水を、ミラは飲んだ。
冷たかった。喉を通ると、少し目がはっきりした。
下ではガレスが、岩陰の一家に縄を結んでいる。幼い娘が母親にしがみついていた。父親は何かを抱えていた。
「あれは?」
ミラが指すと、ルーカスが目を細めた。
「小麦の種だ。春蒔きの分」
命だけを運べばいいわけではないのだと、ミラは思った。
生き延びた後のものも、人は抱えている。
「次は、もう少し左へ開けます。荷物も通れるように」
「広げすぎるな」
「はい。あの青い柱まで」
二度目は短く、三度目はさらに短く。
合図のたびに道を開き、岩陰へ入ったら休む。
一家が渡り切ったとき、ミラは石の縁へ額をつけそうになった。
ルーカスの腕が背を支えた。
「立てるか」
「今、少し、考えています」
「では、考えながらつかまって」
彼の肩へ手を置く。
ダンスのときと同じ位置だった。
でも今度は、足を踏む心配をする余裕もなかった。
城の台所では、竈が三つとも燃えていた。
助けられた一家だけでなく、手伝った人たちも座り、温かい汁を飲んでいる。馬は厩へ入り、荷車は橋の外へ出された。
小さな娘が、毛布に包まれたままミラを見ていた。
「奥様も、寒かった?」
「ええ。指が、まだ少し変な感じ」
見せると、娘も毛布から手を出した。
二人で手をひらひらさせる。
娘は笑った。
母親が何度も頭を下げたが、ミラは返す言葉を上手く見つけられなかった。自分が助けたというより、皆が知っている方法へ混ぜてもらった気がしたからだ。
「次に会うときは、もっと暖かいところで」
そう言うと、母親は頷いた。
「春に、うちのパンを食べに来てください」
春。
ここにいてよいのか、まだわからない季節だった。
それでもミラは、行きますと答えた。
夕方になって、荘園主夫人から使いが来た。
道が閉じたので集まりは延期する。ただし、ミラのために用意した白薔薇を少し届ける、という。
ルーカスは花を受け取り、何か考えていた。
「君は、白薔薇が好きか」
「きれいだと思います」
「好きなのは?」
ミラは台所の窓に置かれた小鉢を見た。エダが育てている青い小花だ。寒さに強く、折れても水へ挿せば根が出るという。
「あちらの花が。名前は知りません」
「冬星草だ。なら、白薔薇は食堂へ」
姉の好みで贈られた花を、姉のために抱えている必要はなかった。
ミラは小鉢を指で回した。
青い花は、五つ咲いていた。
夜、ルーカスが寝室へ訪ねてきた。
手に、小さな軟膏の壺を持っている。
「マルタに預かった。手に塗るようにと」
「あなたにも?」
「もう塗った」
ミラが掌を見ると、まだ赤かった。
「どなたが」
「自分で」
「では、塗り足しましょう」
椅子を二つ、暖炉の前へ置いた。
ルーカスが先にミラの手へ塗り、ミラが彼の手へ塗った。軟膏は松の匂いがする。傷に触れると彼の指が小さく動いた。
「痛いですか」
「少し。でも大丈夫だ」
「大丈夫という言葉は、よく使う人ほど信用できないそうです」
「誰が言った」
「今、私が」
彼は笑い、それからミラを見た。
「君にも、返しておく」
正しかった。
ミラは壺の蓋を閉めた。
「怖かったです。手を離すとき」
「俺もだ」
「でも、休まないと続かないのですね」
「ああ」
「家では、休むところを見られると、まだ働けると言われました」
彼は何も挟まなかった。
「今日、あなたが休もうと言ってくださって、ほっとしました。その後で、ほっとしてよかったのか、不安になりました」
「よかった」
短い返事だった。
「明日も、その次も。俺が忘れたら、君から言ってくれ」
ミラは頷いた。
火が小さくはぜた。
彼の肩へ頭を預けたいと、ふいに思った。
思うだけにしておけば、誰にも知られない。けれど今日は、怖いと口にすることができた日だった。
「少し、寄りかかっても?」
ルーカスはすぐ椅子を寄せた。
ミラは彼の肩へこめかみを預けた。衣服に雪と薪の匂いが残っていた。
「重くありませんか」
「窓枠より、ずっと軽い」
「それは、褒めていらっしゃいます?」
「比較を間違えた」
笑うと、肩も少し揺れた。
腕が背へ回り、今度は救助のためでなく、そこにあった。
ミラは目を閉じた。
花嫁は、夫が帰るのを待つだけの役ではなかった。
けれど二人で帰った後、こうして休む役なら、とても好きになれそうだった。




