第20話 兄のいない食卓
ヴァレリウスは、町の人々に嫌われる男ではなかった。
むしろ、初対面ではよく好かれた。
相手の名前を一度で覚え、老人の話へ耳を傾け、子どもへ目の高さを合わせる。土産の布を配るときも、値段を口にしない。
ルーカスは役場の窓から、その姿を見ていた。
「お兄様は、お上手ですね」
ミラが隣で言った。
「ああ。昔から」
「羨ましかったですか」
「随分」
彼は素直に認めた。
ミラの姉も、人の輪の真ん中に立てる女だった。その輪の外で荷物を持っていた記憶があるので、気持ちはわかった。
「でも、今は、ここがよいです」
彼女が言うと、ルーカスはこちらを見た。
ミラは彼の腕へ手を回した。
「窓の隣です。あなたの隣、と言いたかったのですけれど」
「訂正しなくても、伝わった」
彼の肩が少し緩む。
広場で兄が顔を上げた。
二人は、腕を離さずに会釈した。
その夜、ヴァレリウスは町の主だった者を城の夕食へ招いた。
招待を出したのは兄だが、城の厨房を使うので、ルーカスは事前の確認を求めた。
「家族の席だぞ」
「食べ物の量が変わります。料理長が困る」
「必要なら、買えばいい」
「今は冬で、届くまで日がかかる」
兄は少し呆れた顔をした。
「お前は、そういうことばかり気にする」
「今夜は、それを気にする役です」
ミラは二人の間へ割り込まなかった。
夫が自分で言い切るところを、隣で聞いた。
ヴァレリウスは結局、客の数を六人に減らした。
それは小さな勝利だった。けれど料理長が、助かりましたと言ったとき、ルーカスの顔は誇らしそうだった。
夕食の前に、セレーネが竪琴を弾いた。
南から持ってきた楽器は、金色の彫りがある。姉が指を置くと、部屋が静かになった。
ミラは聴いた。
上手だった。
美しくて、音が澄んでいる。姉が何もしない女だと思ったことはなかった。望む舞台のためなら、何時間も同じ指の動きを繰り返せる人だった。
最後の音が消えたとき、ミラも拍手した。
セレーネは一瞬、彼女を見た。
その目に勝ち誇る色が浮かんだので、ミラは気づいた。
姉は、比べてほしかったのだ。
だが隣のルーカスは、演奏を褒めた後、ミラへ小声で言った。
「君は、何か弾いてみたい?」
「聴くほうが、好きです」
「俺もだ。指が足りない気がする」
「十本ございますよ」
「それでも」
笑いが漏れた。
姉の演奏が美しいことと、自分たちが笑い合うことは、同時にあってよかった。
食卓で、ヴァレリウスは通商の話を始めた。
「東の道が開けば、この町へ入る金は増える。今まで雪のために諦めていた商いができる」
粉屋の息子が興味を示した。
「冬の間も、小麦を売れると?」
「もちろん。私の知る商会なら、まとめて引き取る」
ベスは黙って聞いていた。
ルーカスが尋ねた。
「最初の調査隊の件ですね。荷の確認が済むまで、開けません」
「その慎重さは悪くない。だが、機会を逃すこともある」
兄は弟を褒める声で続けた。
「皆を守りたい気持ちはわかる。お前は昔から、目の前の人へよく尽くす。私は、もう少し遠くを見る役をしよう」
ミラは杯を置いた。
上手な言葉だった。
弟を褒めながら、弟が見ている範囲を小さくする。
ルーカスは兄を見ていた。
その横で、ミラは口を開いた。
「その商いで、町が最初に差し出すものは何でしょう」
「道です。奥方の得意な」
「何日、何人を通しますか。開けた後、町が断れる条件は?」
ヴァレリウスの目が少し細くなった。
「契約の細部は、ここで話すことではない」
「では、よいところだけを、今ここで約束することもできませんね」
卓が静かになった。
ミラは自分が言いすぎたかと考えた。だが、取り消すほど間違ってはいなかった。
ルーカスが続けた。
「遠くを見るなら、道の先に何がいるかも確かめたい。明日、監察官と一緒に書面を見せてもらえますか」
「お前は、私を疑っているのか」
「内容を確かめています」
兄の顔から、初めて笑みが消えた。
ベスが皿を置いた。
「うちは、今夜の話だけでは小麦を売らないよ。来春の種まで運ばれちゃ、困るからね」
粉屋の息子が慌てて頷いた。
話は、次の料理へ移った。
客が帰った後、ヴァレリウスは弟を呼び止めた。
ミラが一緒に足を止めると、兄は彼女へ礼をした。
「少し、兄弟で」
ルーカスはミラを見た。
「先に戻っていてくれるか。後で話す」
自分で選んだ言葉だった。
ミラは頷いた。
「お茶を、残しておきます」
兄の許可を待たず、廊下へ出た。
ルーカスが戻ってきたのは、半刻ほど後だった。
小広間で待っていたミラは立ち上がりかけたが、彼が首を振ったので、そのまま座っていた。
夫は隣へ腰を下ろした。
「昔の話をされた」
「どのような」
「俺が六つのとき、川に落ちた。兄が助けた。そのことを覚えているかと」
ミラは茶を注いだ。
「覚えていらっしゃるのですね」
「ああ。感謝している。だからと言って、今の契約を読まずに認めることはできないと答えた」
彼は両手を見た。
「言えたよ」
ミラは茶碗を置いた。
彼の首へ両腕を回し、頬へ口づけた。
ルーカスが目を丸くする。
「褒めているのか」
「とても」
「子どもみたいだな」
「二十五歳の夫を、褒めています」
彼は笑った。
その顔が好きだった。
世間でいちばん立派な男である必要はなかった。自分の昔の怖さに勝って、こうして帰ってくる人が、ミラの夫だった。
「兄は、最後にこう言った。父の前では、また自分が庇うことになると」
「お返事は?」
「頼まない、と」
ミラはもう一度口づけた。
「それも?」
「それもです」
ルーカスは茶を飲む前に、彼女を抱き寄せた。
「今夜は、兄の話をここまでにしたい」
「賛成です」
「君の話を聞きたい」
「今日、何度もあなたを見ていました」
彼は瞬き、それから嬉しそうに笑った。
「それは、詳しく聞きたい」
ミラは肩へ頬を寄せた。
兄のいない食卓は、二人分の茶だけで十分賑やかになった。




