第13話 私の名前はミラです
役場の広間は、パンの焼ける匂いがした。
長い話になるなら腹が減るだろうと、店主が余りを持ってきたのだという。
ミラは入口でその籠を見つけ、足を止めた。
まだ、何の話か知らない人が焼いたパンだった。
右手の指輪へ、左手を重ねる。
ルーカスが隣で足を止めた。
「入ろう」
手を引かず、同じ歩幅で扉を通ってくれた。
集まっていたのは六十人ほどだった。
壁際に立つ者もいる。子どもを連れてきた母親もいた。大勢の前に立った婚礼の日とは違い、花も歓声もなかった。
ルーカスが先に口を開いた。
「今日は、砦の守りではなく、俺たち自身について話すために集まってもらった」
声はよく通った。
「婚礼で、俺はヴァレリウス・アーレンスとして立った。だが、その名は兄のものだ。俺はルーカス。ここで育ち、皆と働いてきた次男だ」
小さなざわめきが起きた。
知っていたという顔も、隣へ確かめる顔もあった。
「兄は来なかった。父に命じられ、代わりに立った。だが、命じられたから仕方がなかったと、言い切るつもりはない。ここを離れたくなかった。自分なら守れると思った。その望みのために、違う名を使った」
ミラは彼の横顔を見た。
声が震えていないからといって、怖くないわけではない。
卓の陰で、彼の指は固く組まれていた。
ミラは自分の指をほどいた。
次は、自分だった。
「私は、セレーネ・カーレンではありません」
今度のざわめきは、大きかった。
「妹の、ミラです」
パン屋の母親が目を見開いた。
粉挽きの男が、眉を寄せた。
それを見ても、目を逸らさないようにした。
「姉が縁談を嫌がり、両親は私を代わりに送ることにしました。先方には伝えていませんでした。私も、着いた日に偽名を名乗りました」
ここまでは書いた通りだった。
次の言葉は、紙を見なくても出た。
「ルーカス様とは、婚礼の前夜に互いの名前を知りました。そのうえで、二人で結婚すると決めました。立会ってくださった方には話しましたが、皆様には、すぐには伝えませんでした」
「どうして」
誰かが言った。
責める声ではなかった。
だから、余計に苦しかった。
「ここに、いたかったからです」
ミラは答えた。
「帰りたくありませんでした。この人と、一緒にいたかった。王都へ調査を求める手紙を出し、その返事が来れば説明しやすくなると、待っていました。でも、その間も皆様は、私たちを違う名の夫婦として迎えてくださいました」
喉が詰まりかけた。
一度、息を吸う。
「知らないまま、祝福してくださったことに甘えました。申し訳ありません」
頭を下げた。
ルーカスも、隣で頭を下げた。
誰も、すぐ顔を上げろとは言わなかった。
最初に質問したのは、羊を飼っている老人だった。
「守り石は、どうなってる」
ガレスが答えた。
「式に立った二人と結ばれています。名前に反応したのではありません。今も使えます」
「なら、まあ」
「まあ、じゃないでしょう」
パン屋の母親が言った。
老人が口を閉じる。
「使えるかどうかの話と、嘘をつかれた話は、別だわ」
「その通りです」
ミラは顔を上げた。
母親は彼女を見ていた。
「私、王都から来た立派なお嬢様だと思って、失礼をしないようにって。何を出したらいいか、何て呼べばいいか、考えたんです」
「はい」
「ミラ様と呼んでいいと言われて、嬉しかった。それも、隠すためだったんですか」
言葉が胸へ入った。
答えをよく見せたくなった。
でも、よく見える答えを選んだから、ここまで来てしまったのだ。
「隠すためでも、ありました。でも、呼んでいただけて嬉しかったのは、本当です」
母親は唇を結んだ。
納得した顔ではなかった。
それを、急いで変えようとしてはいけないと思った。
「奥様は、今後もここにいるんですか」
粉挽きの男が聞いた。
「私たちは、いたいと思っています」
「お姉さんが来たら?」
「私の夫を、姉へ渡す意思はありません」
言い切った瞬間、広間が静かになった。
ルーカスがミラを見た。
ミラは前を見続けた。
「姉の名前や、姉の衣装は返します。けれど、この人と結婚すると決めたことは、姉の持ち物ではありません」
後ろで、ベスが深く息を吐いた。
ルーカスも言った。
「俺も、ミラを兄へ譲るつもりはない。だが、それと、この砦を預かる資格は分けて考えてほしい。俺たちを認められないなら、その意見を聞く」
「辞めるってことか?」
ノアではない若い男が立ち上がった。
「今、冬だぞ。ほかに誰が石を動かすんだ」
「引継ぎなしに去るつもりはない」
「じゃあ、結局選べないじゃないか」
その言葉は鋭かった。
ミラはルーカスを見た。
彼も、返事を急がなかった。
ガレスが前へ出た。
「守り石は二人なら誰でも結び直せる。ただし、今の二人の立会いが必要だ。町が別の組を選んだら、二人には引継ぎをしてもらう。それは約束している」
「私も、従います」
ミラが言った。
「私たちしかできないから、と許していただくつもりはありません」
若い男は、ゆっくり座った。
怒りが消えたわけではなかった。
けれど、選ぶ道があることは伝わったようだった。
次にバルトとベスが話した。
バルトは前夜の告白を聞いたこと、式で偽名を読み上げなかったこと、それで十分だと思ってしまったことを述べた。
ベスは、花嫁の袖を縫った話はしなかった。
「私は、二人が一緒にやるところを見たかった。それで賛成した。皆へ黙っていた責任はある」
リネも、ミラの家での苦労を並べなかった。
ただ、同行を自分で選んだこと、ミラが自分で婚礼へ立ったことだけ話した。
かわいそうな娘として扱われなかったことが、苦しいほどありがたかった。
話は一刻以上続いた。
王都がどう判断するか、費用は誰が払うか、兄姉が来たら争いになるか。答えられることと、まだわからないことを分けて話した。
ルーカスは東峠の調査隊についても隠さなかった。
「兄の名で交わされた約束がある。俺は引き受けた覚えがない。危険がないか調べるまで、道を開けない」
羊飼いの老人が頷いた。
「そりゃ、そうしてもらわんと困る」
パン屋の母親も、その点には頷いた。
すべてに賛成か、すべてに反対かではない。
人の気持ちはもっと複雑なのだと、ミラは目の前で知った。
最後に、ルーカスが尋ねた。
「今日、この場ですぐ判断してくれとは言わない。五日後、もう一度集まってほしい。その間、質問は城でも役場でも受ける。別の二人を望むなら、それも話してほしい」
誰も拍手をしなかった。
ミラは、それでよかったと思った。
簡単に許されるために、話したのではない。
人々は少しずつ出ていった。声をかける人も、会釈だけの人も、何も言わない人もいた。
パンの籠は、半分残っていた。
ミラが片づけようと手を伸ばすと、店主が先に持ち上げた。
「うちで使いますから」
「……はい」
彼はすぐ出ていかず、困ったように顎を撫でた。
「妻が、怒ってましてね」
「当然だと思います」
「俺も、何とも。若様は知ってましたが、奥様は」
ミラは頷いた。
「また、話してください。お聞きします」
「そのつもりです」
店主は籠を抱えて去った。
その背中を見送ると、ようやく膝が震えた。
役場の外で、雪が降り始めていた。
ルーカスはミラの前へ立ち、外套の留め具を直した。最初に町へ下りた日と同じ手つきだった。
「歩けるか」
「はい」
「腕を」
ミラは彼の腕へ手を回した。
城までの坂は、来たときより長く感じた。窓の向こうで人がこちらを見た。見られていることから、もう逃げられない。
「言って、よかったのでしょうか」
口からこぼれた。
ルーカスは足を止めなかった。
「よかったかどうかを、すぐ楽になったかどうかで決めたら、また黙ると思う」
ミラは彼の袖を握った。
「今は、苦しいです」
「俺も」
「でも、もう、ミラと呼ばれて振り返ってよいのですね」
彼はそこで足を止めた。
「ミラ」
雪の中で、自分の名が聞こえた。
ミラは顔を上げた。
「ルーカス様」
彼の口元が少し緩んだ。
それだけのことを確かめて、二人はまた歩いた。
城の門で、エダが待っていた。
「お帰りなさい、ミラ様」
いつも通りの声だった。
ミラはその場で、初めて泣いた。




