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姉の身代わりで嫁いだ私を、旦那様は「誰にも返さない」と言いました  作者: 星舟能空


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第12話 名乗る前の夜

 ガレスは、怒らなかった。

 その代わり、しばらく二人を見てから、椅子へ深く座り直した。

「待ちすぎるところでした」

 ミラは膝の上の指を握った。

「申し訳ありません」

「私も同じです。王都の返事が来れば、説明しやすいと思っていた。しかし説明のしやすさと、知らせるべき時期は、別でした」

 バルトも頷いた。

「立会った者も、同席いたします」

「責任を負わせたいわけでは」

 ルーカスの言葉を、ベスが遮った。

「負ってるんだよ。あの夜から」

 部屋が静かになった。

 ミラは、自分たちの二人だけの約束が、二人だけでは守れないものになっていたと知った。

 それは心強くもあり、重かった。

「皆様にも、ご自分の言葉で話していただきたいです」

 ミラは言った。

「私たちのために、よいように言わないでください。反対だったことも、不安だったことも」

 ノアが頭をかいた。

「俺は、今もそんなに名前が大事かはわからないです」

「私は、大事だと思います」

「はい。奥様を見てると、それはわかるんです。でも、若様が誰かは、昔から知ってましたから」

 ミラは頷いた。

 自分とルーカスでは、隠していたものの大きさも違う。

 町の人々にとって、彼は名乗りが変わったよく知る青年だった。自分は知らない家から来た、経歴も名前も違う女だ。

 同じ嘘でも、同じようには受け止められない。

 それを覚悟しておかなければならなかった。


 翌々日の午後、役場で話すことになった。

 町の家ごとに一人ずつ来てもらう。来られない家へは後で訪ねる。話を聞いた人だけが知り、聞けなかった人だけが噂を受け取る形にはしない。

 具体的に決めると、怖さも具体的になった。

 パン屋の母親。

 助けた粉挽きの家。

 衣装を縫ってくれた女たち。

 ミラはその夜、食事を半分残した。

 ルーカスは無理に食べろと言わず、残りを小皿へ移してもらった。

「後で腹が減るかもしれない」

「あなたも、あまり」

「俺も後で食べる」

 二人分の皿が、同じ覆いの下へ入った。

 そんなことにも、まだ救われる。


 寝室でリネが髪をほどいてくれた。

「小さい頃、奥様に叱られる前の晩も、こうして黙っていらっしゃいました」

「覚えているの?」

「髪を引いてもお気づきにならないので、心配いたしました」

 ミラは鏡の中の乳母を見た。

 額の傷は、もう細い線になっていた。

「私のせいで、あなたまで」

「私は、奥様の言いつけを破って、焼き菓子を持ち出しました」

「それは」

「自分で選びました」

 櫛が髪を通る。

「ミラ様だけが意思をお持ちなのではありません。私も、あのお屋敷に残るより、あなたと来たかったのです」

 ミラは目を閉じた。

 自分が誰かへ迷惑をかける話ばかり考えていると、その人の選んだことまで、なかったことにしてしまう。

「……来てくれて、ありがとう」

「どういたしまして」

 リネは鏡の中で笑った。

「明日は、よくお眠りください。明後日は、寝不足でも来てしまいますから」

 その通りだった。

 だが眠れと言われて眠れるほど、ミラは上手にできていなかった。


 真夜中、廊下で小さな音がした。

 ミラが扉を開けると、ルーカスが立っていた。

 片手に覆いのついた皿、もう片方に燭台を持っている。

「起こしたか」

「いいえ」

「腹が減った。君は」

 言われると、確かに空腹だった。

 ミラは扉を開けた。

 二人で暖炉の前へ座り、冷めた肉とパンを分けた。昼なら味が濃いと思う料理も、夜中には不思議とちょうどよかった。

「子どもの頃、厨房から夜食をもらったことがある」

 ルーカスが言った。

「兄が狩りで獲物を仕留めた祝いで、宴があった。でも俺は先に寝ろと言われて、食べ損ねた」

「お兄様と、おいくつ違うのですか」

「三つ。あの頃は、その三つが大きかった」

「今は」

「小さくなったと思っていた。けれど父の前へ立つと、まだ三つどころじゃない」

 彼はパンを割った。

 いつものように、同じ大きさになるよう確かめている。

「兄は、父の前では必ず俺を庇った。ルーカスに悪気はない、と。その後で、俺に言うんだ。お前が余計なことをすると、俺が困る、と」

 ミラはその声の静けさを聞いた。

 大きな怒りになる前に、何度も押し込めた話なのだと思った。

「庇われると、何も言えませんね」

「そうだ。感謝しているうちは、自分の言いたかったことを忘れてしまう」

「忘れた後で、胸が痛くなります」

 ルーカスが彼女を見た。

 二人の間に、長い説明は要らなかった。

 同じ家にいたわけではない。それでも知っている痛みがあった。

「俺は、君にも同じことをしそうになる」

「あなたは」

「俺が責任を負うから、と言えば、君は黙って楽になるかもしれない。でも君が話すはずだったことまで、俺のものになる」

 ミラは皿を卓へ置いた。

「今日は、二人で話すと言ってくださいました」

「忘れたら、訂正してくれ」

「はい。あなたも、私を」

 ルーカスが頷く。

 言い終えても、食事は残っていた。

 二人はしばらく黙って食べた。気まずい沈黙ではなかった。

 話さなくても、隣にいてよいのだと、ようやくわかり始めていた。


 皿を下げようと立ったとき、ルーカスの上着の内側から、小さな箱が落ちた。

 床に当たり、蓋が開く。

 中には銀の指輪があった。

 ミラは動けなくなった。

 彼は箱を拾い、しばらく困った顔をした。

「もっと、よいときに渡すつもりだった」

「これは」

「婚礼の指輪は、兄の名で用意された物だったから」

 あの日、式の最後に交換した輪は、二人とも今もつけていた。外せば何かが終わる気がして、ミラは外せずにいた。

 箱の中の輪は、ずっと細かった。

 青い小石が一つ埋めてある。

「高価な物ではない。町の細工師に頼んだ。君の分だけ先にできた」

「あなたの分も?」

「同じ銀で」

 ミラは箱を受け取った。

「今日が、よいです」

 声が震えた。

「今、いただきたいです」

 ルーカスは片膝をついた。

 立派な広間でも祭壇でもない。寝室の暖炉の前に、食べかけのパン屑が一つ落ちていた。

 それでも、ミラのためだけに人が膝をつくのを、初めて見た。

「ミラ。この先、どういう立場になっても、俺の隣にいてほしい」

 彼女は頷いた。

 言葉が出るまで、彼は待った。

「はい。私も、あなたにいていただきたいです」

 指輪を、右手へ通してもらった。

 左手の古い輪と、今すぐ取り替えるのではなかった。

 古いものにどう決着をつけるかも、これから二人で選ぶ。

 今夜はただ、新しい約束が増えた。

 ミラは膝をついた夫の頬へ手を置き、自分から口づけた。

 彼が息を止め、次いで腕を回した。

 離れたとき、もう夜更けの寒さは感じなかった。


 翌日の午後、ミラは自分の話すことを一度だけ紙へ書いた。

 姉妹の事情を並べると、長くなりすぎた。

 針の傷、食べ損ねた昼食、修道院の話。それらは本当だった。けれど町の人々が知りたいのは、自分がどれほどかわいそうだったかではない。

 なぜ、知ってからも黙っていたのか。

 ミラはそこへ、正直に書いた。

『ここにいたかったからです』

 安全な客室。熱いスープ。夫の手。

 失うのが怖かった。

 そのせいで、知らせるのが遅れた。

 書き終えると、ルーカスへ渡した。

 彼は読み、紙を返した。

「俺も、同じことを言う」

「ここに、いたかったから?」

「君と、いたかったから」

 ミラは指輪に触れた。

 明日、人々が何と答えるかわからない。

 けれど自分が何を望んでいるかは、もう隠さずに言える。

 その夜は、昨日より少しだけ長く眠れた。


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