1-9『再出発』
夜の帳が落ちた朔原は、満天の瞬きに目を奪われる。あのどれか一つになら、手を伸ばせば届きそうだと錯覚する程に綺麗だった。
寒戎の拠点は、雨昕が乗り込んで来てから衡寂恒、続いて玄欒達が到着するまでの間、恐怖と怒号に満ちていた。だが今は、異様なほど静かだ。
櫓の上に掲げられていた旗は降ろされ、焚き火の数も意図的に減らされている。闇の中に点在する火は、敵意ではなく監視のための灯りだった。
外周を固めているのは玄欒率いる天瑞軍。兵は鎧を着たままではあるが、槍を地面に突き立て、無駄な私語も立てない。
完全包囲は解かれていない。それは誰の目にも明らかで、だからこそ、この静けさが成立していた。
寒戎の兵たちは武装を解かれ、拠点の内側と外縁にまとめられている。重い槍や弓は既に回収され、手元に残るのは護身用の短刀程度。夜間の移動は禁止され、ただ、待てと言われているだけだった。
待つ、というのは苦しい。だが兵達が暴れる理由は、どこにもない。
王が生きている。拠点は焼かれていない。
ただ一つ――奪ったものが、返されただけだった。
宋武筮は、自身の家である建屋の一室にいた。
手枷も足枷もない。だが扉の外には天瑞兵が立ち、出入りは許可制だ。側近も、選ばれた一名だけが同席を許されている。側近にはあの老将――烏烈というらしい。その人だった。
雨昕の顔を腫れさせた張本人だ。烏烈自身も雨昕には喉を潰さんと強烈な一撃をお見舞いされている為、お互い様だが。どちらも既に動き回っているのだから、どちらも大概化け物だ。
ともかく、宋武筮の王としての体面は守られているが、自由ではない。その境界線は、あまりに明確だった。
宋武筮は低く息を吐き、暗い天井を見上げる。
怒号を上げれば、兵は直ぐ様応じるだろう。命じれば、何人かは血気に任せて刃を取ると知っていた。
だが、その先にあるものを、彼はもう知っている。
――寒戎の“未来”を、守れなくなる。
それだけは、選べなかった。
外では、若い兵の声が一瞬だけ荒くなり、すぐに押し殺される。誰かが諫めたのだろう。あるいは、王の名を出したのかもしれない。それだけで、波立ちは凪に変わる。
その事実が、胸を締めつけた。
王であるということは、剣を振るうことではない。怒りを叫ぶことでもない。こうして、何もできないまま、それでも全てを背負って立つことだ。
あの玄欒であれば、或いは――いや、と宋武筮は首を振る。寒戎の王は宋武筮だ。玄欒ではない。
「……烏烈。頼みがある」
「……」
老将は閉じていた瞼を持ち上げ、静かに宋武筮を見た。その頼みを聞き入れ、静かに立ち上がり、別の将と入れ替わって部屋を出て行った。
倉として使われていた建屋の一角は、今は簡易の治療区画になっていた。血と薬草の苦味の混じった独特の匂いが辺りを漂っている。火の明かりは必要最低限に抑えられていた。
若い将が、寝台に横たわっていた。
膝は厚く巻かれた布の下で固定され、動かせば激痛が走るのが、表情を見ずとも分かる。歯を食いしばり、天井を睨むようにしているが、視線は定まらない。
彼は、自分がここにいる理由を、嫌というほど理解していた。
自分は未熟だった。判断を誤った。恐れて、踏み出せなかった。
雨昕を拠点に導いたのは、彼だ。
彼女が王の前で大暴れしたその姿を前に、彼は声が出ず、足が竦み、膝を砕かれ、無様にも地に伏していた。
こんな事では王の側に立つ資格など、どこにもない。どれだけ悔いても、足の痛みが彼自身を戒め続けた。
足音が近づいたのは、その時だった。
迷いのない歩き方に、若い将は身を強張らせ、顔を向ける。
「動くな」
低く、掠れた声。烏烈だ。
老将は武装を解いたまま、治療区画の中に入ってくる。付き添いの兵が一礼すると、距離を取った。
烏烈は寝台の傍まで来ると、若い将の膝を一瞥して鼻を鳴らす。
「生きてるだけ、運がいい」
「ですがッ……ですが……俺が、判断を誤りました」
若い将はそう言って唇を噛みしめた。その声は震えていた。
追われていた時、もっと別の道を通っていれば。馬の扱いが最適ではなかったのではないか。普段からもっと心を鍛えていれば。何より、王の前で命を惜しんでしまった事が、彼を苦しめた。
後悔を呟く彼に、烏烈はすぐには答えなかった。ただゆっくりと、息を吐く。
「怖かったか」
短い問いだった。
若い将は一瞬、言葉を失い、それから目を伏せた。そして首肯し、溢れた声は情けない程に正直だった。
「何も、通じないと思った……。あいつを前にした時……俺は、王のために一歩も踏み出せなかった」
烏烈は、そこで初めて若い将を見た。責める目では、なかった。かといって、慈しむ目でもない。
「ならば、生き延びた甲斐があるというものだ」
若い将のその顔は絶望と後悔に曇っていて、老将に叱って貰えれば強くなれると――赦されるのではないかと、浅はかな希望が見え隠れしていた。
老将はそれらを悟ったのだろう。縋るものが必要な夜もある。その後には、現実を突き付けられ、厳しさを乗り越えなければ進めない朝が来るのだ。
「恐怖を知らぬ将は、役に立たん。……だが、恐怖を知って生き残った将は、次を考える」
「……」
「膝を折られたのは、お前の武の敗北だ。だが……判断を誤ったのは、お前一人じゃない」
若い将の喉が鳴った。弱々しく、王に会う資格が無いと嘆く。烏烈は即座に嘆きを肯定し、容赦なく次を見よ断言する。
しばし、沈黙が落ちる。外から聞こえるのは、遠い見回りの足音と、風の音だけだ。
若い将の目に、熱いものが滲んだ。だが、声を上げて泣くことはしなかった。
烏烈はそれを見届け、もう言うことはないとばかりに踵を返した。その背が闇に溶けるのを、若い将はただ見送る。
王のいる場所は、遠い。だが、この夜を越えねば、そこへ至る道は、永遠に見えない。
膝の痛みを噛み締めながら、若い将は、初めて自分の「次」を考え始めていた。
拠点の外れでは、天瑞軍が静かに撤収の準備を進めていた。陣は組み直され、夜営の形を取りながらも、いつでも動ける配置が保たれている。
白朔嶺を越え、塞北を抜け、許安へ帰る――その道筋は、既に黎景を始めとした軍師達の頭の中で引かれていた。
戦は終わった。だが、勝利の歓声はない。あるのは、後味の悪い夜だけだ。
闇は深く、静かで、どちらの陣営にも等しく降りていた。誰もが眠れぬまま、ただ次の朝を待っている。
天瑞軍が確保した天幕の一室は、即席の休息所として使われていた。中央には火鉢が置かれ、ぱちぱちと薪が爆ぜる音が、夜の静けさを破らない程度に鳴っている。
その端で、文霽は――もこもこにされていた。
外套が一枚、肩から掛けられている。その上から毛皮が一枚。膝には厚手の布。首元には、どこから引っ張り出してきたのか分からない襟巻き。
「……」
文霽は一言も言わず、ただ瞬きをしている。身動きの取りづらくなった腕を、そっと膝の上に戻した。
温かさよりも先に、何も出来ないという実感が胸に広がる。守られているのだと、否応なく思い知らされる形だった。
「これで、よし」
そうとは知らず、満足そうに薄い胸を張ったのは雨昕だった。菖蒲色の瞳をきらきらさせている。
自分の外套まで引っ剥がして文霽に巻きつけたせいで、本人は薄着もいいところだった。
「夜は冷えるからね。油断ならないんだから」
「あの……雨昕様」
文霽の声は控えめで、少し躊躇いがあった。
けれども、その呼び方に、それまで楽しそうに動き回っていた雨昕の動きが止まる。
一拍置いて、雨昕はゆっくりと文霽の方を見た。信じられないものを見たように、目を丸くしていた。それまでの勢いを失い、雨昕は急に所在なげな表情になる。
「なんで、様、なの?」
責める声ではなかった。けれど、どこか困ったようで、寂しそうな響きが混じっていた。
文霽は、膝の上の毛皮を握る。視線は、雨昕の顔――正確には、その腫れた頬と傷に向いていた。
「……お顔」
「え……?」
「わたくしよりも……その、腫れ、まだ痛みますか?」
話題を逸らそうとするのが、あまりにも分かりやすかった。けれど雨昕は一瞬きょとんとし、それからへらりと笑った。
何て事ないとは言うが、その頬は赤く腫れ、くっきりと青紫が残っている。嫁入り前の娘が負って良い怪我ではない。その怪我を負うきっかけが自分なのだと理解している文霽は、胸が痛くなる。
不意にずれた襟巻きを直そうとして、文霽は途中で手を止めた。指先に力が入らない。ほんのそれだけの事実が、胸に重くのしかかる。
以前なら雨昕よりも早く気付き、先に整えていたはずなのに。今は、目敏く気付いた雨昕がそっと文霽に襟巻きを巻き直す。
気まずさに堪えかねた文霽は、小さく息を吐くと、意を決したように言葉を選ぶ。
「雨昕様は……もう、将です。わたくしの護衛では、ないのですから……」
言いながら、文霽は目を伏せる。
その名を昔のように呼んでしまえば、自分はまた、彼女の背に隠れ、縋ってしまう。
それだけは、許されないと文霽は思った。それが本音なのだと、悟られないように俯いたのだ。
きっと雨昕は、それで良いと言うだろう。それが嫌なら共に歩こうと言う。
けれど、それでは文霽が自分を赦せない。
雨昕は文霽の沈黙に、無意識に自分の髪に触れていた。そこに挿さった笄が、火の光を受けて淡く輝く。
雨昕の表情は、はっきりと曇っていた。
“将”という言葉が、胸の奥で鈍く響いていた。それはきっと誇って良いはずの呼び名で、けれど元からそれを求めていなかった雨昕には、今はひどく冷たい響きに聞こえた。
文霽は変わってしまった。変わらざるを得なかったのだろうと、雨昕も理解しているつもりだった。
ならば、雨昕は変わったのだろうか。知識は増えた。出来る事も、人脈も、あの頃とは違う。
何より――黎景がくれた笄。大人として認められた証。だから、雨昕自身は成長したと思っていたけれど。
どちらも言葉を発せずにいるうち、天幕の外が騒がしくなった。
視線を向けると、衡寂恒を伴い玄欒が向かって来ていた。周囲が一斉に頭を下げ、雨昕達も倣う。
文霽は、今しがた戻りかけた距離が、また引き離されるのを感じた。
「加減はどうだ?」
「わたくしはお陰様で……。ですが玄欒様、わたくしよりも、雨昕様が……」
「……平気です」
何にいじけているのか、玄欒を目にした途端にむすりとした雨昕。文霽は自分の袖で口元を隠し、雨昕の袖を引く。そんな態度をして良い相手ではないのだから、文霽の反応は自然だった。
けれど玄欒も衡寂恒も雨昕を咎めることはなく、玄欒はそのまま雨昕の前に屈み、袖口から何かを取り出した。
そして雨昕の顎を掴むと、手にした何か――軟膏を傷痕に塗り付けた。少し冷たく染みたようで、雨昕が小さく悲鳴を上げた。
「一日に二度だ。腫れはむやみに触るな」
「……はい」
不承不承頷いた雨昕を見て、玄欒は立ち上がると自分が肩に掛けた外套を雨昕に被せ、衡寂恒を連れて颯爽と立ち去った。
玄欒の後ろ姿を見送る雨昕の隣で、ふと、文霽の視線が外へと向いた。
天幕の布越しに、灯りの位置を確かめるように。その先に誰がいるのかを、確信をもって知っている目だった。
あの王は、まだこの夜の中にいる。それもまた、事実だ。
「……これだけ?」
「……。雨昕を心配しているのよ、きっと」
唖然とした雨昕が、ぽつりと呟いた。
それに文霽が答え、そしてはっとしたように文霽は唇を押さえた。
それには、雨昕も気が付いた。再び輝かせた菖蒲色の瞳に、文霽は思わず笑ってしまう。その笑い方は雨昕の知るもので、少し前まで悩んだ事などもう忘れていた。
「霽!」
雨昕の笑顔が眩しい。その笑顔を前にして名を呼ばれただけで、胸の奥がほどけてしまう。
それだけで、全部が元に戻ったような気がしてしまう自分が、文霽は少しだけ怖かった。
「……はい。雨昕」
ゆっくりと頷いて、もう一度、言い訳を並べて辞めた筈の呼び名を口にする。
たったそれだけで、胸に温かいものが広がった。特に何を話すでもなく、顔を見合わせて二人は笑った。
失った二人の日々は、これから取り戻せるのだと雨昕は信じたていた。
それが本当に可能かどうかは、まだ誰にも分からない。それでも、笑い合えたこの一瞬だけは、確かに戻ってきた日常だった。
雨昕が満足そうに目を閉じて息を整える間、文霽はただ、夜の向こうを見ていた。
この戦は、終わった。
――けれど、すべてが終わったわけではないと、彼女だけが知っていた。
2日目のカレーってドリアかカレーうどんにしがち。久々に普通のカレーで食べた。




