1-8『決着』
互いに互いを睨み付けながら、二人は赤子の泣き声さえ忘れるほどに、ただ眼前の敵へと意識を研ぎ澄ませていた。
宋武筮が放つ圧倒的な殺気を浴びながらも、雨昕の視界には文霽の姿がはっきりと映っていた。
不安と、そして――自分に向けられた明らかな「恐れ」を孕んだ瞳で、彼女は「雨昕」と小さく唇を動かした。
恐れは――仕方がない。今の雨昕は、文霽の知らない雨昕なのだ。
大丈夫。今、助けるから。
声には出さず、雨昕は肺の底から小さく息を吐き出す。
素早く腕を伸ばすと、手の甲を宋武筮へ向けた。
棍の石突きを掌の内に隠すのは、攻撃の起点と間合いを悟らせないためだ。
狙うは宋武筮ただ一人。
だが、もし彼が文霽を盾にするような卑劣な真似をすれば、雨昕に勝ち目はない。
けれど、理由こそ知らないが、宋武筮もまた文霽を傷つけることを拒んでいるようだった。
宋武筮は半身に構え、槍を短く持って穂先を雨昕へ向ける。
その太い腕で文霽を自身に密着させることで、雨昕の攻撃から彼女を隠し、守っている。
これではまるで、雨昕が姫を奪いにきた悪役ではないか。
文霽を連れ去り、自由を奪ったのはそちらのくせに。
宋武筮がわずかに瞬きをした、その一瞬。
雨昕は地を蹴り、一歩を踏み込んだ。
手の内に隠した棍は、初動を隠し、一撃で宋武筮を無力化するためのもの。
だが、王の反射神経は雨昕の予測を上回っていた。
宋武筮は向かってくる雨昕に穂先を突き出すのではなく、槍を大きく傾け、その柄で雨昕の棍を強引に巻き上げるようにして防いだ。
片腕一本で、自重すら乗った棍の軌道を逸らす。
その超人的な膂力に、雨昕は(どんな力をしているんだ)と内心で悪態をつく。
棍を弾き飛ばされる寸前、雨昕は左足を鋭く蹴り上げた。
槍の柄を下から押し上げ、強引に軸をずらすことで、反撃の隙を辛うじて防ぎ止める。
「……羅雨昕といったか。お前、どんな理由で月瑶に執着している?」
次の攻撃を打ち込まれる寸前、雨昕は棍を手元へ引き寄せ、再びその先端を掌の内に隠した。
雨昕の流れるような予備動作を目の当たりにしながらも、宋武筮は視線を逸らさない。
再び槍を正面に構えるその眼差しは、真剣そのものだった。
何かを企んでいるのではなく、純粋に問いの答えを求めているのだと知れる。
けれど、雨昕は答えない。
答える必要も、そのための言葉を費やす理由も感じなかった。
何を言ったところで、この男が文霽を離す気など微塵もないことは、その瞳が雄弁に物語っている。
その執着を、どんな感情で――。いや、どんな感情であろうと、認めない。絶対に、認めてなるものか。
雨昕は腕を下ろすと棍を半回転させ、その勢いのまま身体を翻した。
宋武筮の右腕を鋭く蹴り付け、生じた僅かな隙を突いてその懐へと深く潜り込む。
鳩尾を狙った膝打ち、間髪入れずに顎を砕かんとする肘打ち。
だが、宋武筮は自身の膝をぶつけて雨昕の連撃を相殺し、肘打ちには槍の逆輪部分を滑り込ませて防いでみせた。
終始無言を貫き、死神のごとき速度で動き回る雨昕。
だが、彼女が常に文霽の視界を奪うように、あるいは見守るように位置取っていることに、宋武筮は苦虫を噛み潰したように顔を歪めた。
「俺は月瑶を愛してる。お前のそれは、なんだ?」
再び、宋武筮が問うた。
攻勢に出る様子も見せず、ただ真っ直ぐに雨昕を見据える。
その言葉は、沈黙を貫こうとする雨昕の感情を確かに揺さぶった。
頭の芯では、理性を焼き切るほどの怒りが渦巻いている。
ふと、雨昕は視線を文霽へと流した。
ぶつかり合う視線。
それだけで、沸騰していた怒りが、氷を投げ込まれたように鎮まっていく。
「感情に呑まれるな」――脳裏に響く師の教えを盾に、雨昕は宋武筮に悟られぬよう深く、静かに息を整えた。
もう一度、文霽を見る。
恐れ、怯え、恐怖、不安。
その瞳に宿る混濁した色は、雨昕に遠いあの日を思い出させた。
あの頃は、ただ自分が生きるための仕事として、彼女に手を差し出した。だが、今は違う。
それならば、この男が言うように、雨昕の感情は何なのか。
愛? 友情? どれも、しっくりとこない。
今の自分たちの関係を形容する言葉を、雨昕は持たない。
そして、今すぐそれに名を付ける必要もないのだと思えた。
無意識のうちに、音になるかならないかの微かな声で、雨昕は彼女の名を呼んだ。
「……文邕様は、霽を愛してた……」
気づけば、心の奥底に大切にしまっていた記憶を声にしていた。
雨昕の人生において、もっとも温かな記憶。
それは間違いなく、文霽と二人で過ごした瑞陽での日々だ。
父である文邕は、いつだって柔らかい眼差しを文霽に向けていた。
血が繋がっているというだけで、あんなにも優しい視線、声、触れ方があるのだと、天涯孤独の雨昕は彼女の傍で初めて知った。
無条件に注がれるその慈しみに、かつての雨昕は――淡い憧れさえ抱いた。
黎景の雨昕に向けるものも、あるいはそれに近いのかもしれない。
けれど、彼は打算が勝ちすぎる。
確かなのは、雨昕の知る“愛”とは、相手を傷つけてまで側に繋ぎ止めることではない、ということだ。
「その人は……文霽だッ!」
“雨昕”は雨の夜明け。“霽”は雨上がりの晴れ渡る空。二人が対を成す名前なのだと教えてくれたのは、文霽だ。
雨昕が居れば、私の心も晴れる。そう言って笑い合った日々がある。
その光を遮るような、他人が勝手に付けた名で呼ばれるのが、嫌で、嫌で、堪らなかった。
だから、宋武筮の言う愛なんて、絶対に認めない。
雨昕は宋武筮の存在そのものを否定するように、再び棍を旋回させ、激しく仕掛けた。
宋武筮が文霽を愛しているというのなら、雨昕は文霽を信じている。
雨昕は敢えて、向かって右――つまりは文霽のすぐ側を通り抜ける軌道で、宋武筮を狙い棍を振るった。
短く槍を持った今の彼では、この角度の防御は間に合わない。
――鋭い風切音が、文霽の頭上を断ち割った。
その瞬間、文霽の身体が反射的にビクリと跳ね、強く身を竦ませたのを雨昕の目は捉えた。
暴力を目の当たりにしてきたのだろう。
彼女の身体は「自分を痛め付ける」という錯覚を強いてしまったのだ。
けれど、文霽は逃げなかった。
恐怖を殺すように固く目を閉じると、次の瞬間には、微かに微笑んでさえいた。
雨昕ならば、絶対に自分に当てたりはしない。
そう信じてくれたのだ。
棍が宋武筮の側頭部を正確に捉え、鈍い衝撃音が響く。
雨昕は確信した。
この一撃で彼は怯む、その隙に彼女を奪い返せる。
そう信じ、雨昕はすかさず文霽へと空いた左手を伸ばしたが――。
宋武筮は、文霽を離さなかった。
一撃が軽かったわけではない。
そこら辺に転がっている敵将たちを、たった一撃で沈めてきた破壊力がその頭部を打ったのだ。
それなのに、宋武筮は奥歯が砕けんばかりに歯を食い縛り、文霽を抱き寄せる腕を一分たりとも緩めない。
意識を断たれておかしくない衝撃を浴びてなお、彼は倒れることなく、血走った眼で雨昕を睨み据えた。
その常軌を逸した執念に、雨昕の背筋を冷たい汗が伝い落ちた。
「……月瑶、怪我は?」
「い……いいえ……わ、わた、くし、は……」
「ならいい……」
雨昕が寒戎王の放つ異様な気配に呑まれている間に、宋武筮は文霽を案じるようにして、ゆっくりと彼女を自身の背後へ移動させた。
再び、王の視線が雨昕を捉える。
文霽がその腕の中から離れた今、少しは狙いが付けやすくなるだろうか。
――否。
そこにあるのは、先ほどまでの雨昕と同じか、それ以上の憤怒を宿した瞳だった。
一挙一動を逃すまいと鋭さを増したその眼光は、獲物を確実に屠る獣のそれだ。
文霽に当たったかもしれない先刻の攻撃が、宋武筮の琴線に触れたのだ。
文霽と違って、宋武筮が雨昕を信じる道理などどこにもない。
愛を語る男として、その怒りはあまりに正当で、理不尽だった。
次の一撃を、まともに受けてはいけない。
雨昕の本能が警鐘を鳴らし、憤怒に曝された全身が粟立つ。
雨昕は棍を隠すのを止め、防戦のために下段へと構え直そうとした。
その、瞬間だった。
――目前に、突き出された槍の穂先が迫っていた。
速すぎる。避けられない。
(目玉だけで済めばいいな……)
迫りくる刃の鋭さを残酷なほど鮮明に把握しながら、雨昕は場違いなほど呑気にそんなことを思った。
宋武筮が文霽を背後に隠したのは、雨昕の無惨な死に様を見せまいとする慈悲だったのか。
癪ではあるが、その配慮だけは正しいと納得してしまう自分もいた。
自分自身、文霽にそんな姿は見せたくない。
けれど。
文霽をこの男の元に置いて、逝くわけにはいかない。
無様でも、泥を啜ってでも、生き残らなければ。せめて、この男の足だけでも止めなければ。
刹那に渦巻いた執念が、雨昕の身体を突き動かした。彼女は後方へ飛び退きながら、手にしていた棍を、宋武筮へと向けて全力で投げつけた。
僅かでもいい、時間を稼げ。
そこまで計算していたわけではない。ただの足掻きだった。
投げられた棍は、雨昕の眼前まで迫っていた槍を持つ宋武筮の肩に、鈍い音を立てて激突した。
そして雨昕は――背後から強く襟首を引かれ、不様に体勢を崩した。
だが、眼前にまで迫っていた死の穂先は、火花を散らし、鋼を叩き切るような凄まじい衝撃音と共に弾き飛ばされた。
「そこまでだ!」
低く、地を這うような重厚な声が鋭く響き渡る。
体勢を立て直そうとした雨昕の前に立ちはだかり、死の刺突から彼女を庇った主――衡寂恒は、朴刀を突きつけたまま続けた。
「寒戎王・宋武筮! これより先の裁断は、許安太守・玄統善が引き受ける。矛を納められよ!」
宋武筮は衡寂恒の言葉に、ぴたりと動きを止めた。
少し俯いた角度で、その表情はよく見えない。
だが、その口元が微かに開き、獣のような呼気が漏れるのを雨昕は見た。
「家も、仲間も……こんだけ荒らしといて……太守如きが、王である俺を裁くから、待てだと……?」
怨嗟を纏った、憤激に荒ぶる声。
宋武筮の額にはいくつもの青筋が浮かび、今にもその怒りで槍を振り回しそうな危うさが漂っている。
それを真正面から受け止めながらも、衡寂恒は朴刀を掲げたまま微動だにしない。
泰山のような不動の構えで、彼は冷酷に告げた。
「続けると言うのならば、この衡廉謙が引き継ごう。ただしその場合、寒戎は玄統善、ひいては官軍に弓を引いたものとして扱う」
「っ……貴様!」
衡寂恒の言葉が意味するのは、明白な宣戦布告だ。本格的に天瑞という巨象が動き出せば、数で劣る寒戎に未来はない。
宋武筮が強く歯噛みする。その屈辱を塗りつぶすように、衡寂恒はさらなる追い打ちとして背後を指し示した。
雨昕もつられて視線を向ける。そこには上質な鎧を纏いながらも、縄を掛けられて跪かされている男がいた。
(……あの時)
白朔嶺で雨昕がすれ違い、その強さを予感したあの将だ。
その人物が捕らえられた姿を目にした瞬間、宋武筮は憎々しげに顔を歪め、衡寂恒を射抜くように睨みつけた。
この距離、この刹那なら、衡寂恒も、あるいは雨昕さえも、宋武筮なら道連れにできたはずだ。
けれど、彼はそれをしなかった。
一人の武人ではなく、寒戎を背負う「王」としての矜持が、彼の手を止めたのだ。
宋武筮はゆっくりと、呪わしげに槍の穂先を床へと下ろした。
宋武筮が矛を収めたのを見届け、衡寂恒は雨昕へと短く視線を向けた。
雨昕もまた、内に渦巻く荒ぶる気配を無理やり鎮め、ゆっくりと立ち上がる。
投げつけた棍を拾い上げ、背負い直すと、無言のまま衡寂恒の背後へと下がった。
衡寂恒に続いた兵たちが、雨昕によって打ちのめされた敵将たちを淡々と拘束していく。
その光景を、宋武筮も、そして文霽も、ただ静寂の中で見届けるしかなかった。
暫くして、宋武筮の建屋を中心に、寒戎の拠点は玄欒率いる軍によって完全に包囲された。
「貴公が、宋武筮か?」
建屋に現れるなり、玄欒は足元に転がる敵将たちには一瞥もくれず、真っ直ぐに王を見据えて問うた。
宋武筮が重々しく「そうだ」と答えると、玄欒はどこか大仰に、満足げな笑みを浮かべて頷いてみせた。
「……文霽か。久しいな」
雨昕と兵に厳重に見張られた宋武筮。
その後ろで力なく座り込んでいる文霽に、玄欒は声を掛けた。
慌てて立ち上がろうとする文霽を穏やかな手つきで制し、彼女が座ったまま深く頭を下げるのを見届けると、玄欒はその視線を室内へ滑らせる。
捉えたのは、赤黒い痣で顔を腫らし、憮然とした貌で立ち尽くす雨昕の姿だ。
本来なら玄欒の姿を見るなり駆け寄って拱手するはずの彼女が、微動だにしない。
その硬直した背中から、玄欒は彼女が限界まで怒りを抑え込んでいるのだと即座に察した。
玄欒もまた、黎景ほどではないにせよ、幼い雨昕を瑞陽に留め置き、その成長を陰ながら見守ってきた一人だ。
人の機微に敏い彼は、雨昕の不遜な態度に少しだけ呆れたように眉を寄せたが、傍らの文霽の痛々しい姿を見て「無理もない」とそれ以上は咎めなかった。
「事此処に至っては、寒戎を滅ぼすは容易いが……」
玄欒はそこで言葉を切り、勿体振るように一拍置いた。
屈辱に耐えかねたように宋武筮が顔を上げた、その瞬間。
玄欒は逃さぬようその視線を真っ向から受け止め、続けた。
「――それは、帝の本意ではない」
玄欒が口にしたのは、天瑞の頂たる存在。
流石の宋武筮も、その言葉に小さく息を呑んだ。
それは、彼が生まれて初めて“戦場での死”ではなく、逃れようのない“国家による裁き”という重圧を意識した瞬間だった。
許しを得られるのならば。苦労して集めた仲間たちの命を救えるのならば。この居場所を守り抜けるのならば。
――天瑞の軍門に降るべきではないか。
玄欒の静かな語り口は、宋武筮の心に抗いがたい選択を突きつけていた。
「天瑞が欲するのは、血ではない。侵攻を止める意思と、その証だ」
「……証、だと?」
宋武筮が低く問い返す。
その後ろで文霽が微かに身を強張らせたのを、玄欒は見逃さなかった。
聡明な彼女には、玄欒が次に何を口にするのか、そのすべてを予感していたのだろう。
「不本意に連れ去られた天瑞の民、文霽。……その身柄の返還」
「……っ」
「加えて、貴公が集めた兵を退かせ、今後十年、天瑞の国境を越えぬことを宣誓することだ」
淡々と告げられる条件は、あまりに重く、残酷だった。
宋武筮が文霽という女性にどれほど――病的なまでに執着していることは、彼女に纏わせた贅を尽くした服装や、まばゆい装飾品の数々が雄弁に物語っている。
何より、この窮地においてなお彼女を自身の背後に置き、隠し続けている姿がすべてだった。
宋武筮が深い沈黙に落ちると、玄欒は逃げ道を塞ぐように畳み掛けた。
「応じるならば、寒戎の存続を許そう」
「……応じねば、どうなる」
宋武筮の問いに、玄欒は微かに目を細めた。
それが単なる虚勢であり、本気の問いではないことは分かっている。
王を名乗る男にとって、最優先すべきは寒戎という民の存続であるはずだ。
それでも――。
手放したくない、という宋武筮の剥き出しの未練が透けて見える。
その必死な眼差しは、かつて幼い雨昕が居場所を求め、自分を頼って訪れた際に見せた切実さとどこか重なっていた。
「……答えは、見ての通りだ」
玄欒は冷徹に言い放ち、背後へと視線を流した。
機を合わせたかのように、外では幾重にも重なる甲冑の鳴る音が響き渡る。
宋武筮がいくら周囲を窺おうとも、もはや寒戎に逃げ道など残されていなかった。
残された道は、降伏のみ。
それ以外に選択肢はないのだと、玄欒は盤面ですべてを示したのだ。
あの頃の雨昕と、目の前の宋武筮。
二人は決定的に違う。
雨昕のように閉じ込め、教育し、翼を与えることで飼いならすような温情は、寒戎には当てはまらない。
玄欒が用意したのは、服従か死かという、乾いた二択だけだった。
「身柄返還には相応の身代を払う。……文霽は返して貰うぞ」
「っ……」
「それが、天瑞の示す赦しだ」
宋武筮は奥歯が砕けんばかりに歯を食い縛り、背後の文霽を見た。
その瞳に浮かんだ剥き出しの感情を、雨昕はどこかで見覚えがあるような、ないような――。
不意に脳裏を掠めた感覚を、彼女は即座に塗り潰した。
知りたくない。そんな男の情念など、これっぽっちも理解したくはなかった。
「……随分と、ぬるい終わらせ方をする」
宋武筮の吐き捨てるような呪詛に、玄欒は答えなかった。
代わりに、短く雨昕の名を呼ぶ。
その声でようやく我に返った雨昕は、深く拱手して頭を下げると、ゆっくりと文霽へ歩み寄り、小さな、けれど豆が潰れて皮の厚くなったその手を差し出した。
屈辱に顔を歪めて堪える宋武筮。
文霽は躊躇いながらも、静かに、そして深く頭を下げた。
それは、彼女なりの訣別の儀礼だったのかもしれない。
そして、恐る恐る――文霽は、雨昕の手に、自身の白い手を重ねた。
雨昕は割れ物を扱うようにそっとその手を握り返すと、抗う力を持たない彼女を軽々と引き寄せ、横抱きにし、宋武筮から引き剥がすようにその場を離れた。
「霽」
腕の中の友の名を、雨昕は静かに呼んだ。
文霽は、自分を見つめる雨昕の横顔を――恐れを押し込め、夢でも見ているかのように凝視する。
その呼び掛けは、これ以上、彼女に宋武筮の姿を見せないように――。
そして自分自身もまた、あの男の執念を視界に入れないようにと、前を向かせるためのものだった。
「……遅くなって、ごめんね」
一度だけ、後ろを振り返ろうとした文霽を引き留めるように、雨昕はそっと囁いた。
その言葉を受け、文霽はほんの一瞬、息を止めた。
やがて、震える吐息をゆっくりと吐き出すと、静かに目を閉じ、力なく首を振って雨昕の胸にすべてを委ねた。
雨昕の腕に抱かれ、一定の感覚で揺られながら、文霽はいつかの日の記憶を重ねていた。
瑞陽での日々。
こうして二人が共にいられた、当たり前だった季節。
彼女は雨昕の耳元で、風に消えそうなほど幽かな声で詠んだ。
旧影随身在(昔の面影は身に添えど)
不復少年身(もはや幼き日には戻れぬ身)
知君無所為(君が為すべきを知るは我のみ)
唯以護我心(ただ、我が心を守らんとするを)
今なら、その意味が分かる。
雨昕は、その詩の意味を噛み締め、微かに微笑んだ。
もはや幼い少女のままではいられない。
けれど、修羅となってまで守りたかったものが、今この腕の中にある。
二人の再会を邪魔するものは、もう何もない。
ただ冴え渡る月明かりだけが、寄り添う二人の少女を、優しく、静かに包み込んでいた。
待って。クロワッサンカレー、これ、有りだぞ?




