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雨天決行  作者: 公星
8/12

1-8『決着』


 互いに互いを睨み付けながら、二人は赤子の泣き声も忘れる程に集中していた。

宋武筮(そう ぶぜい)の視線を浴びながら、雨昕の視界には文霽(ぶん せい)が不安気に、唇を「雨昕」と動かすのが見えた。


 大丈夫、今助けるから。

声に出さず、雨昕は小さく息を吐く。

腕を伸ばして手の甲を宋武筮に向け、石突きの先端を掌の内に隠す。狙うのは宋武筮だが、もしも文霽を盾にされたなら雨昕に勝ち目は無い。

けれど、理由はどうあれ宋武筮も同じらしい。

宋武筮は半身で槍を短く持って穂先を雨昕に向ける。文霽を自身に密着させる事で、雨昕から隠しているようだ。

これではまるで、雨昕が姫を奪いにきた悪役だ。文霽を連れ去ったのはそちらのくせに。

宋武筮の瞬きに併せ、雨昕は一歩を踏み込んだ。

手の内に隠した棍は、宋武筮を襲う瞬間を見せない為だった。

けれど宋武筮は、向かってきた雨昕に穂を向けるのではなく、棍の一撃を防ぐ為に槍を傾け、柄で棍を巻き上げて防いだ。

片腕一本でそれをやり遂げる宋武筮に、雨昕はどんな力をしているんだ、と内心で悪態をつく。

棍を弾かれる寸前で、雨昕は左足を鋭く蹴り上げ、槍の柄を下から押し上げて軸をずらす事で難を逃れた。


「……羅雨昕といったか。お前、どんな理由で月瑶に執着している?」


 次の攻撃を打ち込まれる前に、雨昕は棍を引き寄せて再び手の内に隠した。

雨昕の流れるようなその動きを前にしながら、宋武筮は視線を逸らす事なく、再び自分の前で槍を構える。その目は真剣そのもので、何かを騙ろうとしているのではないと知れた。

けれど、雨昕は答えない。答える必要性も理由も感じない。何を言ったとて、宋武筮は文霽を離す気は無いとその眼が物語っているのだから。

その感情さえも、雄弁に――いや。駄目だ。絶対に、認めてなるものか。

雨昕は棍を半回転させる。自身もくるりと体を回転させて宋武筮の右腕を蹴り付け、更にその懐に入り込んで膝を鳩尾に、肘を顎に打ち込む。

宋武筮は膝打ちには自らの膝をぶつけ、肘には槍の逆輪部分で阻んだ。

ここまで終始無言の雨昕。けれど、常に文霽の視界に入る位置で動き回る姿に、宋武筮は苦虫を噛み潰したように顔を歪めた。


「俺は月瑶を愛してる。お前のそれは、なんだ?」


 次の手に繰り出す前、宋武筮は攻勢に出る様子もなく、そう言って雨昕を見据えた。

それは、答えないと決めた雨昕の感情を確かに揺さぶる。頭の中では、理性を焼き切るような怒りが満ちていた。

ほんの少し、雨昕が視線を流すと、文霽と視線がぶつかった。それだけで、怒りが鎮まっていく。感情に呑まれるな、という師の教えも後押しして、宋武筮に悟られぬよう息を整えた。

もう一度、文霽を見る。

恐れ。怯え。恐怖。不安。そんな色が混ざった瞳は、雨昕にいつかの日を思い出させた。

あの頃は自分が生きる為の仕事だったから、彼女に手を差し出した。けれど、今は違う。

それなら、宋武筮が言うように、この感情は何だろう。

愛?友情?――なんて形容すればいいのか分からない。この感情を、今すぐ名付ける必要は無いだろう。

無意識の内に、音になるかならないか、そんな小さな声で、雨昕は文霽の名を呼んだ。


「……文邕(ぶん ゆう)様は、霽を愛してた……」


 そして、在りし日の記憶を声にしていた。

雨昕の記憶の中で、一番温かい記憶。それは言うまでもなく、文霽と二人で過ごした日々だ。

そんな日々の中、文邕はいつだって温かく柔らかい眼差しで文霽を見ていた。親というだけで、あんなにも優しい視線で、声色で、触れ方で接する事が出来るだなんて、雨昕は知らなかった。それを無条件で与えられる文霽に――憧れも、した。

或いは、黎景の雨昕に向けるものも近いかもしれない。けれど、黎景は打算が克ちすぎるから、違うかもしれない。

だからそう、つまり。

雨昕の知る“愛”は、傷付けてまで側に置く事ではない。


「その人は……文霽だッ!」


 “雨昕”は雨の夜明け。“霽”は雨上がりの晴れ渡る空。二人が対を成す名前なのだと文霽が教えてくれた。雨昕が居れば、文霽の心も晴れるのだと笑い合った日々がある。

それを阻むような名前で――文霽が呼ばれるが、嫌で堪らなかった。

だから宋武筮の言う愛なんて、認めない。宋武筮の全てを否定するように、雨昕は再び棍を操り、宋武筮に仕掛ける。


 宋武筮が文霽を愛しているというのなら、雨昕は文霽を信じている。

雨昕は敢えて、向かって右――つまりは、文霽側から宋武筮を狙って棍を振るった。あれだけ槍を短く持っていては、防御にも間に合うまい。

風切音が文霽の頭上を通り過ぎ、宋武筮の側頭部を棍が打ち付ける。

文霽は、動かなかった。ただ雨昕の動きを見て目を閉じ、少しだけ微笑んでさえいた。

雨昕は絶対に当てはしないと、文霽は信じてくれたのだと思う。だからきっと、この手を取ってくれる。

そう信じ、雨昕はすかさず文霽に腕を伸ばして――


 けれど、宋武筮は文霽を離さなかった。

雨昕の一撃が軽かったのかといえば、そんな事はない。そこら辺に沈んでいる敵将は、つい先程雨昕が打ち倒したではないか。

それなのに、宋武筮は歯を食い縛り、文霽を抱き寄せる腕を離す事もなければ、頭を打たれて尚、倒れる事なく雨昕を睨み付けた。

その気迫に、雨昕は背後に冷たい汗が流れるのを感じ取った。


「……月瑶、怪我は?」

「い……いいえ……わ、わた、くし、は……」

「ならいい……」


 雨昕が寒戎王の気配に呑まれる間に、宋武筮は文霽を案じ、ゆっくりと、彼女を背後に移動させた。

再び、寒戎王の視線は雨昕を捉える。

文霽さえその腕に居なければ、幾らか狙いは付けやすくなるだろうか。

いいや。先程までの雨昕と同じか、それ以上の憤怒を宿した眼が、雨昕の一挙一動を逃すまいと鋭さを増した。

先程の、文霽に当たったかもしれない攻撃が、宋武筮の琴線に触れたらしい。文霽と違って、宋武筮が雨昕を信じる道理は無いのだから、当たり前だろう。愛を語るのなら、そうでない方が可笑しい。


 宋武筮の次の一撃を、まともに受けてはいけないと本能が警鐘を鳴らしている。雨昕は棍を隠すのを止め、下段に構え直そうとした。

その瞬間。


 ――槍の穂先が、雨昕の眼前に迫っていた。


 避けられない。目玉だけで済めばいいな。などと、差し迫る刃の鋭さをしっかりと把握しているのに、雨昕は呑気にも思った。

宋武筮は、文霽に雨昕の無惨な姿を見せまいとして背後に隠したのだろう。癪ではあるが、それは正しいと納得してしまう。雨昕自身も、そんな姿を文霽には見せたくない。

だけど、文霽を置いて逝く訳にはいかない。無様でも生き残らなければ。せめて、この男だけは止めなければ。

そんな思いが刹那に渦巻いて、雨昕は瞬間的に棍を投げ付けていた。

僅かでも、時間を稼げればそれで良いと――そこまで考えていた訳ではないが、棍は雨昕に迫る宋武筮の肩に当たったようだった。


 そして雨昕は――強く後ろに引かれ体勢を崩した。だが、眼前に迫っていた穂先は刃によって弾かれた。


「そこまでだ!」


 低い声が鋭く響き渡り、刺突から雨昕を庇った声の主――衡寂恒(こう じゃくこう)は続けた。


「寒戎王・宋武筮!これより先の裁断は、許安太守・玄統善(げん とうぜん)が引き受ける!矛を納められよ!」


 宋武筮は衡寂恒の言葉に、動きを止めた。少し俯いた角度でよく見えないが、その口元が薄く開いたように見えた。


「家も、味方も……こんだけ荒らしといて……太守如きが、王である俺を裁くから、待てだと……?」


 地を這うような怨嗟を纏った、憤激に荒ぶる声。宋武筮の顔面にいくつも青筋が浮かんでいた。

それを真正面にしながらも、衡寂恒は朴刀を掲げたまま微動だにしなかった。


「続けると言うのならば、この衡廉謙(こう れんけん)が引き継ごう。但しその場合、寒戎は玄統善、引いては官軍に弓を引いたとして扱う」

「っ……貴様!」


 衡寂恒の言葉が意味するのは、戦争だ。本格的に天瑞が動けば、数で劣る寒戎に未来はない。

奥歯が砕けそうな程強く歯噛みした宋武筮に、衡寂恒は更に追い討ちのように背後を指し示す。

雨昕も視線を向けると、そこには上質な鎧を纏う、縄を掛けられた男が兵に挟まれ立っていた。白朔嶺で雨昕も擦れ違った、あの敵将だ。

その人物を目にした宋武筮は、更に憎々し気に顔を歪めて衡寂恒を見る。

衡寂恒でも雨昕でも、宋武筮は狙えた筈だった。けれど王としての矜持だっただろう。宋武筮はゆっくりと槍を下ろす。


 それを見て、衡寂恒は雨昕に視線を向けた。

雨昕も荒ぶる気配を鎮めるとゆっくりと立ち上がり、棍を背負い直すと無言で衡寂恒の後ろに立った。

衡寂恒に続いた兵が、雨昕に打ちのめされた敵将を拘束していくのを、その場の誰もがただ黙って見届けた。


 暫くして、宋武筮の建屋を中心に、寒戎の拠点は玄欒軍に完全に包囲された。


「貴公が宋武筮か?」


 建屋に現れるなり、玄欒は倒れる敵将には一瞥もくれず、宋武筮を見て言った。

その問い掛けに宋武筮が「そうだ」と答えると、少し大仰に玄欒は頷いて見せる。


「……文霽か。久しいな」


 雨昕と兵に見張られた宋武筮の後ろで、座り込んでいる文霽に玄欒は声を掛けた。慌てて立ち上がろうとする文霽を制し、そのまま深く頭を下げるのを見届け、視線を滑らせる。

赤黒い痣で顔を腫らし、憮然と立つ雨昕を捉える。いつもなら玄欒に駆け寄って拱手する所だが、それをしないその姿勢から、雨昕が怒りを抑え込んでいるのだと察した。

黎景程ではないが、玄欒も幼い雨昕を引き留め、彼女の成長を見てきた一人だ。それでなくても、玄欒は人の機微に敏い。雨昕の態度には少しだけ呆れたように眉を寄せたが、文霽を見て無理もないと留め置いた。


「事此処に至っては、寒戎を滅ぼすは容易いが……」


 玄欒は、そう言って勿体振るように一拍置く。

宋武筮が顔を上げた所で、その視線を受け止めながら続ける。


「それは、帝の本意ではない」


 玄欒が口にしたのは天瑞の頂の存在。流石の宋武筮も、息を呑んだ。それは、初めて“死”ではなく“裁き”を意識した瞬間だったからだ。

許しを得られるなら、苦労して集めた仲間を救えるなら、居場所を守れるのならば――そうすべきだと、思わせる。


「天瑞が欲するのは、血ではない。侵攻を止める意思と、その証だ」

「……証、だと?」


 宋武筮が低く問い返す。その後ろで文霽が微かに身を強張らせたのを、玄欒は見逃さなかった。

文霽には、玄欒が言わんとしてる事が分かったのだろう。


「不本意に連れ去られた天瑞の民、文霽。……その身柄の返還」

「……」

「加えて、貴様が集めた兵を引き、今後十年、天瑞の境を越えぬ事を宣誓する事だ」


 淡々と告げられる条件は、しかし重かった。

宋武筮が文霽に執着している事は――雨昕との闘いをみずとも、彼女に纏わせた服装や装飾の数々が雄弁に物語っている。その上、この場に於いて尚も彼女を背後に置いているのを見れば、誰の目にも明らかだった。

宋武筮が沈黙すると、玄欒は畳み掛けるように言い放つ。


「応じるならば、寒戎は存続を許そう」

「……応じねば、どうなる」


 宋武筮の問い掛けに、玄欒は微かに目を細めた。

それが本気の問い掛けではない、と玄欒は分かっている。宋武筮にとっては必要な事は、寒戎の存続である筈だ。

それでも――という宋武筮の気持ちが透けて見える。それは、幼い雨昕が玄欒を頼って訪れた時に見せたそれと重なる。


「……答えは、見ての通りであろう」


 そう言って、玄欒は背後に視線を流す。外で甲冑の鳴る音が重なった。

いくら探そうと、既に寒戎に逃げ道は無かった。

残されている道は、一つだけ。それ以外は無いと玄欒は示したのだ。

あの頃の雨昕と宋武筮では決定的に違う。雨昕のように閉じ込め育てる事は、寒戎には当てはまらない。


「身柄返還には相応の身代を払う。……文霽は返して貰うぞ」

「っ……」

「それが、天瑞の示す赦しだ」


 宋武筮は歯を食い縛り、背後の文霽を見る。その目に浮かんだ感情は、何処かで見覚えが有るような、無いような――いいや。知りたくない。知りたくも、ない。


「……随分と、ぬるい終わらせ方をする」


 宋武筮の吐き捨てるような言葉に、玄欒は答えなかった。

代わりに、短く雨昕に声を掛ける。その声に漸く拱手して頭を下げた雨昕は文霽に近付き、その手を差し出した。

苦々しい顔の宋武筮に、文霽は躊躇いながらも軽く頭を下げる。そして、恐る恐る――雨昕の手を取った。

雨昕は玻璃を扱うようにそっと手を握り返し、軽々と文霽を抱き上げ、宋武筮から離れた。


 雨昕は文霽の名を呼んだ。呼ばれた文霽は、雨昕の横顔を見詰める。

その呼び掛けは、これ以上宋武筮の顔を見せないように――そして自身もまた、見ないようにと、前を向かせる為だった。


「……遅くなって……ごめんね」


 一度だけ振り返ろうとした文霽を、引き留めるようにそう言った。

それを受けて文霽は、一瞬だけ息を止めた。そしてゆっくりと息を吐くと目を閉じ、首を振って雨昕に身を委ねた。


 雨昕に抱えられ揺られる文霽は、まるでいつかの日の再来だと懐かしむ。

そして雨昕にだけ聞こえるよう、静かに囁いた。


旧影随身在

不復少年身

知君無所為

唯以護我心


 今なら、その意味が分かると微笑む雨昕。

今はただ、二人の少女の再会が成された事を邪魔するものはなく、月明かりが優しく二人を包んでいた。


待って。クロワッサンカレー、これ、有りだぞ?

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