1-7『嵐』
寒戎は、遊牧国家だ。
歴史は古く、圧倒的な王が居なければ内部抗争を繰り返し、分裂をしている過去がある。現在が最盛期という訳ではないが、現王朝からは最大の外敵と認識されている。
それは分裂抗争をしていた筈の寒戎が、宋武筮の手で今再び一つに戻りつつあるからだ。
このまま天瑞に侵攻しようという勢いで、数年前から天瑞各地に散っていた元寒戎は、宋武筮に土産を献じつつ集結している。
土産になるものは様々で、それを求めた者達によって各地は荒れた。帝が勅命を出した背景は、そこにある。
恐らく文霽もその土産の一つとして連れ去られた、と雨昕は考えている。目眩がする程に腹立たしいが、そう考えるのが一番合理的だ。
文霽は流れる黒絹のような髪に白玉の肌を持ち、幼くして学問に秀でた才女として、許安では知られていた。
雨昕から見た文霽は、全く以てそれだけでは語り尽くせないが、ただ明らかに文霽はこの上ない“献上品”であったに違いない。
雨昕は、不躾にも室内に視線で物色する。
目の前の大男達ではなく、何処かに隠しているであろう女達の影を探しているのだ。確信はないが、文霽が居るとしたら、きっとそこだろう。
「随分と、威勢がいいな」
「宋武筮殿は何処か?」
「口の減らぬ、小娘め!」
聞こえる言葉は喉を鳴らすような発音が多く、雨昕には聞き馴染みの無い物が多い。意味は分からないが、全く通じないではなさそうだ。
言葉の通じる老将が一歩前に出る。更にもう一歩踏み込んで、雨昕に向けてその大きな拳に体重を乗せ、雨昕を本気で吹き飛ばそうとそれを振り抜いた。
嫌な――骨に響く鈍い衝撃音がして、雨昕は体ごと揺れ、頬が赤く腫れ上がる。
けれど雨昕は、よろめくことも、赤くなった頬を押さえる事も、それどころか瞬き一つもせずに涼しい顔。その上で、何も言及しなかった。
老将も、雨昕のその姿には顔を顰めた。
「ガキ相手に容赦ねえなあ。……まあ、それでビビるくらいなら、最初から乗り込んでねえよなあ?お嬢ちゃん」
奥の部屋から現れた男が、そう言って上座に荒々しく腰を下ろした。
軽薄そうな口調ではあるが、若く精悍な顔には既に貫禄が滲み、知よりも武で寒戎をまとめてきたと一目で分かる男だ。
派手な装飾を纏っていることもあるが、周りの男達が一歩引いた事で、あれが宋武筮なのだろうと雨昕は察する。
値踏みするような視線はお互い様。宋武筮が「ふぅん」と溢し雨昕を見下ろす。何か思う事が有るのだろうか。
不意に、宋武筮の現れた部屋の奥から赤子の泣き声が聞こえた。
「……ああ、最近生まれたばっかりでよ。だから俺としちゃあ、さっさと帰って欲しいんだわ」
雨昕の視線がそちらに流れたのを察して、そう言って背凭れに両腕を掛ける。行儀も悪ければ、不遜な態度だ。
だが、宋武筮はただ寛いだのではなかった。次の瞬間、雨昕に向けて弓を引いたのだ。
椅子の後ろに弓を隠していたまでは想像がつくが、まさかそんな体勢で弓を引き絞れるとは思わなかった。今度ばかりは雨昕も動かざるを得ず、横に飛び退いた。先程殴られた反対側の頬を、今度は間一髪で矢が掠め、赤い線のような血が滲む。
そして宋武筮の一矢を合図に、様子を伺っていた他の将達はこの時を待っていたと言わんばかりに、一斉に雨昕に刃を向けた。どうやら最初から、雨昕と話す気はなかったらしい。
――それは、雨昕も同じだった。
「私は羅雨昕!我が友、文霽の居場所を知らぬなら、宋武筮などに用はない!」
「ナメられたこっちとしては、そうもいかねえけどな!」
雨昕の宣言に、左右から挟撃を狙う一刀が振るわれた。
襲い掛かる刃から逃れる為に、雨昕は背負った棍を掴むと思いきり振り抜いた。風切音を響かせ、多段に迫る刃の軸をずらして出来た隙間を回転しながらすり抜ける。
そのまま攻勢に出ようとした雨昕の棍を、先程の老将が掴もうと腕を伸ばしてきている事を視界に捉えた。雨昕は入口付近、足元に幾つか並んだ木彫りの像を老将に向けて蹴り付ける。
ざっと数えて一対七だ、卑怯とは言うまい。
いくら他より広い建屋とはいえ、大人数で斬り結ぶには狭すぎる。同時に斬り掛かられる心配は薄い――が、その分、この場にいる一人一人の武力が高いと知れた。苦戦は免れない。それでも雨昕は、こんな時だからこそ笑って見せた。
木彫り像に視線を取られた老将に向けて飛び込み、棍で喉元を狙った一撃を叩き込む。老将は直ぐ様、意識を切り替えて棍を叩き落としに掛かるが、雨昕は寸での所で棍を引き戻し、老将の隣で斬り掛かるべき機を見計らっていた、若い将の肩を横薙ぎに打ち払う。
そのまま回転する棍に身を任せて半回転した後、雨昕の居た場所を矢が立て続けに三本通り過ぎ、壁に突き立った。
上座からそれを射た宋武筮が、獰猛な笑みを浮かべて立ち上がる。弓を放り捨てると、その手に剣を握り締め、大股で雨昕に向かっていた。
「お前ら、どけ!俺がやる!」
数の有利を捨てると宣言した寒戎王は、雨昕に向けて型も構えもなく、ただただ乱雑に剣を振り下ろした。ただの力押しであれば、雨昕は対処できる。そう思いながらも、雨昕はいつもより半歩下がっての対応に追われる。
「どうしたよ?俺に用がねえなら帰っていいんだぜ?」
「文霽の居場所をまだ聞いてません」
「さあ?どうだったか、な!」
雨昕の立場や考えがどうであれ、寒戎の拠点の位置を知る者を、ましてや玄欒達が向かって来ているこの状況で、みすみす見逃すつもりは無いだろう。
乱暴に振り下ろされた一刀を棍で受け流し、また半歩下がる。
よく研がれた刃だ。僅かに勢いを流しそびれた一刀によって棍がささくれてしまった。あの攻撃をまともに受け続けては、棍が保たない。
そうなれば短期決着を付けるべきだ。
雨昕は流れる動きで宋武筮の懐に潜り込む。掌を返し、親指と小指の付け根――掌底を宋武筮の顎に叩き込んだ。
この一撃で、大概の人間は仰け反るところだが、宋武筮は歯を食いしばって耐えてみせた。
直接触れて、判った。この男は、まだ力を残してる。――いや、異常に筋力が強いのだ。
だからこそ、型を意識しない攻撃を繰り出せる。力任せに乱雑に刀を振るだけで驚異になり得る。道理で、対応に遅れが出るわけだと雨昕は一人で納得した。
それならばと、即座に狙いを肩へと切り替えて棍を叩き込む。
今止めるべきは、その馬鹿力から振り下ろされる次の一刀。握り込みの甘さを突き、剣を落とさせるのだ。
けれど半端な攻撃では握力で耐えられてしまうだろう。だから肩から狙う。
素早く放った棍は、狙い通り宋武筮の右肩を強く打った。次いで、すかさずに肘を、そして手首を狙い打つ。
瞬く間に三度も突きを受けた宋武筮は、刀の柄が浮くように離れていくのを感じながら、次の一撃を振り被った雨昕に奥歯を噛んだ。
けれど、雨昕の狙いを察したのは、またもあの老将。宋武筮が刀を手放すのに合わせるように、槍を投げ渡した。
舌打ちしながらも、文字通りの横槍を受け取った宋武筮は、それが本来の武器だとでも言いたげに槍を回転させ雨昕の一撃を防いだ。
ここからが、大一番――その時だった。
「おやめください……!」
少し掠れた、けれども鈴を転がすような女の声が響いた。
その声に、雨昕は聞き覚えがあった。だから、こんな場面でありながら、不覚にも隙を作ってしまった。
けれど、どういう訳か宋武筮も動きを止めた。そして雨昕よりも僅かに早く我に返り、隙を作った雨昕の腹を蹴り付けると、そのまま背を向けて声の主の元へと駆け寄った。
「月瑶!出てくるな!」
「王よ、どうかおやめください……!」
奥の部屋の入口、壁にしがみつくようにして立っていたその女性は、宋武筮の腕にしがみついて、けれど悲痛な面持ちでそう懇願していた。
「ぶん……せ、い……?」
その女性は、質の高そうな絹を纏いながらも、痩せ細り頬が痩け、一人では立てない儚さだ。美しいのに、酷く痛々しい。
宋武筮は、雨昕には聞き覚えの無い名前で彼女を呼んだ。
けれど、名前なんて今は何でもいい。
そこに居た彼女は、紛れもなく――
「雨昕!逃げなさい!此処に居ては駄目!」
「霽……!やっぱり……っ!やっと……!」
――会えた。
今すぐその手を取って、此処から飛び出して行きたかった。
いつかの日のように、また二人で詩を作ったり、お菓子を分けあったり――ああ、文霽は葡萄を食べた事があるだろうか。元服祝いに贈られてきていたから、一緒に食べよう。あれの皮と種は食べないように教えて、そうだ、笄礼を済ませて、字と笄を貰ったのだ、深衣だって贈られて、それで、それで――。
文霽に話したい事は、山程あった。そのどれから話せば良いのか――きっと、どの話も文霽は笑って聞いてくれる筈なのに。
「お願いです!雨昕を傷付けないで!」
どうして、そんな顔をしているのだろう。
その理由が雨昕には、分からない。何を言っても届かない気がして、何も言葉に出せない。
だって、必死に宋武筮に縋り懇願する哀れな女が、あれが文霽だというのか。
文霽はもっと気高くて、あんなに弱々しく男に縋るような性格じゃない。それに彼女は、窶れてるだけでなく、恐らくまともに歩けないのだ。足の動かし方が、明らかにおかしい。
文霽は纏足もしていないし、あんな立ち方にはならない。
だから、違う。何もかも、少しずつ、けれど確実に。彼女は雨昕の知る文霽ではない。
けれど、彼女が声をあげる度に、雨昕を案じる度に、彼女こそが文霽なのだと、理解してしまった。
理解が出来ないものを、手離そうとする――雨昕の悪い癖だ。けれど、雨昕を諦めさせないのは、いつだって文霽だった。
あの詩の意味を知りたいから、文霽の名を書きたいから、文霽を、助けたいから――漸く此処まで、辿り着いたのだから。
「……文霽の足は……貴方が?」
漸く口を開いた雨昕は、静かに宋武筮に聞いた。けれど、その答えを待つつもりは無かった。
表情からは完全に感情を消し、ただその菖蒲色の瞳に赫怒を宿していた。
嵐が来る――。
宋武筮を以てして、そう思わせる気迫を纏い、雨昕は一歩を踏み出した。
今の雨昕は、何もかも気に入らなかった。
どうして、こんな所に文霽が連れ去られなければならなかったのか。
どうして、文霽が自尊心すら擲って雨昕を助けようとするのか。
どうして、宋武筮は気安く文霽の腰に手を回しているのか。
嗚呼、どうして、この場に居る男達は――
雨昕を前にして尚、文霽を物のように扱えるなどという幻想を捨てていないのだろう。
雨昕はまず、宋武筮ではなく老将の正面へと、一足で距離を詰めた。
俊足の勢いをそのまま乗せ、渾身の力を込めて棍を突き出す。狙うのは老将の眉間。
老将は咄嗟に両手でそれを受け止めたが、衝撃を殺しきれずに後ろへと押し下がる。そして逃げ場のない土壁に背が当たった、その瞬間。
雨昕は棍を握ったまま身体を滑らせ、更に老将の懐へと潜り込む。そして無防備に晒された喉元へ、流れるように肘を叩き込んだ。
老将が呻き崩れ落ちるよりも早く、雨昕は跳ねるように後退する。
そして背後に向けて棍を引き抜き、そこに迫っていた敵将の顔面に石突きを打ち込んだ。
更には、様子を窺うだけで動けずにいる敵将達へ、一人ずつ確実に骨を砕き、呼吸を潰す一撃を打ち込んでいった。
それはまるで自由に空を舞う蝶のような軽やかさで、けれども砕けぬ物など無いと錯覚させる武を見せ付け、屈強な男達が沈んでいく。
報告の為に駆け戻り、雨昕をこの場に連れてきた若い将は、この惨劇に肩を震わせ、もたつく足で後退る。
その背後を壁に退路を阻まれると、若い将の額に汗が流れる。剣を持つ手が震えている。それを雨昕が見逃す筈もなく、震えの治まらないその足を棍で容赦なく払うと、若い将は無様に崩れ落ちた。
震える若い将の足を、片方だけ踏み付ける雨昕。そうして無理矢理震えを封じると、膝に向け、力任せに棍を垂直に突き立てた。
硬い物が砕ける音と絶叫が木霊して、つられた赤子の泣き声が辺りを包んだ。
「化け物が……っ!」
そう言ったのは誰だったか、既に思考を焼き切るような怒りに身を任せた雨昕には、判別が付かない。
けれど同時に、冷や水を浴びたように心が冷えきっていた。
力任せに、此処にある全てを破壊してしまいたい。なのに――文霽が、そこに居る。
それだけが、切れかかる雨昕の理性を繋ぎ止める。
ふらつきながらも、王を守ろうと雨昕の前に立った敵将には、敬意を払うべきなのだろうか。
一歩も退かぬとは嘯くが、その覚悟を捩じ伏せるように雨昕は突きを繰り出し、敵将が沈んだ。
「月瑶の頼みでも、これじゃあ、聞けねえな……」
「……その人は、そんな名前じゃない」
噛み合わない会話。――否。会話などではなかった。
互いに守ろうとしてるのは同じ人物であるのに、その意味はあまりにも違った。
未だ文霽を抱き寄せたままの、宋武筮の腕を憎々しげに睨み付ける雨昕。
その腕は、一人では立つのがやっとの文霽を支えるようで――逃がすまいと、捕らえる為の鎖だ。
文霽を歩けなくしたのは寒戎、引いては宋武筮だろうに。そう決め付けた雨昕には、絶対に離さないとでも言いたげなその態度が許せなかった。
雨昕も、幼さを理由に一度閉じ込められた過去がある。本当は駆け出したかったあの日、玄欒と黎景に捕らわれた。
けれど彼らは、雨昕の足を切るような真似はしなかった。雨昕に知恵を授け、名を与え、そして此処に至る理由をくれたのだ。
だから、どれだけ武に優れ、知謀に長けていようと、これ以上この男に、天瑞を荒らさせてはいけない。何より――文霽の生きる道の邪魔はさせない。そう思えてならなかった。
棍を構え直した雨昕に、宋武筮はただ槍を差し向けた。
普段の雨昕ならこのまま懐に飛び込む所だが、尋常でなく力が強い上に小器用なこの男は、雨昕の流れる動きを片手であっても塞き止める事が出来る。
だからといって、此処で止まる理由は無い。
何より、手を伸ばせば文霽に届くのだ。
今度こそ決着を付ける為、雨昕は――。
ホームベーカリーでお餅作れるの強い。




