1-6『白朔嶺』
「それで……雨昕、それはなんだい?」
「落ちてきました」
白朔嶺の情報を得た雨昕が、玄欒達と合流する。
その頭の上には、まだ羽管の開ききっていない鷹が鎮座していた。飛行に不安があるのだろう。雨昕は止まり木か何かだと思われているらしい。
子鷹がぴぃ、と高く細い鳴き声を上げると、雨昕は干し肉の欠片を頭上に向けて放り、子鷹はそれを嘴を開いて捉えるとそのまま飲み込んだ。
「どうするつもりかな?」
「献上しようかと」
「……そうだね。それがいい」
これくらいの月齢で、これだけ人が近付いても逃げないのなら、後は鷹手に任せば何とかしてくれるだろう。そんな気持ちでいる雨昕ではあるが、既に子鷹に「甜甜」と可愛らしい名前を付けている。
黎景は、情が移る事を言わなかった。
多少の打算もあるが、子鷹を頭に乗せた雨昕の姿を、面白がっている節がある。雨昕をからかうのは黎景の悪癖みたいなものだ。
危険な任務から戻ったというのに、頭に甜甜を乗せた雨昕を目にして、心配よりも先に吹き出したのがいい証拠だった。
閑話休題。
この険しい白朔嶺から帰還した雨昕は、流石というべき情報を齎した。地質や勾配の配置、罠の発見と重畳の成果で、此処からは黎景の仕事であった。
山の天気は変わり易く、元々あまり日が差さない地域であり、行軍には不向きと判断され、今は待機を余儀無くされている。その隙に、雨昕は漸くまともな休息を取る事を許され、溜まりに溜まった汚れを落とし、天幕で仮眠を取る事が出来た。
三刻程経った頃、ぴくりともせず片膝を立てて座ったまま眠っていた雨昕は、人の気配に目を覚ます。天幕の入口には、雨昕を呼びに来た衡寂恒が立って居た。――これが黎景だった場合、肩を揺すられるまで起きなかっただろう。
「……戻って直ぐで申し訳ないが、統善が呼んでいる」
「玄欒様が……。出発ですか?」
「そうだ」
未だ自身の頭の上で寛ぐ甜甜をそっと持ち上げ、用意してもらった簡素な止まり木に乗せる。甜甜は雨昕の頭を余程気に入ったのか、羽を広げて戻ろうとした。それを素早く餌を放り込む事で制し、羽を畳ませるように撫で付けると「いい子にしててね」と言い聞かせる。きっと子鷹に伝わってはいないだろうけれど、雨昕は満足そうに頷いて天幕を後にした。
玄欒達本隊を連れての白朔嶺越えが始まると、進軍は順調その物であった。罠の解除についても、黎景の対応は素早く適切で恙ない。
兵達は基本、無駄口を許されていないが、行軍途中の休息時には口々に黎景雨昕師弟を誉めそやした。この速度で進められるなら、白朔嶺の踏破に見込まれた日程を丸二日は短縮出来そうだ。
雨昕も先行して行軍する間、足取りは軽かった。潜入の為に油と灰で汚した自身の頭から、その異臭が薄れたのも、気分が良くなる要因だ。
時間は進み、帰らずの山、白朔嶺踏破まであと少し。
行軍で此処が一番怖いと、黎景から釘を刺された箇所に辿り着く。山岳地での最後の下り坂だ。
前回は此処まで来ていない事から、雨昕にとっても未知の領域だ。
そしてこの場へ来て、黎景が一番怖いと指摘した意味が分かった。
特にこの山は急勾配ながら、この場にきて山道が一気に開けているのだ。これを見れば、気も緩み一気に駆け降りたくなるものだが、この途中で横腹をつつかれようものなら、後続は止まれないし自滅することだろう。
更には、玄欒達の進軍の噂でも聞き付けたのか、騎馬が五騎――いや六騎、此方に向かって来ていた。寒戎ではないが、雨昕もそれなりに目は良いのだ。
しかしどうやら、あちらも雨昕に気付いたらしい。六騎はそこで急停止すると、その内一騎が方向転換を始めた。寒戎本隊へ報せに戻るのだろう。
だが、これは好機だ。白朔嶺を降りきらない内、雨昕であれば、どんな駿馬にだとて追い付けよう。そしてあの一騎が寒戎の元へ案内してくれるのならば、探す手間も省ける。
雨昕は後ろに続いていた衡寂恒に騎馬の存在を告げると、自身はまるで滑空するかのように山道を駆け降り始めた。
白い髪に菖蒲色の瞳を持つ小柄な雨昕の容姿は、彼らには異形に見えたのだろう。
尋常でない速度で単身駆け降りてくる雨昕を見て、騎馬兵は武器を構えて迎え撃とうとした。だがそれは、先頭の騎馬だけ。その騎馬こそは将なのだろう。
その将を除いて、他は明らかに狼狽えていた。雨昕は不敵に笑い、姿勢を低く保ちながら向けられた槍の穂先をすり抜けた。
すり抜け様に、先頭の騎馬の馬脚に棍を叩き込むと、その衝撃さえ山を下る勢いに変えて進んでいく。
先頭の将以外は、雨昕が相手にする価値もないだろう。後の事は、詰めている衡寂恒が何とかしてくれる。
雨昕は真っ直ぐに、後退する寒戎の騎馬を追った。
白朔嶺を朔原側に下りきると、その麓は疎らに針葉樹が広がり、再び見通しが悪くなっていた。
成る程、あの騎馬は雨昕の視線を切りたいのだろう。躊躇いなく森に騎馬が入っていく。
しかし幾ら自慢の騎馬でも、森の中ではその真価は発揮できない。
寒戎得意の罠でも有るのだろうが、それにしてもこれだけ疎らな森では余りにも露骨だ。
「はっはーん。分かっちゃった」
雨昕は素早く視線を森に走らせて、誰にともなくそう言った。そして音を呑み込むような森の手前、此処までの勢いを緩めて立ち止まる。
これは陽動だ。恐らく、考え無しに森に入れば一斉に襲ってくるだろう。
雨昕の素の性格こそ天真爛漫ではあるが――黎景に師事しているのだ、猪突猛進に身を任せる筈がない。
辺りを見回し、棍を使い近くにあった木に登ってみる。
木々に視界は遮られるが、そこまで密集していないので騎馬を見付ける事が出来た。
距離は離されてしまったが、どうやらあちらは雨昕を巻いたと思っているのか、振り返りもせず一目散に駆けているのが見える。本隊の場所の方角さえ分かれば、後は黎景達がどうにかしてくれる。
視線を逃げる騎馬から手前に戻す。
寒戎といえど、森の中で上から見られる事など想定していないだろう。騎馬が抜けた道の途中、これから雨昕が飛び込んで来ると信じ、迎撃部隊が構えているのを見付けた。その矢尻が鈍く反射して見えた。
一度振り返ってみると、玄欒達本隊が白朔嶺を下って来ているのが見える。奇襲の心配は無さそうだ。
一先ず、この森に奇襲部隊が居ることを告げるべく、雨昕は木から軽々と飛び降りると、衡寂恒と合流する為に走る。
急斜面は下りよりも登りが辛い。だが、雨昕の足取りは軽く、来た道を辿る。
途中で黒い騎馬が見えて、珍しくも衡寂恒が苦戦している場面に出会した。相手とは一対一、四騎は倒れていて、この短時間で流石だと衡寂恒の実力には平時なら拍手を贈るところだ。
「衡寂恒様!無事ですか!?」
「羅雨昕か!俺はいい!統善の元へ行け!」
衡寂恒は、雨昕に助けよりも報告を急がせる。それを受けて、一瞬の躊躇いも見せずに雨昕は衡寂恒を通り過ぎる為に加速した。
雨昕の道を阻もうとする寒戎の攻撃を衡寂恒が止め、その隙間を抜けて駆ける。
本隊の先頭が見えて、雨昕は視線で玄欒を探す。
玄欒からは雨昕が見えていたらしく、玄欒までの道を開けさせた。
雨昕は兵が避けた道を駆け、勢いを止められずに滑りながらも玄欒の前に跪き、拱手しながらこの先で衡寂恒が苦戦しているが優位である事、そして麓の森で、奇襲部隊が待ち構えて居ることを矢継ぎ早に報告する。
その報を受けて、玄欒は直ぐ様、衡寂恒と対峙する寒戎の騎馬を包囲するよう指示を出して騎馬隊を走らせ、黎景を始め参事達に軍を進めさせる。
「羅雨昕」
「はっ」
「……好きにせよ」
「!」
雨昕は、許安太守・玄欒の征伐に参加する以上、斥候としての働きを全うする必要がある。だから、必要以上の深追いはせず、今も此処で玄欒に報告をして――寒戎を追い掛け、文霽の居場所を聞きたい気持ちを抑えている。
玄欒が言ったのは、雨昕を解き放つ為の言葉だった。
優秀な斥候としてではなく、“羅雨昕”という猛獣の楔を、玄欒は朔原という地に解き放ったのだ。
雨昕も許しを得た事を理解し、拱手したままもう一度深く頭を下げると、ゆっくりと立ち上がる。
恐らく、衡寂恒は間もなくあの寒戎――装備の質が高い物に見えた事から、かなり上位に位置する立場ではないだろうか。その男を捕らえる筈だ。そして拠点を吐かせ、人質にでもすれば交渉の役には立つだろう。
だが、そこが刻限だ。雨昕個人に許される時間は、それ以上にはない。
玄欒の寒戎征伐は、寒戎の侵攻に帝が心を傷めたという体で発せられた勅命である。この征伐が終わってしまえば、雨昕が寒戎から文霽の居場所を聞き出す事など、永劫出来なくなってしまう。
雨昕は再び、反転する。
注意すべき罠も向かい来る敵も無い今、雨昕は先程の比ではない程、疾く走る。
途中、衡寂恒の剣が寒戎の槍を弾き、玄欒の騎馬隊に囲まれ、今まさに決着を迎えようとしていた。けれど雨昕は目もくれない。
あの敵将から情報を聞き出すのには、時間が掛かるだろう。
ならば、逃げた騎馬を再度追えばいいだけだ。方角は分かっている。
退却した騎馬には今更追い付けない――とは、雨昕は考えない。
どんな駿馬でも速さは続かない。まして、騎手を乗せての山道の急勾配、更には針葉樹林の悪路を、既に全速力で走らされているのだ。馬は疲れ、水を探すだろう。
再び麓の森林まで舞い戻ると、奇襲部隊の位置を知る雨昕は迂回して森の中へと入って行く。
僅かな道の傾きさえも足裏で感じ取り、視線で地面の変化や木の生え方を瞬時に把握しながら、耳を澄ませて水の音を探す。
斜面を駆けていた雨昕は、木の根本に苔が増え、地面に緑が生えている事に気付いた。
木に生い茂る葉も、僅かに色が濃く見える。更によくよく見れば、齧歯類等の小動物や小型の肉食動物らしき糞が混在しているのを見付ける。恐らく、これは沢に続くだろう。
そのまま進めば、水の音と湿った風を匂いと肌で感じ取れるようになってきた。緩めていた足を再び強く蹴り出す。
案の定、沢に辿り着き調べてみると、馬の蹄痕を見付けた。その痕跡から、まだ遠くへは行っていないだろう。
しかし流石、騎馬で有名な部族だけある。蹄痕は有っても人の足跡は無く、騎手が馬上から降りていないのだ。場の荒れ方も最低限といえるのは、馬がよく訓練されているからだ。沢での滞在に、それ程時間を掛けていないだろう。
――それでもまだ、雨昕にとっては追跡可能圏内だ。雨昕は痕跡から更に方向を見定めて進み、森を抜ける。
「……居た」
遮るものの無い平原に、黒い騎馬はよく目立つ。
あちらは、まさか今更雨昕が追い付いたとは思っていないのだろう、馬に全速を出させている。
けれど、それは悪手なのだと雨昕は知っていた。
万が一、ここから先、追跡者に追われたら馬が全速を出せなくなってしまう。どんなに訓練しようと、限界はあるのだから。
そして馬にとって走り易いこの環境は、雨昕にとってもまた走り易かった。
雨昕もここまで休みなく駆けているが――ここまで来る為に、執念で雨昕は自らを鍛えてきた。だから、まだまだ体力に余力がある。
今の雨昕の力というものは、武だけではない。ましてや勘だけでも、知だけでもない。
胸いっぱいに大きく息を吸い込んで、ゆっくりと吐く。
そして――疾風迅雷と讃えられる、その足の本領を発揮させた。
雨昕は途中、馬の速度が落ちたのを見て自身も速度を落とし、付かず離れずを保った。それが功を奏したのか、騎馬は遂に振り返る事はなかった。
日が傾き出して、空は青から橙へと色を変えていた。
平原で見る夕陽は、なんて大きいのだろう。影を隠す場所も無いが、眩しくて目も開けられない夕陽を背負いながら、雨昕は遂に――寒戎拠点の輪郭を捉えた。
革張りの天幕が並び、土壁で出来た、簡素ながら見張りを建てた大きめな建屋がある。武具は無造作に立て掛けられ、馬の為の空間が広い。
塞北とは違い、いつでも移動が出来る――逃げる事に躊躇いの無い拠点のようだ。やはり、衡寂恒と対決していた敵将の情報を待たなくて良かったかもしれない。
此処まで来て、今更隠れる必要はない。報せを持ち込んだ将に続く異物の存在に、拠点は疑問に揺らいでいる。ざわめきと視線が交錯し、結論が出ないまま、未だ狼狽えている。
逸早く動いた者が、まともに武具も纏わずに武器だけ手にして立ちはだかった。雨昕は向けられたその武器を弾き、立ち止まることなく間を縫って進む。
蹴破る勢いで建屋に入っていくと、将軍階級に相当するのだろう、貫禄も威厳もある面々が雨昕を出迎えた。
雨昕はそこでようやく立ち止まった。
「突然の訪問失礼つかまつります。宋武筮殿に目通り願います」
拱手して見せながらも、雨昕は高らかに宣言した。
目玉焼き作ってたら爆発した。
蓋がなければ即死だった。




