1-5『主』
天瑞国最北端の村、塞北。
かつては山脈の向こうから押し寄せる異民族を防ぐ不落の要塞だったその地は、今や歴史の残骸と化していた。
崩れかけた土嚢、雪に半ば埋もれた朽ちた柵。
辛うじて要塞の体裁を保っているのは、時を止めたかのように聳える狼煙台と見張り台のみ。
それでも、凍てつく北部においてここが唯一の拠り所であることに変わりはない。
不毛な土を耕す農民、死を売る行商、居場所を失った傷痍兵、そして希望を捨てた難民。
有象無象が、吹き付ける雪に背を丸めて身を寄せ合っていた。
この地において、羅雨昕という存在はあまりに目立ちすぎる。
溌剌と輝く菖蒲色の瞳と、雪よりも白い髪。
だが今、塞北の路地を徘徊しているのは、市井が謳い上げる“白髪の英雄”とは似ても似つかぬ、見るも無惨な“残骸”だった。
極寒の風が吹き抜けるなか、痩せさらばえた手足を隠すことすらできない穴の空いた布を纏い、脂と灰に汚れきった総髪を振り乱す子供。
目元は黒い布で固く覆われ、その辺の枝を杖代わりに、今にも力尽きそうな足取りで不規則に地面を突いては蹌踉めき進む。
襤褸の隙間から覗くのは、夥しい数の傷跡だ。
常人ならば死に至るはずの刃傷が、不気味なほどに盛り上がり、幾重にも重なって彼女の四肢を、背を、汚している。
それは数多の剛勇たちの刃を凌ぎ、時には人外の獣と噛み合い、彼女の肉体に刻み込まれた戦の年輪に他ならない。
――これが乙女の肌であると、誰が思うだろうか。
その子供の性別は些末な違いでしかなく、それは目を背けたくなるような“汚濁”でしかなかった。
「……可哀想に、あんな傷だらけで。この前の流民たちに、置いていかれたんだろうね」
「見るんじゃないよ、縁起が悪い」
通り過ぎる足音と共に、小声で蔑む声が雨昕の頭上に降り注ぐ。
人々の心からこの少女を憐れむ気持ちを押し退けるのは、“お荷物”を押し付けられる恐怖。
過酷なこの土地では、明日は我が身だ。あんな態度になろうと、無理もない。
誰もが不吉を纏う子供は現実で、視線を逸らすことでしか自分を守れないのだろう。
一切の声を発さず、ただ泥水を啜るように生きる盲目の子供。
その存在の厄介さゆえに、彼女は透明な存在へと堕ちていく。
(……人の嫌悪ほど、便利な隠れ蓑はない、ね)
黎景の皮肉げな教えを、雨昕は全身で体現していた。
「自らの尊厳を餌にして、真実を釣る」という、泥にまみれた斥候の真髄は、まさに黎景の非情さを目の当たりにしたようで、逃げたくなったものだ。
恥辱など、とうの昔に置いてきた。
手足を見せ、蔑まれることなど、文霽へと続く道に比べれば塵ほどの内容でしかないのだから。
だが、現実は雨昕の細い身体にも容赦なく降り注ぐ。
暦の上では春を越えたというのに、最北の寒気は加減もなしに雨昕の肌を突き刺し、骨の髄から体力を削り取っていく。
指先の感覚は、とうに寒さで消え去っている。
胃の腑は空腹でひっくり返りそうになり、臓腑までも凍てつくような震えが襲う。
だが、その生理的な苦痛すらも、雨昕は「潜伏に必要な演出」として利用した。
演技ではない、本物の震え。
掠れるような、絶望の気配。
穴の空いた外套を胸元で強く握り締め、雨昕は村の境界線を歩く。
要塞に近づけば守備兵に怪しまれ、民家に近づけば住民に追い払われる。
その絶妙な嫌悪の狭間を見定めると、雨昕は路地裏の湿った泥の上に直接腰を下ろした。
膝を抱えて丸まるその小さな背中は、一見すれば捨てられた子犬のようだが、目元を覆う布の裏側で、雨昕の聴覚は狂気じみたほどに鋭敏に研ぎ澄まされていた。
一瞥して通り過ぎる足音。
吐き捨てられる罵倒。
遠くで交わされる、何かの影に怯える声。
英雄としての名を捨て、声をも捨てた「鵑」は、静かに死地の情報を待ち伏せていた。
本隊の到着まで、あと二日。
凍土に身を伏せる過酷な潜入任務も、七日を超えいよいよ最終局面を迎えていた。
この数日間、泥を啜るような擬態のなかで雨昕が拾い集めた情報は、予想だにしない歪な形をしていた。
意外なことに、村の一部の住人は、襤褸を纏う雨昕に救いの手を差し伸べたのだ。
ぶっきらぼうに投げ渡された、貴重な厚手の外套や干し肉の欠片。
「もうすぐ、宋武筮様がやってくる」
彼らは、天瑞の官僚には一度も見せたことのない穏やかな顔でそう言った。
――朔原の獅子、宋武筮。
天瑞の辺境を脅かすはずの異民族の王は、この塞北において、略奪者ではなく“救世主”として語られていた。
かつて彼がこの地を訪れた際、配り歩いたのは刃ではなく、大量の革や布、そして丸々と肥えた子羊だったという。
「官僚共はこれほどのことはすまい」という、骨まで浸透した不信感。
宋武筮は人心の隙間に、甘い慈悲という名の毒を流し込んでいたのだ。
語られる王の姿は、あまりに出来過ぎていた。
女子供に優しく、病人には自ら薬草を分け与え、行き場のない流民を寒戎の抱擁へと迎え入れる。
その流民が、後に立派な体躯となって戻り、寒戎の楽土を説くという眉唾物の話まで流れている。
生まれたばかりの我が子を自慢気に語る慈父であり、妻に天瑞の装飾品を好んで買い求め、相好を崩す愛妻家。
(……気色が悪い)
雨昕は渡された干し肉を、奥歯で無理矢理噛み千切る。
塩気の強い脂の味が、空腹の胃に毒のように熱く染み渡った。
泥を啜ってでも生き延びねばならない斥候にとって最高の馳走であるはずなのに、宋武筮という“敵の影”を飲み込まねばならないような、得体の知れない気味悪さが喉の奥に引っ掛かる。
そして、布の裏側で冷ややかに目を細めた。
敵地を“力”で踏み躙るのではなく、自らの庭へと変えてしまう支配術。
宋武筮がただの猛将ではないという事実は、今回の征伐がこれまでになく困難なものになることを予感させた。
空を覆う鈍色の雲が星明かりを飲み込む頃、闇夜に紛れて雨昕は繋ぎの斥候へ、得た情報を書き記した書簡を託した。
そして早朝――敢えて人目に付くよう、雨昕は「盲目の少女」を演じ抜き、杖を突いて塞北を後にした。
向かう先は、天瑞と朔原を分かつ巨大な障壁――白朔嶺。
「山へ行けば死ぬぞ」と引き止める老人の声を、頑なに首を振って拒み、ふらつく足取りで登山道へと消えていく。
――そして、完全に人目が途切れた。
その瞬間、弱々しく地面を引き摺っていた足が、鋼のような強靭さで地を踏み締めた。
雨昕は風にはためく目元の布を剥ぎ取ると、その黒い布で脂と灰に汚れた髪を乱暴に結い上げる。
忌まわしい慈悲の匂いが染み付いた襤褸を脱ぎ捨て、繋ぎの斥候から書簡と引き換えに渡された衣服へと身を包んだ。
杖の役目を終えた枝を捨て、握り締めたのは愛用の棍。
菖蒲色の双眸に宿るのは、憐憫でも、迷いでもない。
ここから先は、一歩ごとに命を削り合う死線。
白朔嶺の山道は、なだらかという言葉からは程遠かった。
垂直に近い急勾配が各所に口を開け、大隊が進軍すれば必ず足を止めることになる。
襲撃を仕掛けるなら、ここをおいて他にない。
寒戎――とりわけ宋武筮という男は、この峻険な山脈を何度も越えて塞北に慈悲を撒いたのだ。
ならば、この要所を自らの庭として作り替えていないはずがなかった。
雨昕は猫のような身軽さで垂直の岩場を登り、高所から獣道を俯瞰した。
そこに見つけたのは、巧妙に隠された崩落の罠だ。
一見安定している大岩の支えに小石や丸太を噛ませ、一定の加重で土砂崩れを引き起こす仕掛け。
さらに厄介なのは、麓の老人が口にしていた“寒戎の目”だった。
二里先の動きを見逃さず、優れた者は三里先の騎馬の数を数え違えないという驚異的な視力。
もしそれが事実なら、罠を一つ作動させただけで、白朔嶺の全域に侵入者が知れ渡るだろう。
(……嫌がらせの天才だね、宋武筮は)
師も負けていないけれど。
そんな取り留めのない考えに、雨昕は口元を緩める。
しかしこの山脈は斥候泣かせで、そんな考えも直ぐ様思考の端へと追いやられていく。
切り立った崖と細い尾根が蛇行し、視界を遮る。
高所に登っても全容は拝めず、風の通り道には穴の空いた角や骨が吊り下げられ、強風が吹くたびに、人の啜り泣きにも似た不気味な音を山々に響かせている。
だが、何より悪質なのは“生きた罠”だった。
寒戎は狩猟した獲物の臓物を、意図的に獣道や岩棚へばら撒いている。
それを目当てに、巨大な猛禽類が群れをなして居着いていた。
迂闊に近づけば鋭い爪に襲われ、威嚇して追い払おうものなら、騒ぎ立てる鳥たちが寒戎に異常を告げる。
岩棚には、猛禽の羽毛や糞、食い散らかされた骨に混じり、天瑞風の布の切れ端や履き物が点在していた。
それが何を意味するのか。雨昕は嫌な想像を振り払う。
猛禽の巡回路となったこの岩棚を抜けるには、地の利を捨てて本隊へ合流するのが定石だ。
だが、ここにいるのは鬼才が五年の歳月をかけて、その牙を研ぎ澄ませた“猛獣”だった。
雨昕は、先ほど目元から剥ぎ取った――束ねたばかりの髪をほどいて、黒い布を再び目元に巻きつけると、猛禽達から視線を絶った。
頼るべきは、足の裏から伝わる岩の震えと、大気を震わせる音のみ。
そして、手にした棍の石突きを、一定のリズムで地面に打ち鳴らし始めた。
コン、コン、コン――。
足音は殺し、石突きの音だけを響かせる。
強くもなく、弱くもない。
それは、塞北で見せていた力ない杖の音とは正反対の、意志に満ちた“警告”だった。
乾いた音は、静寂に包まれた白朔嶺の断崖に波紋のように広がる。
頭上の岩棚で、鋭い爪が岩を削る音がした。
獲物の到来を確信した猛禽の、期待に満ちた身震いだろう。
一羽ではない――三羽、四羽。
猛禽独特の、血生臭い脂の匂いが立ち込め、見えざる視線の重圧が雨昕の首筋に突き刺さる。
けれども、雨昕は足を止めない。
音を変えず、間を狂わせず、ただ一定の規則性を持って死地を歩く。
それは、野生の獣に対して「自分は敵意も、隙もない異物である」と認識させるための、極めて高度な心理戦。
果てには、自然の摂理すら防衛網に組み込む宋武筮の狡猾さを、雨昕は「自然の一部と同化する」という、より高次元の理でねじ伏せたのだ。
石突きの音を護符のように引き連れて、彼女は血の匂いの残る岩棚を、静かに通り抜けていった。
しばらくして。
バサリ、と一度だけ、羽音が鳴った――。
――――
玄欒率いる大軍が塞北に到着した際、彼らを迎えたのは歓迎の声ではなく、凍てつくような拒絶の視線だった。
「なるほど」と、黎景は冷ややかに呟く。
「雨昕の報せ通り、ここは『天瑞であって天瑞ではない』ようだ。……見張りは、村から出ようとする者をすべて捕らえよ」
雨昕からの書簡で現状は把握していたが、目の当たりにした人心の乖離は、想定しうる最悪の部類だった。
宋武筮という男は、単なる蛮族の王ではない。
敵国の領土を、戦わずして内側から溶かし、塗り替えてしまう毒を持っている。
「宋武筮は、実に食えない男ですね。妻子を人質に取れれば楽なのですが……」
さらりと不穏を口にした黎景に玄欒は答えず、眉間に深い皺を刻んだまま書簡を丸めた。
その不穏な案が上手くいかないことは、互いに分かりきっていた。
この村の者たちは、隙あらば白朔嶺へ走り、寒戎へと官軍の到着を報せようとするだろう。
武力で制圧すれば人心はさらに離れ、宋武筮への忠誠を強めるだけだ。
夜半。
案の定、闇に紛れて村を抜け出そうとした男が捕らえられた。
男が通った道は、路地裏も路地裏――地図を見ただけでは分からない、道とも言えない道だった。
こんな道すら見逃さない雨昕の嗅覚に、人知れず黎景は誇らし気に微笑を浮かべていた。
引きずり出された村人は、膝をつかされてなお、玄欒を口汚く罵った。
「宋武筮様なら、俺たちをこんな風には扱わねえ! 官僚共め、俺たちから奪いに来たのか!」
その怒号を浴びながらも、玄欒は眉一つ動かさず、彼らを斬り捨てることをしなかった。
代わりに、兵に積み荷の解梱を命じた。
兵たちが慌ただしく荷解きをすると、そこから現れたのは、大量の種籾、農具、そして冬を越すための保存食だった。
「俺たちを馬鹿にしているのか!どうせ、“次”など無いのだろう!」
「そうだ、漫然と待つ者に“次”など無い」
「何を……っ!何も、知らないくせに好き勝手を!」
男は肩を怒らせ唾を撒き散らし、声を張り上げた。
宋武筮が与えたのは、すぐに食べられる羊であり、すぐに纏える厚手の布、あるいは鞣した革だった。
対して官軍の持ってきたものは、どれも手間と時間を要するものばかり。
明日をも知れぬ者たちにとっては、あまりに回りくどく不確かなものに映った。
だが、玄欒の真意はその先にあった。
「ただし、羊と山羊の群れをこの地に預ける。併せて、役人ではない『牧の智者』を此処へ置こう。生き物を育み、増やし、それを糧としてこの地で生きる術を教える者だ」
「そんなこと……っ!」
「“次”は、お前たち自ら生み出すのだ」
失敗した過去を苦々しげに声にしようとした村人を前に、玄欒はなめし道具や毛織の簡易織機までも次々と並べさせていく。
よくよく見れば、農具の形さえ、彼らがかつて大枚を叩いて行商から買った南方の使い回した道具とは異なっていた。凍土を穿つために計算し尽くされた、北方仕様の鋭い鉄器だ。
道具の使い方を知り、術を教える者も役人ではないと言う。
その言葉が本当ならば、村人たちがかつて――自ら立ち上がり挑戦し、この地の凍土に撥ね返された時とは訳が違うことに気づく。
あの時、こうあればと願ったその全ての条件が、目の前に揃っていたのだ。
宋武筮が与えたのは、座して待てば降ってくる“施し”だ。
対して玄欒が提示したのは、この不毛な地を適正な道具と正しい術を以て自らの手で興し、豊かさを作り上げるための“改革”だった。
「この地の税を、三年の間免除とする。それまでに成果がなければ貸与した物はすべて回収するが、功を奏すならば家畜も道具もすべてこの地に寄付しよう。この地の産物には市の公認札も与える。……お前たちは、施しを待つ流民ではない。帝の地を守り、自ら富を築く塞北の民だ」
玄欒の捲し立てるような宣言は、叫びではない。
だが、その低く静かな声は、塞北を吹き荒れる夜風さえも圧して、息を殺し聞き耳を立てていた村人たちの耳の奥まで染み渡った。
玄欒が突きつけた、自らの手で尊厳を勝ち取れという、苛烈な“希望”。
村人たちは、月光に照らされた農具の鋭い輝きと、その前に立つ巨龍のような男の姿を、ただ呆然と見上げていた。
寒空の下、一人、また一人と、雪の残る泥土に膝をつく。
それは恐怖による屈服ではない。
自分たちを“救われるだけの弱者”としてではなく、“この地を守る民”として再定義した男への、抗いがたい敬畏だった。
「……宋武筮が心を溶かす『毒』なら、我が主は骨を組み直す『理』か」
背後で見ていた黎景が、音もなく扇を閉じる。
この夜、塞北という村の真の主が誰であるか、荒野の草木に至るまでが知ることとなった。
玄欒は、膝ずく群衆には目もくれず、ただ昏く沈む白朔嶺の峰を睨み据えていた。
いよいよ、牙が届く。
その確信だけを胸に。
大根と白菜は何しても美味しい。すごいと思う。




