1-4『呪い』
嵐の如く去っていった玄欒。
待ち望んだ報せと共に贈られた『鵑』という名の重みは、雨昕の心に深く刻み込まれた。
主君の足音が遠ざかり、張り詰めていた広間の空気がふっと緩む。
そして沈黙を破ったのは――雨昕の腹の虫が盛大に鳴った音だった。
「おや。夜にはまだ早いんじゃないかな。――『鵑』を名乗るにはね」
黎景が、雨昕の手元にある紙を見やりながら、意地悪く口角を上げた。
一瞬、雨昕は何を言われたのか分からず、きょとんと目を丸くする。
けれど、先ほど玄欒が語った「夜に鳴く」という言葉を思い出し――その「夜」にかけた皮肉だと気づいた瞬間、顔が火が出るほど熱くなった。
(この人は……すぐからかってくる!)
大人への儀式が済んだとて、いきなり中身まで変われるものではない。
黎景はそれを熟知していた。
だからこそ、あえていつも通りに振る舞う。
それは雨昕の緊張を解くためであり、同時に「背負った名に溺れるな」という彼なりの忠告でもあった。
そして、いつも通りの軽薄な空気を演出したのは、これから死地へと向かう雨昕に帰るべき場所を教えるための、彼なりの慈悲だ。
甘やかすことはもうしない。
けれど、冷たく突き放すだけが教育ではない。
黎景は女中を呼び、元服の祝いをやり直すかのように、食卓へ大量の料理を並べさせた。
湯気を立てる皿の数々を前にして、雨昕はようやく、自分が“大人”として戦場へ向かうのだという現実を、静かに受け入れることができた。
――――
天瑞国の最北端には、天を衝くような険しい山岳地帯が屏風のように連なっている。
その峰を越えた先に広がるのが、見渡す限りの荒野――朔原だ。
そこは、幾多の異民族が血で血を洗う争いを繰り広げる修羅の地。
かつては統一された時代もあったというが、それも今は昔。
現在は、若き知略家・宋武筮率いる『寒戎』が、その圧倒的な騎馬隊を駆って覇を唱えていた。
雨昕も一度、国境防衛に駆り出されたことがある。だがその時に彼女が見たのは、もぬけの殻となった戦場だけだった。
寒戎は風のように現れ、蹂躙し、追撃の手が届く前に虚空へと消える。
早駆けを得意とする雨昕にとって、これ以上悔しいことはない。
黎景の難題をこなす傍ら、もっと早く、もっと長く走れるようにと、一から己を鍛練し直したほどだ。
だが、今回は違う。
玄欒自らが大隊を率いる『征伐』だ。
太守府、軍議の間。
部屋の端、厳めしい面々の中で一際異彩を放つ雨昕は、けれど石像のように静かに佇んでいた。
広い卓の上には、墨痕鮮やかな軍地図が広げられている。
だが、国境を越えた北側は意図的な空白に満ちていた。
その“白”こそが、これまでに散っていった斥候たちの敗北の証であり、把握できていないという事実が、そのまま置かれていた。
「寒戎征伐は、勅命だ」
玄欒の低く、断定的な声が響く。
帝すら揺さぶる敵は、馬と共に生きる民だ。
正面から当たれば退き、こちらの疲弊を待って背後から食らいつく。
一度逃がせば、執念深い彼らは必ずや、何倍もの報復をもって天瑞を焼き払うだろう。
「奴らの拠点を掴み、確実に叩く」
一瞬、部屋の空気が凍りついた。
敵の懐深くへ潜り込み、その喉元を見つけ出す。
それは、戻れぬことを前提とした死の任務だ。斥候が『捨て駒』と囁かれる所以である。
居並ぶ将たちの視線が、自然と部屋の端に座る小柄な少女へと集まる。
それまで微動だにしなかった雨昕は、その視線の重さを真っ向から受け止め、小さく頷いた。
彼女自身が、先頭を走ることを志願した。今さら恐れはない。
全てはあの穏やかな日々――文霽を取り戻すため。
それこそが、彼女が『鵑』の名を授かった理由なのだから。
隣に立つ黎景は、扇を閉じたまま微動だにしない。
止めもせず、労いもせず、ただ静かに彼女の覚悟を肯定していた。
軍議が終わり、将たちが逃げるように去っていく中、雨昕もまた部屋を出ようとした。
「鵑」
鋭い呼び声に足を止める。
玄欒が、粗い布に包まれた小さな木箱と、粗末な木札を差し出していた。
「思遠を待つ間、これを届けてもらおう」
受け取った木箱は、見た目通り――それ以上に、軽かった。
だが、そのやり取りを横で見ていた衡迅燿が、一瞬だけ目を見開いた。
「殿、それは俺が――」
食い下がろうとした衡迅燿を、けれど玄欒は一瞥もくれない。
取り合うつもりはないと、言外に示していた。
雨昕は、衡迅燿の動揺の理由を問わなかった。
衡迅燿もまた多忙の身だ。
この程度のお使いならば、足の早い彼女こそ最適だろうという、自負もあった。
玄欒だけでなく、何か言い淀む衡迅燿にも深々と一礼し、彼女は軍議の間を後にした。
雨昕の気配が完全に消えた後、残された衡迅燿は重苦しい溜息をついた。
「ああ、もう……。知りませんからね、恨まれても」
玄欒は答えなかった。
ただ無言で、空白だらけの地図をゆっくりと畳んでいく。
その横顔には、情愛も容赦も、一欠片すら浮かんでいなかった。
太守府を一歩外へ出ると、突き抜けるような青空が広がっていた。
雨昕の手の中にある包みは、相変わらず拍子抜けするほどに軽い。
これから向かう極寒の斥候任務に比べれば、城下の外れまで足を運ぶなど、造作もない「お使い」のはずだった。
――その包みの中に、一体何が納められているのか。その真実を知るまでは。
指定された場所は、城下から程近い居住区だった。
ここは出征を控えた、あるいは帰還した兵士の家庭が多く集まる区域だ。
人通りは絶えず、活気と緊張が入り混じった独特の賑わいを見せている。
市井に流れる大袈裟な英雄譚としてではなく、演習場や城壁の上で雨昕の槍筋を間近に見た者も多い。
黎景の秘蔵っ子でありながら、未だ官位を持たぬ在野の身である雨昕に対しても、道行く兵たちは敬意を込めて深く頭を下げ、彼女を出迎えた。
だが、その活気の中でも、不自然に色が抜け落ちたような一角があった。
昼過ぎの陽光が降り注いでいるはずなのに、そこだけがどんよりと薄暗い空気に澱んでいる。人通りはまばらになり、子供たちの遊び声さえ届かない。
目的地である一軒の民家の前に立ち、雨昕は木製の扉を静かに叩いた。
「……失礼します」
中から返ってきたのは、枯れ葉が擦れ合うような、ひどく嗄れた声だった。
促されるまま足を踏み入れると、そこには貧しさとは無縁ながらも、ひどく物寂しい匂いが充満していた。
主を失った部屋特有の、埃と沈黙が混ざり合った匂いだ。
奥へ進むと、古びた椅子に座り、おぼつかない手つきで己の膝を擦る老翁が一人、静かに佇んでいた。
老翁の視線は、虚空を彷徨っている。
雨昕は、手の中にある軽すぎる包みを無意識に握りしめた。
これから自分が差し出すものが、この静寂を、そしてこの老人の時間をどのように変えてしまうのか。
突き抜けるような青空の下で感じた軽やかさは、もはやどこにも残っていなかった。
「おや……どなたかな?」
「突然の訪問、失礼いたします。羅雨昕と申します。玄郡丞より、こちらを届けるよう承りました」
雨昕が差し出した木箱を見た瞬間、老翁の肩が微かに震えた。
痛むのであろう足を引きずり、立ち上がろうとするのを制して、雨昕はその手にしっかりと箱を委ねた。
老翁は、震える指先で木箱の表面を愛おしげに撫でた。
「……大人しくて……優しい子でね」
ぽつりと溢れた、弱々しい独白。
雨昕には、それが誰を指すものなのかは分からない。
けれど、老翁は雨昕の当惑を気にかける様子もなく、濁った瞳を遠くへ向けて言葉を継いだ。
「儂の足を……よく温めてくれたよ」
震える、聞き取りにくい声。
けれどそれを聞き取ってしまった瞬間、雨昕の胸を鋭い痛みが貫いた。
このお使いの真の意味を、ようやく理解した。
雨昕が運び込んだ、拍子抜けするほど軽い“箱”。
それは、大隊の先頭に立って戦塵の向こうへ消えていった、名も知らぬ誰かの“最期”だ。
雨昕の生まれた村では、死は日常であり、骸は野ざらしにされるのが常だった。
弔いすら存在しないあの地獄を思えば、遺品を届け、余生を保証する玄欒の施しは、この上ない救いのはず。
――いや。違う。そんな、そういうことでは、ない。
雨昕は箱の中身に自分自身を投影してしまった。
もし、雨昕が帰らなければ。
この椅子に座り、誰かから雨昕の“最期”を受け取ることになるのは――黎景だ。
衡迅燿が、代わりに行こうと申し出てくれた理由がようやく分かった。
あれは軍人としての義務感ではなく、純粋な、あまりに痛々しい優しさだったのだ。
翻って、玄欒は。
あの男は、これほど残酷な現実を突きつけるために、わざわざ自分を呼び止めたのか。
(……あの方らしい)
言葉は少なく、表情から真意を読み取ることが極めて困難な、あの鉄面皮の郡丞。
けれど、師である黎景と同じく、玄欒もまた、この数年で雨昕の中の印象を静かに変えていった人物だった。
彼は、これから凄惨な死地へ向かう雨昕に、「こうなる可能性」を残酷なまでの現実として叩き込んだのだ。
だが、これは彼なりの激励なのだと雨昕は気づく。
雨昕が生きて帰ることを誰よりも望むがゆえの、不器用な願い。
そして、黎景に老翁と同じ絶望を味わせるなという、あまりに判りづらい、優しさ。
(……もし、私があの箱に収まるなら)
不意に、暗い疑問が脳裏をよぎる。
その時、自分は何を残せるだろうか。
黎景の心に、玄欒の記憶に、何が刻まれるというのか。
答えの出ない問いに、雨昕は静かに蓋をし、胸の奥深くにしまい込んだ。
今は、その暗がりに引きずり込まれるわけにはいかない。
それに――文霽を助けられないまま、逝くことなどできない。
あの日から止まったままの時間を、彼女は今も、暗闇の中で雨昕を待ちながら耐え忍んでいるはずなのだから。
突きつけられた現実の重さには、目眩がする。
けれど、希望に想いを馳せることで、心の端から侵食しようとする暗がりを強引に振り払う。
きっと、この箱に収まった名も知らぬ誰かにも、守りたい希望はあっただろう。
その無念を想えば、雨昕には彼を安っぽく憐れむ権利などない。
けれど。
目の前の老翁に、これほどまで空虚で、物寂しい顔をさせた罪は、一体誰が背負うべきか。
やり場のない憤りに胸が詰まる。
そのいたたまれなさに踵を返そうとした。その時。
背後から響いた老翁の穏やかな声が、雨昕の足を止めた。
「羅雨昕様。貴女様は、お強いのでしょう。……それでも、人は死ぬのです」
「……」
「どうか、お気を付けて……。無事の帰りを、祈っておりますよ」
深く、深く頭を下げる老翁。
その穏やかな声で告げられた言葉は、雨昕にとって優しげな顔をした呪いのように響いた。
雨昕だとて、知っていたことだ。人は、容易く終わりを迎える。
たとえどれほど武名を轟かせようと、英雄と讃えられようと、死は誰にでも等しく、残酷なまでに確実な足取りで訪れる。
そんな至極当然の、逃れることのできない摂理。
ただ、その先に待つものが、こんなにも苦しいなんて。
老翁の家を後にした雨昕の足取りは、来た時よりもずっと重くなっていた。
あの老人の、慈しむようでいて、どこか諦観を孕んだ悲しげな眼差し。
それは、時に自分を突き放すほど冷徹に、時に壊れ物を扱うほど慈しみ深く自分を見つめる――黎景の瞳に、ひどく似ていた。
愛する者が駒として、あるいは刃として死地へ向かうのを、ただ見送ることしかできない絶望。
それに気づいてしまったからこそ、黎景のもとへ帰る足がすくんでしまう。
ぼんやりと歩を進めるうちに、日は大きく傾いていた。
先ほどまでの静まり返った居住区とは対照的に、市は夕餉の支度を急ぐ人々で活気づき、煮炊きの匂いと威勢のいい声が夕闇に溶け始めている。
黎景は、まだ太守府だろう。そろそろ迎えに行かなければ。
重い足取りを無理に動かそうとした雨昕の耳に、馴染みの屋台の店主の声が飛び込んできた。
「これはこれは、羅雨昕様! ちょうど、できたてですよ! ほら、持っていってくださいよ!」
強引に手渡されたのは、蒸したての湯気を上げる、串に刺さった粟餅。
店主は、雨昕の手を握りしめんばかりの勢いで、一点の曇りもない期待の眼差しをぶつけてきた。
「あんたがいれば、寒戎の蛮族どもなんてあっという間だ! 英雄の凱旋、皆で首を長くして待ってますよ!」
それは、悪意など微塵もない、真っ直ぐな信頼。
けれど今の雨昕には、その純粋さが逃げ場のない重圧となって肩にのしかかった。
“英雄”などという、身に余る皮肉な勲章。
自分の知らないところで勝手に膨らみ、背負わされていく、名も知らぬ人々の願い。
あの一角に沈んでいた老翁の絶望を知った今、その無責任な祈りの重さに、雨昕は目を瞑りたくなる。
今、自分はいつもみたいに笑って応えられただろうか。
かつて、どこかに捨ててきたはずの恐怖という感情が、すべてを放り出して逃げ出したい衝動となって、喉元までせり上がってくる。
(……怖くないのかな、あの人たちは)
黎景や玄欒は、自分よりもずっと重く、血生臭いものを、何年も背負い続けている。
その心の内が、どれほどの孤独に苛まれているのか、今の雨昕にはまだ分からない。
けれど、雨昕は震える拳を、粟餅の熱が伝わるほど強く握りしめた。
――この恐怖は、今一度この喧騒の中に捨てていく。
文霽を救い出すため。そして、自分を信じて送り出してくれる人たちのために。
帰りを待つ者たちの祈りを、絶望に変えてしまわぬように。
雨昕は暮れなずむ空を仰ぎ、一度だけ深く、冷たい空気を吸い込んだ。
そして、暗く伸びる影を断ち切るように、強く、確かな一歩を踏み出した。
――――
元服から、ふた月。
玄欒の苛烈なまでの指揮のもと、大隊を動かす軍備としては、驚異的な速さで進められた。
けれど、文霽へと続く道が開かれるのを五年も待ち続けた雨昕にとっては、一刻が一年にすら感じられるほど、長く、もどかしい停滞であった。
その間に雨昕がしたことといえば、何度も行嚢の中身を確認し、本来なら不要なはずの小さな木簡を握りしめていた。
文霽が消えたあの日、拾い上げた二人の遊びの欠片を胸に押し当て、目を閉じる。
この木簡は、お守りだ。
雨昕を護るためではなく、今も雨昕と文霽を繋ぐ、想いの拠り所。
想いが文霽へ届くように、彼女が無事であるように――そんな、文霽への、祈りの一端。
今では、経年で墨は滲み、繊細だった彼女の文字は形を崩している。
けれど、それを見つめるたび、雨昕の脳裏にはあの日の整然とした美しい文字が鮮やかに蘇る。
極彩色の日々を取り戻すのだと、深く、深く祈る。
(生きていて。無事でいて。……私が、迎えにいくから)
出発の朝。
物の少ない自室に掲げた詩を見上げ、雨昕は呟くように読み上げた。
細雨 青衣を染め
幼影 前陣を走る
尊と貴の為にあらず
ただ 我が身の寒を恐るればなり
雨昕と文霽の始まりの詩。
例えば、文霽が詩を嗜まなければ。
例えば、雨昕が文霽に話し掛けなければ。
例えば、この詩がなければ。
今ここに、雨昕はいない。
けれど、その詩は確かにあって、文霽と過ごした日々は、幻などではない。
必ず戻るのだ。文霽と、共に。
そう胸に刻み、雨昕は部屋を後にした。
玄関の前で待っていたのは、黎景だった。
「私も殿と共に、後から合流する。貴女はあくまで斥候だ。……例え文霽が居なくとも、焦りは禁物だよ。いいね?」
釘を刺すような、冷徹な軍師の言葉。
だが、雨昕が覚悟を決めて頷いた瞬間、黎景の細い指が、ふわりと彼女の頭に触れた。
元服の儀で引かれた、厳格な“大人”と“子供”の境界線。
二度と触れられることはない、もう甘えることは許されないと思っていたその温もりが、雨昕の深く、無意識の底に染み付いた反応を呼び覚ます。
気づけば、彼女は黎景の胸に縋り付き、その衣を子供のように強く握りしめていた。
鼻腔を突くのは、馴染み深い墨の匂い、微かな酒精。
それから、書斎に燻る、乾いた香の残り香。
師の体温は、こんなにも――痛いほどに、温かかっただろうか。
触れることを禁じられて、まだほんのふた月。
もっと長い時間離れていたことだってあったはずなのに。
黎景は、無言だった。
やめるように言ったはずの無作法な行動を、彼は咎めない。
それどころか、細い肩に置かれた師の手が、静かに、そして確かに彼女を自身へと引き寄せた。
雨昕は、その衣を掴む指先に、いっそう強く力を込める。
「……子供扱いは……しないんじゃ、なかったんですか?」
雨昕はあえて、無粋な言葉を投げた。
皮肉でも言って欲しかった。突き放して欲しかった。
そうでもなければ、鼻の奥を突く熱を堪えきれなくなってしまいそうだったから。
だが、黎景の声は、驚くほど湿り気を帯びていた。
「そうなのだけれど、ね。……弟子を死地に送る身にも、なって欲しい」
初めて聞く師の弱気な言葉に、雨昕は息を呑んだ。
それだけ、今回の任は過酷――死と隣り合わせなのだ。
どんな時も、涼しげな顔をしている黎景。
何でも知っていて、どんな事態も見越したように動く人。
そんな人でも、迷うのだ。
ならば、何をどれだけ学んでも、雨昕が知らない事ばかりでも、不思議じゃない。
だから、黎景が遠くの存在になったようで、そうではないことに、安堵すら覚えてしまう。
雨昕は震える呼吸を整え、ゆっくりと、その温もりから離れた。
黎景の手が、名残惜しそうに雨昕の頬を撫でる。
「……必ず、帰っておいで」
黎景が浮かべた微笑は、雨昕が初めて見る、脆く、寂しげなものだった。
文霽を救いたいという執念と、師を置いて逝く覚悟。
その二つの想いを、激しく揺さぶる、痛々しい響き。
その表情と声に救われてしまう自分を、雨昕は“卑しい”とさえ感じた。
(『 』)
喉まで出かかった弱音を、雨昕は無理やり呑み込んだ。
口にしてしまえば、二度と戦場を走れなくなる。
邸から外へと足を踏み出し、一度だけ振り返ると、大きく手を振った。
これは別れではない。
再会するための、ひとときの不在。
「待ってますからね!行ってきます!」
疾風迅雷と讃えられる脚に、ありったけの決意を込めて地を蹴った。
黎景の心配も、背負わされた名も、すべてを追い風に変えて走る。
自分は決して、弱くない。
そう信じなければ、北の果てで待つ凄絶な運命には立ち向かえないから。
こうして、後の世にまで語り継がれる悲劇と奇跡の戦記――『寒戎征伐』の幕が上がった。
ベロの裏側に口内炎が出来た。痛い。
でも鮭は美味しい。




