1-3『元服』
“羅雨昕”――。
今やその名は、瑞陽という一都市の枠に収まるものではなくなっていた。
南の水鏡、南澤、東の雲漢、北西の曜原。
この天瑞国の遍く主要都市において、彼女の神出鬼没な武勇は、もはや伝説として語り継がれている。
あらゆる勢力がこぞって仕官を願い出るなか、彼女は一貫して首を縦には振らない。「それは無理」とはにかんで断るその裏には、彼女にしか分からぬ、譲れぬ理由があった。
つい先日などは、古都・雲漢の君主が、軍部最上位の座である“大将軍”という破格の条件を突きつけたという。
流石にこれには頷くだろう――そんな周囲の予想を裏切り、彼女はこれもあっさりと蹴ってみせた。
「大将軍すら断った少女」の噂に、市井は未曾有の盛り上がりを見せていた。
実情を言えば、放浪の身であった彼女がこれほどまでの名声を築けたのは、現在では許安の太守となった玄欒の庇護、そして何より、鬼才の軍師・黎景に師事したことが大きかった。
――いや、「師事した」などという生易しいものではない。それは、無理やり叩き込まれたというべき地獄の研鑽だった。
黎景は当初、雨昕を言葉の通じぬ野生児のように扱った。
「生活環境を変えなくていい」と甘い言葉を吐いておきながら、裏では息をつく暇もないほどの膨大な課題を課す。
理不尽だと食ってかかる雨昕に対し、黎景は涼しい顔で言い放つのだ。
「将としての在り方を知らぬ者など、戦場には連れていけない。ましてや――朔原になど、到底ね」
弱みに付け込まれた雨昕の、執念ともいえる努力。
彼女の吸収力は黎景の想定すら上回り、日に日に課題は難解を極めていった。
黎景もまた、食らいつく雨昕の姿を楽しむように、予定になかった高度な兵法や軍略、戦略までも徹底的に叩き込んでいった。
そうして一定の成果を修めた彼女に対し、「教わったことを実地で試してこい」と再び放浪へ放り出したのは半年ほど前のこと。
そしてこの日、彼女を本拠地・許安へと呼び戻したのもまた――黎景であった。
何度か訪れたことのある許安は、玄欒が治めてから目覚ましい発展を遂げていた。
活気あふれる市場を、雨昕は何を買うでもなく歩く。
「州や村の発展具合を見ることは、政治と軍略の基本だ」
そんな耳にタコができるほど師に言い聞かされた教えを、彼女は忠実に守っていた。
一通り市を見終えた帰り道、日暮れが街を朱に染める大通り。
そこで雨昕は、一人の男の後ろ姿を見つけた。
長身痩躯に、淡い色の髪。
今や、その背中や歩き方だけでも、それと知れる人物。
雨昕の“師”であり、ある意味では“仇”よりも執念深く彼女の人生を縛り続けている男だった。
「思遠様ーーっ!」
夕闇の迫る大通りに、雨昕の張りのある声が響いた。
案の定、その人影はぴたりと足を止める。
周囲を怪訝そうに見渡す彼に向かって、雨昕は一気に地を蹴った。
まばらな歩行者の隙間を、燕のような身のこなしでするりと、鮮やかに潜り抜ける。
十分な助走。並外れた脚力が生む爆発的な跳躍。
引き絞られた弓から放たれた矢のごとく、雨昕の身体は一直線に宙を切り、標的へと突き進んだ。
対して、ようやく振り返ったその人物――黎景は、驚くよりも先に事態を察知した。反射的に、激突の衝撃に耐えるべく膝を沈め、身構える。
「ごふっ……!」
「ただいま戻りましたっ!」
「ぐ……っ……。や、やあ、雨昕。おかえり……元気そうで、何より、だよ……」
黎景。かつて強引に彼女の師の座を奪い取った男。
最悪の、渋く苦い思い出は鮮明に思い出せる。
何度も衝突し、反発し、理不尽な課題に呪詛を吐いた。けれど、その頭脳が授けてくれた知恵が、幾度も死線を越える助けとなったこともまた事実だ。
いつしか雨昕は、己を“羅雨昕”という英雄にまで育て上げたこの男に、確かな敬意を抱くようになっていた。
今では何でも知っている兄のような存在として、親愛を込めて字で呼ぶほどに慕っている。
両腕を真っ直ぐに伸ばし、悪戯な笑みを浮かべて“兵器”の勢いで飛び込んできた弟子を、黎景はのけぞりながらもしっかりと受け止めてみせた。
雨昕が懐いて以来、この物理的な衝突はもはや恒例行事だ。だからこそ、声が聞こえた瞬間に「構え」を取れたのである。
そんな久方ぶりの再会にしては、黎景の反応はあまりに平熱だった。
それは、離れている間も頻繁に書簡で近況を交わしており、彼女の武勇を誰よりも信じている彼にとって、過剰な心配など不要だったからだ。
どちらも周囲の好奇の視線など一顧だにせず、黎景は雨昕をひょいと小脇に抱え直すと、そのまま歩き出した。
背中には武具である棍と旅の荷物。
それでも、突進の勢いさえなければ、小柄な雨昕は拍子抜けするほどに軽い。
雨昕もまた、抱えられたまま大人しく揺られていた。
降ろしてもらう機を逃したというのもあるが、それ以上に、この半年間の土産話をいち早く師に伝えることに夢中だったのだ。
黎景が馴染みにしている飯店に辿り着き、ようやく雨昕の足が地に着いた。
「遠慮」という言葉は、一体いつの間に忘れてしまったのか。
地面の感触を確かめながら、雨昕は早くも次の言葉を紡ごうと、目を輝かせて師を見上げていた。
飯店の席に通されると、黎景は流れるような所作で次々と料理を注文した。
二人分にしては過剰な量にも思えたが、案ずるには及ばない。
雨昕は今、まさに育ち盛りなのだ。差し出された皿を一つ残らず平らげてしまうことを、黎景は誰よりも熟知していた。
料理が運ばれてくるたび、雨昕は分かりやすく瞳を輝かせ、無言で黎景の顔を覗き込む。
「食べていい?」と問うその視線に、黎景が「勿論」と頷けば、彼女は清々しいほどの食べっぷりを見せた。
これほどの量を一体どこに収めているのか。
小柄なまま、無駄な肉ひとつ付かない彼女の体躯は、食らった端からすべてを「武」という名の熱量に変えているかのようだった。
「雲漢の君主、楊仙殿といえば名家の御仁だというのに……君は無碍に断ったそうだね?」
「何言ってるんですか。その楊家のご当主様の面前で、『名前負けしたその人徳では先が長くない』なんて言った人が」
「おや、その御仁はよほど先見の明がお有りのようだ」
「……鏡を持ってきましょうか?」
かつて黎景がやらかした数々の暴言を肴に、軽口を叩き合う二人。
その光景はどこまでも穏やかだった。
雨昕が一心不乱に箸を動かす傍らで、黎景は静かに酒を煽り、たまに思い出したように料理へ手を伸ばす。
黎景は知っていた。彼女が舌鼓を打つたびに輝かせるその瞳を眺めるだけで、己の胸が満たされることを。
その眼差しは、もはや保護者のそれであった。
かつての放蕩者を知る者が今の黎景を見れば、腰を抜かして驚くに違いない。
それほどまでに、彼は雨昕という“猛獣”を慈しんでいた。
思えば、預かったばかりの彼女は、文字通り野生児そのものだった。
文霽から教わった基礎さえ危うかった少女が、今や天下のど真ん中へ出しても恥ずかしくない存在になった。
黎景にとって、それは一兵卒を育てるのとは訳が違う、感慨深い歳月だった。
雨昕にとっても、黎景は今や兄同然の存在だ。
以前の彼は、ただただ耐えることを強いる“壁”でしかなかったのに、不思議な縁だと思う。
一刻も早く文霽のもとへ駆け出したい自分を、彼は何度も、冷徹に阻んだ。
武力だけでは何も成せない。欲速なれば則ち達せず。
その教えを、何度歯噛みしながら呑み込んだだろう。
だが、学ぶたびに思い知らされた。
ただ走るだけでは、愛する一人すら救えないのだという残酷な真実を。
一年が過ぎ、焦燥で心が擦り切れる寸前、黎景は「霽は生きている」とだけ告げた。
詳細は分からずとも、その事実だけで雨昕は踏み止まることができた。
以来、彼女はさらに意欲的に教えを吸収し続けた。
それからさらに四年――二人の絆が師弟という言葉に収まらないのは、何度もぶつかり、認め合い、同じ月日を積み重ねてきたからに他ならない。
文霽を思えば、こうして師と穏やかな時間を過ごすことに後ろめたさはある。
けれど、名実ともに「力」を得た今、あとは玄欒の命を待つばかり。
だからこそ、彼女にはどこの馬の骨とも知れぬ君主に仕える時間など、一刻たりとも残されていなかった。
食後の帰り道、今度は自分の足で黎景の隣を歩く。
道すがら、黎景は最後まで「自分を呼び戻した理由」を明かさなかった。
むしろ、雨昕が即答で断ると知りながら「玄欒殿に仕える気はないか」などと、茶化すような問いを投げる始末だ。
それでも、雨昕は理由を問い質さなかった。
全幅の信頼を寄せる師の判断に、疑いを挟む余地などないからだ。
それが危うい依存なのか、究極の信頼なのか。
答えの出ないまま、雨昕にとっての束の間の安息が、夜の街へと溶けていった。
雨昕が帰還して数日が過ぎた頃。
自邸での夕食時、黎景は向かい合って座る弟子へ、ついにその言葉を切り出した。
「笄礼を執り行う。……今の君には、必要な儀式だ」
黎景はいつになく眉間に深い皺を寄せていた。
以前から玄欒より打診はあった。
だが黎景は、彼女の正確な年齢が不明であることを理由に、「まだ早い」と頑なに断り続けてきたのだ。
しかし、古都・雲漢の君主から“大将軍”の地位を提示されるまでになったという報せ、そして帰還した雨昕の、研ぎ澄まされた佇まい。
それらが、黎景の背中を押した。
痩せた土地と暗い森しかない寒村に生まれ、口減らしに捨てられた雨昕にとって、年齢を数える習慣など無意味だった。
だから、重要だとも思っていなかった。
だが、今の雨昕は黎景に叩き込まれた教養を持っている。
この儀式が持つ「社会的な意味」を、知らないはずがなかった。
それに何より、黎景が自分をようやく「一人前」だと認めたのだ。
雨昕は素直に頷く。
その一点の曇りもない反応に、黎景は少しだけ、寂しそうに笑った。
翌日。
黎景邸の自室で朝早くから女中に叩き起こされ、洗髪され、借りてきた猫のように縮こまっていた雨昕だったが、黎景邸の異変に、今度は目を白黒させた。
絢爛豪華な装飾品、祝いの菓子、そして山のような果物。
黎景邸の広間を埋め尽くさんばかりの贈り物の山に、雨昕は怯えだした。
「やれやれ……」
黎景が頭を抱える。
贈り主は、他ならぬ玄欒だ。
装飾品は前々から用意していたのだろうが、わざわざ旬の果物まで取り寄せるとは。
衡寂恒や衡迅燿からも、彼ららしい実用的な祝いが届いていた。
雨昕が思っている以上に、周囲は彼女の元服を待ち望んでいたのだ。
玄欒の書簡には、力強い文字でこう綴られていた。
『元服の儀、賀す。以後、子の礼を以て遇さず』
その意味を、雨昕は頭を抱える黎景に問いかける。
「……殿はね、雨昕をもう子供としては扱わないと言っているんだ」
「!」
これまで雨昕が認められていたのは、その『腕力』だけ。
けれどこれからは、雨昕の『言葉』や『責任』も大人として扱う、という意味だ。
黎景はどこか突き放すような、それでいて試すような瞳で雨昕を見た。
かつて瑞陽の屋敷で、玄欒は雨昕を先鋒に任せると約束した。
あの時の玄欒は、雨昕を「幼く危うい刃」として評価していたに過ぎない。
だが、これからは違う。
一人の自立した大人として、その一挙手一投足に、子供という言い訳を許さない重荷を背負わせるという宣告だ。
そんな黎景の言葉に、けれど雨昕は顔を綻ばせた。
大人として扱われる。
それは、文霽を救い出すために屈辱を堪え忍んできた彼女にとって、何よりの勲章だった。
これからは「子供だから」という理由で、戦列から外されることも、無碍にされることもないのだ。
黎景は無意識に、いつものように雨昕の頭へ手を伸ばしかけ――ふと、止めた。
その仕草は、もはや“女性”に対して許されるものではない。
宙に残った手のやり場に困り、彼はわざとらしく手を打った。
「ああ、そうだ。着替えておいで」
差し出されたのは、この日のために誂えた、白に青の縁取りが清冽な深衣だった。
雨昕は目を輝かせてそれを受け取ると、小走りに自室へと向かった。
それから間もなく、女中に導かれて現れた雨昕を目にした途端――。
数多の修羅場を潜り、女遊びも酒も嗜む大胆不敵な不良で鬼才と恐れられる軍師・黎景は、息を呑んだ。
いつもならば気軽に出てくる軽口も、皮肉も、すべてが喉の奥で絡まり、感嘆の息だけが漏れる。
子の成長を喜ぶ親の気持ちとは、こうも尊いものなのか。
そんな心情を隠し平静を装うことに全神経を集中させ、彼は雨昕を椅子へと誘った。
その背後に立ち、櫛を受け取る。
真っ白に色の抜けた、さらさらとした髪を掬い上げる。
指の間をすり抜けていく、子供特有の柔らかい感触。
黎景は胸の奥で、激しい動揺を覚えていた。
早まったのではないか。
そう思ってしまう自分が、心のどこかでまだ、彼女を“守るべき子供”として囲い込もうと足掻いていることに気づいたからだ。
この日がいつか来ることを、抗いながらも理解していた。
だから、昨日の今日で儀式を執り行うための準備が出来ていたというのに。
贈り物の山を小癪に思うのは、玄欒ならばそうするだろうと分かっていながら、大袈裟な物品の数々に埋もれる雨昕を子供扱いしていたにすぎない。
玄欒は、違う。
それが何より――。
沸き立つ感情を、黎景は胸の内にしまい込んだ。
もはや引き返せない。
雨昕自身が、前を向いて座っている。
意を決したように、髪に櫛を入れた。
雨昕は緊張のあまり、両肩を強張らせ両腕を真っ直ぐに伸ばして、膝の上に置いた拳を白く染めている。
その初々しさに、黎景の口元が自然と緩んだ。
器用に、だが壊れ物を扱うように丁寧に、髪を結い上げていく。
最後に取り出したのは、梓の木を磨き上げた、実戦向きの短い笄だった。
元服を意味する物でありながら、女性らしさはあまりない。
飾りといえるのは、髪に隠れる位置に彫られた祈りのような蝶紋と、微かな青みを帯びた白玉だけ。
――雨昕の髪に、こうして触れるのはこれが最後かもしれない。
その柔らかな感触を指先に刻み込むように一拍置き、黎景は静かに、結い髪へと笄を挿し入れた。
「……うん。綺麗だ」
黎景は、雨昕をよく褒めた。
けれどそれは、学ぶ姿勢や覚えの早さといった“能力”に対してであって、外見に触れられたことなど一度もない。
まして、雨昕は戦場で傷だらけになり、泥にまみれて生きてきた貧相な娘だという自覚がある。
だから。
いつもより少しだけ熱を帯びた声で贈られたその言葉が、結い上げた髪に向けられたものなのか、それとも、自分という存在に向けられたものなのか。
雨昕には、すぐには判断がつかなかった。
一拍、二拍。
言葉が胸の奥で転がり、鏡に映る黎景の視線が自分に向けられていることに気付いて、ようやく意味が追いついた。
その瞬間、頬の奥がじんわりと熱くなる。
その熱は瞬く間に耳も首筋までも赤く染め上げ、雨昕は蚊の鳴くような声で「ありがとう」と告げるのが精一杯だった。
もじもじと、いつもの威勢を忘れて俯く雨昕。
そんな愛弟子を見下ろし、黎景はゆっくりと、一歩――決定的な距離を取った。
「これで……貴女は、もう大人だ」
黎景はこれまで、彼女を「雨昕」か「君」と呼んできた。
そこには確かに、年の離れた妹を慈しむような親愛があった。
だからこそ、雨昕はその“呼び方”の変化に、すぐに気づいた。
――気づいて、しまった。
その一歩が、その声が、二度と元の場所には戻らないことを。
そう悟った瞬間が、感情の分水嶺だった。
雨昕は勢いよく立ち上がり、振り返る。
真っ赤な顔で、不安に瞳を揺らしながら、黎景の胸に縋り付いた。
いつもの「突撃」とは比べるべくもない、重みのない衝撃。
黎景はそれをしっかりと受け止めながらも――しかし、その腕を回すことはなかった。
「雨昕。離れなさい。……それはもう、やめるべきだ」
「っ……」
なんで、と言いかけた。
いつもなら、受け止めてくれた。
笑って、頭を撫でてくれた。
こんな氷のような声で、距離を諭したりはしなかった。
その時になって、雨昕はついに思い知った。
“大人として扱われる”という言葉の、本当の代償を。
生家を捨ててから、誰にも甘えず一人で生きてきたつもりだった。――けれど、それはなんて独りよがりな勘違いだったのか。
人と関われば関わるほど、自分は大人たちに守られ、庇護されてきたのだ。
それを分からせるために、黎景は今日、この儀式を行った。
ならばもう、二度と縋り付いてはならない人なのだ。
「私は貴女に、五年以上の歳月を費やした。これからも、貴女の助けになることは惜しまない。……けれど。向上心なく怠惰に過ごすことも、思考を放棄する弱さも、一切許さない」
「そ、れは……。思遠様が、玄欒様の軍師だから……ですか?」
「……そうだ」
これまでの日々は、黎景の無償の優しさなどではなかった。
それは最初から知っていたはずだ。
黎景が雨昕を“駒”として利用しようとしたように、雨昕もまた、彼を“力”として利用しようと決めた。
そこそれが始まりだったではないか。
なのに、どうしてこんなにも寂しいのか。
師は正しい。黎景が言うのなら、それが世界の理なのだ。
雨昕は、指先から血の気が引くほど強く拳を握りしめた。
そして――以前黎景がしてくれたように、けれど、今度は自らの意志で、その拳を開いた。
ゆっくりと、黎景から離れる。
軽く握った右手を左手で覆い、深く、深く、頭を下げた。
黎景は、雨昕の足元に滴り落ちた透明な雫を、見ないことに決めた。
これは今生の別れではない。大切な人を失ったわけでもない。
だから、悲しむ必要なんて、どこにもないはずなのに。
それでも。
今のままではいられないと線を引かれたことが、これほどまでに痛いのは――きっと、「失ったわけではない」からだ。
黎景の想いの一端に触れ、受け止めきれなかった感情が胸から溢れ出す。
頬を伝う温い感触を拭わぬまま、雨昕は顔を上げた。
それを見た黎景は、満足そうに、残酷なほど穏やかに笑う。
倣うように――否、そうする以外に術がなくて。
雨昕もまた、歪なほどに無理な笑顔を形作った。
雨昕が「大人」になることの代償を噛み締めていた、その時だった。
静寂を裂くように、黎景邸の玄関がにわかに騒がしくなる。
無遠慮で、それでいて迷いのない足音が部屋へと近づいてきた。
「……殿」
「玄欒様……!」
入ってくるなり「邪魔をするぞ」と、本心か分からぬほど淡々とした声で言い放ち、玄欒は跪こうとした二人を片手で制した。
「雨昕を寿ぎに寄ったが……」
そこで言葉を切り、玄欒は一度、雨昕の顔を凝視した。
「……うむ」
主君自らの御成に、驚きで涙も引っ込んだ雨昕は目を丸くする。
贈り物の礼を伸べなければ。そう気付いて口を開き掛けるが、玄欒が彼女の前に立つと、躊躇いなく手を伸ばした。
その手を払うこともせず、雨昕は思わず口も目も閉じていた。
そして玄欒の硬い親指の腹が、少し荒っぽく、雨昕の頬に残る涙の痕を拭った。
驚きに固まる雨昕を余所に、黎景へと向き直る玄欒は、「大義である」とだけ告げる。
黎景はその言葉の重みを、誰よりも理解している。
彼は何も言わず、静かに深く一礼した。
「雨昕よ。元服の祝いとは別に、お前に話がある」
「は、い……」
「朔原へ行く。準備せよ」
涙は、完全に干上がった。
恐る恐る瞼を持ち上げた雨昕だったが、玄欒の言葉を受けた瞬間、雨昕の瞳孔が鋭く収縮し、その体躯から只ならぬ――殺気混じりの気配が溢れ出した。
つい先ほどまでの百面相はどこへやら。
その場にいたのは、抜けば瞬く間に命を刈り取るであろう、研ぎ澄まされた一振りの“刃”だった。
玄欒は、雨昕がこの命を断らないと確信していた。大義名分を説く必要すら、彼にはなかった。
なぜなら、彼女がそれを断るはずがないのだから。
「お前には寒戎共を黙らせ、寒戎王・宋武筮への道を拓いてもらう。――出来るな」
「……はい」
雨昕が即答した理由。
それは、彼女が五年以上も待ち望んだ、文霽へと至る道そのものだったからだ。
そのために、彼女は黎景の理不尽なまでの教えに耐え抜いた。
そのために、本能が否定しながらも玄欒の庇護から逃げなかった。
絶望に突き落とされ、この国を乱してでも駆け出そうとしたあの日。
雨昕は、あの時の泥を啜るような苦い想いを、今も鮮明に思い出すことができる。
雨昕の短い返答と、空気を震わせるような緊張感。
なるほど、腰の重い雲漢の君主に“大将軍”の座を提示させるだけのことはある。
玄欒もまた、彼女の成長を認めざるを得なかった。
そこにはもう、泣きじゃくるのを堪えていた子供の姿は、微塵も残っていない。
黎景は、その光景を複雑な表情で見守っていた。
一方の玄欒は、用件は済んだと言わんばかりに、訪れた時と同じ速さで踵を返した。
嵐のような主君の背と、静かに殺気を研ぎ澄ます弟子の横顔を、黎景はただ眺めていた。
さっきまで自分の胸に縋っていた少女は、もうどこにもいない。
(……やはり、早すぎたな)
黎景は心の中で、苦い溜息を吐いた。
彼女を「大人」にしたのは自分だが、その引き金を引いたのは自分ではなかったのだと。
「――もう一つ、お前に贈るものがあったな」
部屋を出る直前、玄欒がふと思い出したように足を止めた。
彼は控えていた女中に、筆と紙を用意するよう短く命じる。
あれだけの贈り物を叩きつけておいて、この上まだ何を与えるというのか。
雨昕は、期待よりも警戒に近い感情で、わずかに肩を震わせた。
机に紙が広げられ、玄欒の手によって一気に筆が走る。
墨の香りが立ち込めるなか、そこにたった一文字、黒々と力強い文字が刻まれた。
『鵑』
その紙を手渡され、雨昕はそこに宿る意味を凝視した。
「け、ん……?」
「夜に鳴き、血を吐き、なおも鳴き続ける鳥だ。……だが、それは同時に『春を告げる鳥』でもある。お前の字に相応しかろう」
雨昕は口の中で、もう一度その文字をなぞった。
可愛げなど塵ほどもない、重々しく、それでいて悲壮な決意を強いる名。
無意識のうちに指先に力が入り、紙の端に皺が寄る。
雨昕はそっと目を閉じた。
文霽の名を聞いた瞬間から、内側で暴れ狂う焔のような感情。
それを強引に押し殺し、静寂を導き出す。
やがて、長い睫毛が震え、瞼が持ち上げられた。
その菖蒲色の双眸は、逃げることなく、真っ直ぐに玄欒を射抜いた。
「……字『鵑』。謹んで拝受いたします」
「ありがとうございます」とは言わなかった。
頭を下げることもせず、声と瞳に込めたのは、明らかな不遜。
これは、彼女が許される最後の「子供の我が儘」だった。
どうせなら、もう少し愛らしい名でも良かったのではないか――自分には似合わないことなど、誰よりも分かっていたとしても。
雨昕のそんな無言の抵抗は、黎景には痛いほど伝わっていた。
けれど、彼はもう彼女を諫めることはしなかった。
そしてまた、玄欒にもそれは届いていただろう。
厳しい主君の口角が、ほんのわずかだけ、満足げに上がったように見えた。
キムチ作った。味見したら口の中が痛くなった(辛さ耐性マイナス)。なんで家族はこれ食べれるのか不思議。




