1-5『主』
天瑞最北端の村――塞北。
そこは大昔は山岳向こうの遊牧民族からの侵攻を防ぐ役割を持った要塞だった。
けれど、今はその役目を殆ど終えており、古い土嚢が崩れ、朽ちた柵が雪に埋もれている。後は殆ど使われていないだろう狼煙台や見張り台があるだけの、最低限の要塞としての体裁を為しているのみだった。
それでも、この北部の過酷な環境下に於いては人の集まる地であり、この土地に生まれた農民以外にも、行商や傷痍兵、そして難民が暮らしていた。
さて、雨昕は斥候にしては向かない見た目をしている。総白髪に珍しい菖蒲色の瞳。これはあまりにも目立ち過ぎる。
しかし今の彼女の姿は、英雄と名高い“羅雨昕”とは、かけ離れていた。
極寒の地だというのに、貧相な手足も隠せない襤褸を纏い、脂と灰で傷んだボサボサの白髪を結わず、総髪のまま――黒い布で目元を隠し、常に俯き杖を頼りに蹌踉めき進む少女。
市井の英雄譚では常勝・無敗と謳われる羅雨昕といえど、鍛練で怪我することも有れば、戦場では幾人もの名だたる将兵の刃と対峙してきた。
雨昕は異常に回復が早く、傷もすぐに塞がる。それでも、夥しい数の傷跡だけは消えなかった。
その痛々しい傷跡が、襤褸の隙間から覗く。
今の雨昕は、難民の中でもお荷物として置いていかれた、盲目の少女のそれとしか見えなかった。
あとは雨昕自身が一切声を出さないだけだ。これで人々は、この哀れな少女を痛ましく思っても、決して関わろうとはしない。こんなお荷物を誰も面倒を見たくはない――自分一人でも、生きていくのに必死だというのに、関わるべきではないのだ。
これは黎景の教えだ。
元々、総髪と目元を隠し、話さない、という事は雨昕もしていたが、簡素な服ではなく襤褸を纏う事で、否応なしに傷が目に止まる。その存在の厄介さゆえ、人々は見て見ぬふりをするだろう、と。
雨昕は年頃の娘ではあるが、手足を見せる恥よりも、生きる事、戦う事が優先。何の迷いなく、師の教えを全うした。
この塞北のちにあっても、他人の態度は大抵同じだ。
雨昕は杖で地面を確かめながら、聞こえてくる哀れみと嫌悪の声を掻き分けて進んだ。
分かっていたとはいえ今回、雨昕を以てしても過酷だった。
もう春も終わりだというのに、寒さが雨昕の肌を刺し、じわじわと体力を削っていく。指先の感覚が薄れ、杖を握る力だけが頼りだった。
襤褸の上に穴の空いた薄っぺらい外套を纏い、胸元で強く握り締め、あながち演技でもなく震えながら村を歩いた。
暫くして雨昕は、路地裏の地べたに直接腰を下ろした。直ぐ向こうには、民家が並んでいる。
要塞に近付けば人が居らず、民家に近過ぎれば住民に疎まれる。その境界線を居場所としたのだ。
極寒のこの地は、どんよりと日差しも期待できない天候にも関わらず、通りにはそれなりに往来がある。
きっとこれが普通なのだろう。――こんな哀れな少女を、一瞥して通り過ぎる事すらも。
膝を抱えて俯き、体力を温存する。そして通り過ぎる人々の会話を聞き逃さぬよう、静かに耳を澄まして過ごした。
さて、日程としてはあと二日程で本隊が着くだろう。過酷なこの任務も、いよいよ大詰めだ。
この数日で、雨昕は多くの情報を得ていた。
意外なことに、雨昕に声を掛ける者が居たのだ。彼らは、厚手の外套や干し肉の欠片を寄越した。衣類も食料も、こんな辺境では貴重な筈だ。
しかし彼らは、ぶっきらぼうに言った。
「もうすぐ、宋武筮様がやってくる」
そうすれば、きっと雨昕も恵みに肖れるだろう、と。
此処は、曲がりなりにも天瑞だ。何故、朔原の異民族である宋武筮が敬われ、恵みを齎すというのだろう。だが、塞北の中では公然の事実のように、人々は口にしていた。
数々の噂を纏めると、どうやら宋武筮はこの地に幾度か施しているらしい。以前に、大量の革や布、食料の他に、丸々と肥えた子羊を一頭与えたという。
「官僚共はこんな事はすまい」と衝撃を与え、「また来る」と言うのだから、塞北の人々の人心を得て、今や彼らは何の疑いもなく、次の施しを座して待っているのだ。
宋武筮についての人となりについても、おおよそ分かった。どうやら女子供に優しく、また傷病者に薬草を渡しただとか、流民を寒戎に受け入れただとか。その流民に至っては、連れて行かれたその次の施しの際には同行し、寒戎の素晴らしさを説いた、という眉唾物な話まで流れていた。余談ではあるが、筋骨逞しい色男なのだそうだ。年増の女性達が囃していた。
最近は新たに子が誕生したようだ。愛妻家らしく、行商から装飾品――天瑞では一般的な女性への贈り物を特に好み、土産として持ち帰っているという。
寒戎について。ここは残念ながら目ぼしい情報は得られなかった。精々、伝え聞いていた「黒々とした駿馬を駆る部族」というのは本当だった、というくらいか。
それでも、まずまずの成果だ。あとは、哀れな少女が噂を信じ、天瑞と朔原を分ける山岳·白朔嶺へ向かった、として退場するだけだ。
雲に遮られ星明かりも届かない闇夜、本隊に繋ぐ斥候へ、その場で書き記した書簡を渡す。翌朝、早朝ながら敢えて人目に付くように、杖を頼りに躓きながらも塞北を発った。
追い掛けてまで彼女を止める者は居なかったが、白朔嶺の麓で会った老人に、唯一引き返すように言われた。
けれど盲目の少女は頑なに首を横に振り、ふらつきながら登山道に消えて行った。
そうして完全に人目が無くなると、盲目の傷付いた少女は、弱々しく引き摺っていた足で真っ直ぐに立ち、酷く傷んだ髪を適当に結い上げ、襤褸を脱ぎ捨てると、繋ぎの斥候から渡された服に着替えた。杖を棍に持ち替える。此処からは、いつ敵と遭遇してもおかしくはなかった。
白朔嶺の山道はなだらか、とは言い難く、急勾配が各所にあった。大隊が必ず足を止める事になるだろう。襲撃を受けるなら、恐らくは此処だ。
寒戎――少なくとも宋武筮は、何度か白朔嶺を越えて塞北に至っている。となれば、この要所を見逃す筈もあるまい。
雨昕は進んでは振り返り、要所を見渡せる場所を探す。とても道とは言えない岩場に足を掛け、身軽な雨昕はするすると高所に登り、幾つかの罠を見付けた。
迂闊にその罠を作動させないよう、細心の注意を払いながら、他にもないかを探っていく。
そういえば、麓で会った老人が面白い――厄介な情報を教えてくれた。
寒戎は目が良いのだそうだ。なんでも、見通しの良い場所なら二里先の動きを見逃さないという。更に優れた者だと、三里離れた騎馬の数を数え違わぬのだ、と言っていた。だから、せめて彼らに助けられる幸運を、と。
冗談ではない、と思う。それが事実なら、この罠一つでも作動したなら、白朔嶺に入って直ぐにでも寒戎らに知られる事だろう。
今この瞬間、見られてる可能性も――いいや、それは考え難い。
これほど険しい山に、人を常駐させる意味は薄い。だが、意味が薄い事と、やらない事は別だ。定期的に見張りが居たとして不思議はない。
雨昕は警戒を解かずに先に進む。
それにしても、白朔嶺という場所は斥候泣かせだ。嫌がらせと言ってもいい。
先にも言及した急勾配を始め、尾根が細く蛇行しており、岩場と切り立った崖が多い。その所為で、高所に登ったからとて全容は見えず、仮に見渡せたとしても、足場が悪く背後に不安が残る。
加えて、寒戎が設置したであろう、罠だ。一見すると安定していそうな大岩の下に小石や丸太を挟んで、一定以上の重さが加われば崩落を起こさせる仕掛けや、風の通り道に幾つも吊り下げた、動物の骨や角。中に穴を空けてあり、強風が吹くとまるで声にも聞こえる音を発して紛らわしい事この上ない。
特に悪質なのは、獣道に臓物――恐らく、狩猟した動物の内臓をばら蒔いているのだ。すると、それを狙った猛禽類が獣道に群れる。迂闊に近付けば大型の猛禽類に襲われ、威嚇しようものなら騒いだ猛禽が寒戎に異常を告げてしまう。
だからだろう。獣道や岩棚には、食い散らかされた骨や羽毛が点在しており、それが罠なのか、自然の結果なのか、即座には判断が付かない。――中には、天瑞風の履き物や、布の切れ端も散らばっており、嫌な想像をさせる。
厄介なのは、この臓物が新しいとは言い難い事だ。だが羽毛の散り方や糞の量から察するに、餌が無くとも、この辺りは猛禽の巡回路になってしまっているのだろう。
危険な道を前にした時、斥候はどうするか。このまま進んでも良いが、会敵しては厄介だ。何より此処で得た情報を本隊に届けられなければ意味がない。
ならば、ここで地の利を相手に握らせたまま、それを報告し、本隊と並走するしかない。
だが今、岩棚の周囲に猛禽が点々と陣取っているこの場に居るのは、幼い頃から戦いに身を置き、鬼才の軍師が育てた羅雨昕だ。
雨昕は今一度、盲目を装う為の黒い布で目元を隠す。そして、棍の石突きを、一定の間隔で地に打ち付けながら、しかし足音は発てずに歩を進める。
強くもなく、弱くもない――だが確実に「此処を通るぞ」と告げる、乾いた音。
岩棚の上で、羽毛の擦れる音がした。岩棚の気配が動かないが、頭上には旋回している。猛禽独特の匂いが濃くなり、鋭い視線が全方位から向けられていると分かる。
けれども雨昕は足を止めず、棍の石突きを地に落とすのを止めない。音を変えず、間を置き、同じ調子で。
しばらくして、羽音が一度だけ鳴った――。
玄欒率いる大軍が塞北に到着すると、村人は官軍に冷めた視線を向けていた。
成る程、と黎景は呟く。
「ここは“天瑞であって天瑞ではない”、か。……見張りは、村から出ようとする者を捕らえよ」
雨昕からの書簡で知っていたとはいえ、現状は想定していた最悪の部類だった。
拱手して去っていく兵を見送った黎景は、眉間に皺を寄せたまま書簡に目を落とす玄欒に近付く。
「宋武筮は切れ者のようですね」
「……うむ。村人らは、見張りの隙をつき、寒戎共に報せようとするであろうな」
「ええ、時間の問題かと。……妻子を人質に取れれば、最良なのですが」
さらりとえげつない策を口にした黎景に言及する事もなく、玄欒は眉間に皺を刻んだまま書簡を丸めた。
斥候である雨昕とは、明日の朝、白朔嶺で合流する手筈だ。そこで山の状態を確認してから、策を講じて進まねばならない。
塞北から見上げた白朔嶺は、険しくも美しい山に見える。噂には帰らずの山、龍が棲むだとか云われているが――あながち、嘘ではないのかもしれない。そう思わせる程には、雄大な自然そのものだった。
夜半にもなると、案の定、塞北から寒戎へ報せを出そうと村人が動いた。だが、予め想定していれば対策は容易だ。
村を警備する名目で兵を巡回させ、村人には、土地勘のある――数日なりとも、この地で過ごした者しか分からない路地を通らせればいい。
門番が捕らえた村人は、口汚く官軍を罵った。
報せを受けて自ら村人を問い詰めた玄欒は、村人に罰こそ与えたが、殺しはしなかった。
代わりに、この地に必要な物を述べさせると、それらを与えると公言した。
「そんな口約束を誰が信じるんだ!」
そう言った村人の声に、様子を伺っていた他の村人達も懐疑的な眼差しを送っていた。
塞北は土地も人の心も頑なで冷えきっている。それでも、ここは天瑞。帝の治める地を荒らす事は許されない。
玄欒は、兵達に持ってきた積み荷の荷解きを急がせた。
半信半疑の村人ではあったが、玄欒は持ってきた荷が種籾と農具、保存食を前に固唾を飲んで見守る。
大量の荷を村人に見せ付けた玄欒は、それらを貸すと宣言した。
村人の誰かが、宋武筮は食料でも何でもくれたのに、と言ったのを、兵は咎めようとした。そんな兵を玄欒は制した。
「羊と山羊の群れを預ける。併せて、役人ではない牧の智者を此処に置こう。生き物を育み、増やし、それを糧とし、この地で生きる術を知る者だ」
唖然とした村人を他所に、玄欒はなめし道具や毛織の簡易織機までも持ち込んでいた全てを前に威風堂々と言い放った。
更には市の公認札まで与えると言うのだから、村人達は舌を巻いた。
これは、座して施しを待つのではなく、自分達でこの地を興すための改革だ。この地の傷病者や、流民、行商など定着しない者を逆手に取るような対応だった。そういった者すら取り込み、ここで生きる事を最善とさせるのだ。
塞北は、元要塞だ。今は体裁だけだが、玄欒の思惑が上手く行けば、嘗ての役目を再び全うするだろう。その為にはまず、人心が得られなければ思惑は実を結ばない。
更に、玄欒は告げる。
「この地の税を、三年免除とする。それまでに成果が無ければ貸与した物は悉く回収するが、功を奏すならば家畜らは全てこの地に寄付しよう」
寒空の下、捕らえられた村人を案じ、様子を伺っていた村人達が、一人、また一人と姿を表す。そして地に膝を着くと、玄欒に向けて深く頭を下げたのだ。
この夜、塞北という村の主が誰であるか、誰の目にも明らかになったのだった。
大根と白菜は何しても美味しい。すごいと思う。




