1-4『敵』
嵐の如く去っていった玄欒。その爪痕は、確かに雨昕に刻まれた。
張り詰めていた空気が緩むと――雨昕の腹の虫が鳴いた。それを聞いた黎景は、雨昕の手元を見ながら「おや、もう夜か」と冗談めかして笑った。
つられて雨昕も手元に視線を落とす。玄欒から贈られた紙の文字と、玄欒の言葉を思い出し――からかわれたことに気付いて、顔が熱くなった。
大人への儀式が済んだとて、いきなり変われるものではないと黎景は心得ている。だから少しだけ、いつも通りの空気を出したのは、雨昕の帰る場所を示す為だ。
甘やかしはしない代わりに、いつも通り大量の料理を並べて、雨昕の元服を改めて祝う。
そうしてやっと、雨昕も現実を受け入れられた。
この天瑞国の最北端には山岳地帯が広がり、そこを越えた先に朔原がある。
朔原では異民族同士の争いが絶えないのだそうだ。統一された時代もあったらしいが、それはもう何十年と前の話。
そんな中で、わざわざ山岳地帯を乗り越え天瑞に侵攻するような民族も限られていた。強力な騎馬隊を持つ寒戎は、その筆頭と言えるだろう。
寒戎は数年前、王が代替わりをしたそうだ。現在の寒戎王・宋武筮は若くも知略に長け、即位して直ぐに複数の異民族を纏めたという。
その勢いに乗り、国境の村に何度か被害が出ていた。雨昕も一度だけ、国境防衛に参加したことがある。
けれど雨昕が到着した頃には、既に敵軍は撤収していた。文霽については勿論、寒戎についても何の情報も得られなかった。
けれど、今回は玄欒が動く。大隊を率いての征伐だ。
以前のように寒戎を逃がす訳にはいかない。
その為に雨昕の仕事は、過酷だ。
地形や通行可能性の確認も厳しいものであるが、何より寒戎は警戒心が強い。
行動の監視をするにしても、下手を打てば、多勢に無勢の袋叩きにされ、雨昕だと分からない何かにされる可能性だってあるのだから。
黎景に伴われた太守府の軍議の間。
その端で、雨昕はぽつんと佇んでいた。発言は許されていないが、退席も許されていない。
広い案几の上に、国境一帯を描いた地図が広げられていた。墨で引かれた山脈の線は太く、国境の外側は意図的に空白が多かった。把握できていないという事実が、そのまま置かれている。
「寒戎征伐は勅命だ」
低く、簡潔な玄欒の声が、狭くない部屋に響いた。誰もそれに異を唱える事はない。唱えられる訳もない。
ここに集められた者は全員、既に覚悟を終えていた。
敵は騎馬を主とし、警戒心が強い。正面から当たれば、数の理で勝る玄欒が勝つだろう。けれど、敵も馬鹿正直には当たっては来ない。
もし当たったとしたら、まず間違いなくその場は引くだろう。引いて、また別の場所を荒らすのだ。
地図の端を、玄欒の指が叩く。
「寒戎の拠点を掴む」
一瞬、空気が張り詰めた。
斥候は、前線よりも更に早く、更に前に出る。戻れれば僥倖。戻れずとも情報は残す事が最重要。
今回の征伐で、最重要でありながら――斥候が捨て駒とすら言われているのは、それが理由だった。
誰かが唾を呑む音がした。
今回の最難関として山越えと騎馬対策にばかり目が向くが、そもそもの地の利があちらに有る事が一番の難題だった。
「奴らは散り散りになろうと必ず集結し、報復に手段は問わんだろう。……次の機は待てぬ。確実に叩く」
ちらりと――視線が、自然と一点に集まるのを雨昕は感じていた。名を呼ばれなくとも分かる。
雨昕は小さく頷いた。それこそ、彼女がここに居る理由だから。
黎景は、黙っている。扇を閉じたまま、何も言わない。止めもしないし、労いもしない。雨昕はそれで良かった。
役割と日取りが確認され、軍議は終わる。誰も長居はしなかった。残るのは決定事項だけだった。
「鵑」
雨昕も部屋を出ようかとしたところで、字で呼び止められる。その名で呼ぶのは、まだ一人だけだ。
振り返ると、玄欒が一つの包みを差し出していた。粗い布で包まれた小さな木箱と、封をされた文書。
黎景はまだ残務があるらしく、一緒に帰るには時間があった。
「思遠を待つのだろう。その間に、これを届けてもらおう」
「はい……」
木箱を受け取った瞬間、軽いと感じた。持つのに苦労はしない大きさで、雨昕の足なら直ぐに終わるお使いだ。
けれどその隣、衡迅燿が一瞬だけ目を向いて、表情を変えた。
「殿、それは俺が――」
迅燿は言い掛けて、口を噤んだ。玄欒は雨昕しか見ていなかったのだ。
衡寂恒と衡迅燿は、玄欒と付き合いが長い。あの目には何か考えが有るのだと分かってしまい、それ以上は聞き入れられないと知っていた。
そのまま引いてしまったけれど、雨昕はそんな衡迅燿に何も問わなかった。
むしろ衡迅燿の時間は貴重だからと、雨昕は一礼し、軍議の間を後にした。
残された衡迅燿は、小さく息を吐く。そして玄欒を見て、仕方がないと割り切りながらも呟いた。
「……恨まれますよ」
しっかりと聞こえているだろうに、玄欒は気にも留めない様子で地図を畳んだ。
雨昕が外に出ると、空が高かった。手の中の包みは軽く、文書は薄い。斥候の役目よりも先に、雨昕は使いとして城下から更に外へ出た。手の中のそれが何であるかは、知らないまま。
届け先の城下から程近い里は、昼過ぎだというのに薄暗く感じた。人が少ないからかもしれない。
指定された家の扉を叩くと、中から嗄れた声が聞こえた。勝手に入っていいと家主は言う。
それに従うように扉に手を掛ける。鍵は掛けていなかったようで、すんなりと開いた。
中には、たった一人の老翁が椅子に座って膝を擦っていた。足が悪いのだろう。
「おや?……どなたですか?」
「突然の訪問、失礼します。私は羅雨昕。玄郡丞よりこちらを届けるように承りました」
「ああ……それは……」
老翁は、雨昕の手元の箱を見て肩を揺らした。痛むのだろう足で、立ち上がろうとしたのだ。
それを制すように、雨昕は進み出て老翁の手に木箱をしっかりと手渡した。
老翁は、受け取った木箱を撫でた。
「……大人しい子でね」
嗄れた声で、老翁は何気なくぽつりとそう溢した。
何を言い出したのか、雨昕は分からなかった。けれど老翁は、雨昕を気にすることなく続けた。
「儂の足を、よく温めてくれたよ……」
老翁の呟く声は聞き取りにくいけれど、雨昕の胸を締め付ける。それは雨昕が、ようやくこの使いの意味を理解したからだった。
雨昕がこのまま此処に居るのは、無粋だ。そう思い踵を返すと、老翁が引き留めた。
「羅雨昕様、貴女様はお強い。それでも……人は死ぬのです」
「……」
「……どうか、お気を付けて下さいませ」
老翁は独り言に雨昕を付き合わせた事に謝辞を述べるのと共に、ゆっくりと頭を下げた。
老翁の家を後にして、いつもよりも足取りが重く感じた。
何故ならあの木箱は――。
雨昕は首を振った。雨昕の生まれた村では、施しすら無い事を思えば――。
いや、そうではない。
あの老翁の、優しくて悲しそうな目は、ともすれば黎景と同じなのかもしれないと、気付いてしまった。
だから、黎景の元へ帰る足がこんなにも重いのだろう。
ぼんやりと歩くうち、それでも足の早い雨昕は、日暮れ前の市を通る。
屋台で店主が気軽に雨昕に声を掛けて、その手に串に刺して蒸した粟餅を渡された。
「羅雨昕様にかかれば、悪辣で有名な寒戎の蛮族といえども、あっという間に追い払えるでしょう!お帰りをお待ちしていますよ!」
気軽に向けられた、無責任で、けれど疑いのない期待の眼差し。
文霽さえ無事なら、と思って生きていたけれど――。
好き勝手に背負わされていく物の重さに、足が震えた。そんな物知らないと、逃げたくもなる。
でも――もっと、雨昕のそれよりも遥かに重い物を持った人達が側に居る。あの人達は、怖く、ないのだろうか――。
その気持ちは分からないけれど、それでも、雨昕は拳を握って震えを抑え込んだ。
文霽の為、その人達の為。雨昕は生きて帰るのだと、気持ちを改めた。
それから――雨昕が元服をして、ふた月が経った。
寒戎征伐に向けた支度は滞りなく進み、雨昕は斥候として先駆けを務める事を玄欒に申し出る。玄欒はこれを了承し、幼い日の雨昕との約束を守ったのだった。
雨昕の荷物はいつだって最低限。斥候でも放浪でも変わらない。
けれど、本来不必要な小さな木簡を、いつも行嚢に入れている。
文霽が居なくなったあの日、部屋に落ちていた幼い二人の遊びで使った木簡。
これは、お守りだ。
けれど雨昕を護る為のものではない。今も雨昕と文霽を繋ぐ、想いの拠り所。想いが文霽へ届くように、彼女が生きているようにと――文霽への、祈りの一端。
木簡に綴られた文字は、経年で墨が滲み、繊細な文霽の文字は形が崩れていた。それでも尚、あの頃直接目にした、繊細で整然とした文字を、雨昕は忘れたことはない。
木簡を胸に寄せて握り締め、目を閉じる。
文霽が生きていますように。無事でありますように。
欠かした事のない祈りを捧げ、雨昕の部屋――黎景邸の一室に掲げた、詩を見上げる。
細雨染青衣(細雨が青衣を染め、)
幼影走前陣(幼い影が前線を駆ける。)
非為尊与貴(それは尊さのためでも、地位のためでもなく、)
唯恐我身寒(ただ私が寒くないように。)
雨昕と文霽の始まりの詩。
例えば、文霽が詩を嗜まなければ。
例えば、雨昕が文霽に話し掛けなければ。
きっと今、雨昕はここに居ない。生きていたかどうかも怪しいもので、玄欒や黎景ともここまで関わってはいないだろう。
きっと此処へ戻ってくる。雨昕はそう意を決して、部屋を出る。
部屋の前に、黎景が立っていた。ちょうど話をしに来たのだという。
「私も、殿と一緒に後から合流する。貴女はあくまでも斥候だ。……例え文霽が居なくとも、焦りは禁物だよ。いいね?」
「はい」
一人で先走るな、と釘を刺しに来たようだ。
敵は寒戎だけではないのだから、黎景の心配はもっともだろう。黎景の表情と声を受け止め、雨昕は頷く。
不意に――黎景の腕が伸びて、雨昕の頭を撫でた。
笄礼の儀で線を引かれ、黎景がそれをする事はもう無いと思っていたのに。
無意識の内、体に染み付いた行動みたいに――雨昕は黎景に抱き付き、その服を握り締めていた。
紙と墨の匂い。微かに、酒精の香り。衣に染み付いた香の乾いた残り香。そして、よく知る温もり。
――こんなにも温かかっただろうか。触れられなくなって、まだほんのふた月しか経っていない。もっと長い時間、離れていた事だってあった筈なのに。
こんなに短い時間の間に、そんなことすら分からなくなるなんて思いもしなかった。
「……子供扱いは、しないんじゃ、なかったんですか?」
「そうだね。けど……可愛い弟子を死地に送る身にも、なって欲しい」
「……」
雨昕の無粋な言葉は、そうでも言えば諌めてくれるかもしれないと思った。そうしたら、いつも通りに皮肉でも返して、見送ってくれるんじゃないか、なんて思ったのに。
だってそうでもしないと、立っていられなくなる気がした。鼻の奥が痛んで、息が吸えないから。
文霽と、黎景。初めて出来た友人と、兄とまで慕う師。
二人と二度と会えない可能性は、再三聞かされた。
敵である寒戎は、それだけ精強な武装民族だと嫌になる程聞いてきたから。
その上、過酷な山岳地帯を越えなければいけない。生きて帰れる保証なんて、無い。
それでも行くと決めたのは雨昕だ。
きっと文霽は、あの頃と同じように震えている。きっと、雨昕を待ってる。そんな気がしてならない。
だからここで立ち止まり、文霽を諦めるなんて出来ない。
揺らぎそうな心を振り切るように、ゆっくりと息を吸い込んで、黎景の服を放した。
――黎景の手は、まだ離れない。
雨昕の知る黎景は、どんな時も済ました顔をしている。何でも知っていて、どんな事態も見越したように動く。
そんな人がどうして、何をそんなに迷っているのだろう。何をどれだけ学んでも、雨昕は知らない事ばかりだ。
今の黎景には何を言ったとしても、的外れになる気がした。こんなにも親しい筈なのに。
「……必ず、帰っておいで」
漸く、黎景が口を開いた。
雨昕は何も言えないまま、小さく頷く。それしか、許されないと思った。それ以外はきっと、何をしても雨昕が雨昕ではなくなるような、はっきりとしない不安があった。
黎景の手が雨昕の髪を滑り、そのまま黎景が離れる。雨昕が見上げた黎景の顔には、少しだけ寂しそうな微笑が浮かんでいた。その顔にどうしてか、認めたくない程に卑しくも、不安が消えていく。
そんな顔をして欲しい訳はないのに。けれど、そうさせているのは雨昕自身だと、今は分かる。
だから『 』などと――間違っても、そんな弱さを声にしないよう、言葉を呑み込んだ。
そうして玄関に向かう雨昕の後ろ、いつの間にか見慣れた笑顔を浮かべた黎景がそこで立ち止まる。黎景も征伐に参戦するとはいえ、軍師の出発は後発だ。
家を出て一度だけ、雨昕は振り返って、黎景に向けて大きく手を振った。
それは、別れではなく――
「行ってきます」
次も絶対に帰ってくる。そしてまた、あの飯店でお腹いっぱい食べるんだ。今度は、文霽も一緒に。
そんな決意を胸に、疾風迅雷と讃えられる足で走り出す。
黎景の心配は知っていても、雨昕は自分を弱いとは思っていないから――迷いなく、走る。
こうして、後の世にまで凄絶さを物語る、寒戎征伐は始まった。
ベロの裏側に口内炎が出来た。痛い。
でも鮭は美味しい。




