1-29『牙』
「さて。本日最後の大仕事だぞ、鵑殿」
そう言って少し意地悪く笑う大商人。
扉が開いた瞬間、酒と香辛料と人いきれが、熱を持って流れ出した。
店に入るなり、給仕は李峻の顔を見て駆け寄り、二階へと案内するため、一歩前を進んでいく。
李峻の背に続きながら、鵑は辺りに視線を巡らせた。
二階のほとんどを占める広間は貸し切られ、仕切りで区切られた、一際賑やかな一角にはすでに酒壺が並び、店の者が新しい杯を配っている。
その賑わいから少し離れた場所に、僅かに雰囲気の違う者たちが紛れていた。
酒に手を付けるでもなく、談笑に混じるでもなく、ただ奥の卓へ冷ややかな視線を向けている。
それは、牢へ送られる者に向けられる目だ。
つい先日、鵑自身もその視線の渦中にあったのだから間違えようがない。
不意に、賑やかな席にいた者たちが、鵑を見つける。
彼らは、席が音を立てて乱れるのも構わず立ち上がった。
「え……?」
そこに居たのは、呂塙をはじめとした水賊たちだった。
傷の重い者を除いたのだろう。
それでも、捕縛された四十余名のうち半数以上がこの場にいるらしく、棍を持たない鵑には、人数だけで十分な圧だった。
見たところ、彼らの腰や手元に刃物はないが、鵑は自然と身構えていた。
しかし、呂塙を先頭に、男たちは一斉に頭を下げた。
拱手する者、しない者。作法もなければ、角度も所作もばらばら。
だが、ふざけた者はいなかった。
呆気にとられる鵑の横で、李峻が低く笑った。
「今宵の酒宴は、鵑殿の名で設けたものです」
「私?」
李峻は涼しい顔で「今日の私は、貴女の財布だ」と言って恭しく拱手し、わざとらしく一歩退いた。
「彼らは州牧府預かり。ですが、当面は鵑殿の差配に置かれます。ならば、この酒も鵑殿の名目とするのが筋というもの」
鵑は目を丸くして、李峻と呂塙たちを交互に見た。
確かに酒の約束はしたが、まだ李峻に頼んだ覚えはない。
それなのに何が起きているのかと、状況を呑み込めないまま立ち尽くしていると、大股で近付いてきた呂塙が目の前に立った。
彼は失ったものを示すように、先の無い右腕を持ち上げ、鵑に向けた。
「いいか。三年前も、蘆湾でも、お前に仲間を殺された事実は消えねえ」
呂塙は眉間の皺を深くして、鵑を見た。
その目に憎しみが残っているのを見付け、けれど視線を逸らさずに受け止める。
「……そうは言っても、今生きている者の行く先を考えれば、お前に賭けるしかない。だから俺らはお前に付いてやる。だがな、お前が腑抜けたらそれまでだ」
「えっと……?」
「精々、“目的地”とやらまで、気張って飛ぶこったな、大将」
そう言って、呂塙――“羅雨昕”を恨んでいるはずの男が、今一歩を踏み込んだ。
残った左手で鵑の腕を引いて、今まで自分が立っていた男たちの前へと立たせる。
離れた席から注がれていた視線が、わずかに尖った。
蘆湾であれだけの猛威を振るった少女を、首領である男が無造作に引いたのだから、無理もない。
上質な絹の袖に隠した、右肩の傷が疼いた。
包帯に血が滲む気配はない。
傷の位置を知る李峻の目がわずかに細まり、一瞬だけ視線が呂塙の手へ落ちたが、鵑は痛みを顔に出さないように堪えた。
けれど、男たちに視線を向けられて、何を言うべきかという困惑は隠せなかった。
「私も頑張るから、宜しくお願い、します?」
「……。なんだ、こう……締まらねえな」
「そんなこと言われても……。あ、約束は守るから任せて!」
「……おう」
呆れたような呂塙に、鵑は不服そうに頬を膨らませた。
けれど男たちの方から、喉を鳴らすような軽い笑い声が聞こえて息を吐く。
鵑がそちらを向くと、趙宇が堪えきれずといった様子で笑っていた。
「いいじゃねぇか、お偉方に堅苦しい挨拶されるよか、俺はよっぽどやる気になる」
「お前な……」
「今まで散々、きったねえおっさんに従ってたんだ。こんな可愛らしい嬢ちゃんが宜しくって言うなら、俺は喜んでお嬢に付くね」
「……おい、趙宇」
趙宇がへらへらと笑って受け流すと、呂塙が唸るようにその名を呼んだ。
「おっと、今のはあれだ」と、思わずといった様子で、両手を胸の高さまで上げて呂塙に弁明する趙宇。
鵑は呆気に取られ――それから、こっそり笑った。
そんなやり取りに、他の面々も気が緩んだようだった。
未だに、呂塙が「お前もいい歳じゃねえか」と唸り、趙宇は「あんたよりは若ぇよ」とやり合ってるのを余所に、鵑は水賊の面々の中に、熊みたいな男――丁昌が居ない事実に一抹の不安が過った。
丁昌は重傷ではないはずだったが、けれど今この場にいないことに、安堵してしまう。
彼と対峙した時、鵑は真正面から彼を否定した。
あの男の目を、今はまっすぐ見返せる気はしなかった。
そんな中で不意に、気の緩みを見せない視線を感じた。
一番端、窓から川を見下ろせるその席に視線を向けると、証を運ぶ小舟の上で、青白い顔で死にかけていた男――馬耼と視線がぶつかった。
長い前髪に隠れた、水の底みたいに昏い気配。
恨みは感じないのに、沈んだまま揺らがない視線。
他の水賊たちからも距離を置いている馬耼に、鵑は思い出したように息を呑むと、歩揺が耳元で鳴るのも構わず小走りに近付いた。
そして誰かが止める間もなく、片手を伸ばして馬耼の頬に触れる。
「良かった、ちゃんと人の温度だ」
何気なくそう言って、安堵したように顔を綻ばせる鵑。
僅かに目を見開いた馬耼は、咄嗟にその手首を掴むが、その細さに戸惑い、迷うようにそっと下ろさせた。
それを見て、呂塙と戯れていたはずの趙宇が近付いてきて、馬耼の肩を組む。
「なんだよ、お前。さっきから熱心にお嬢のこと見詰めちゃって。さては惚れたな?」
「……そんなんじゃねえよ、あんたと一緒にすんな。助けられなきゃ、今頃ここに居なかったと思っただけだ」
馬耼が露骨に眉を寄せるのも構わず、茶化すように言って笑う趙宇。
「照れんなよ」と一人愉しげな趙宇が笑う陰で、馬耼が何か低く呟いた気がした。
けれど、その声は酒楼の喧騒に呑まれて消えていく。
あの時、凍える水へ三度も潜った馬耼の頬は、死人のように冷たかった。
だから鵑は「死んじゃ駄目」だと言った。
酒を浴びるほど飲ませると約束した以上、死なせるわけにはいかなかった。
「しかしお嬢も大胆だねぇ。あの状況で、盧承の裏帳簿だの帛書だの、俺とかこいつに渡すか?」
脛を蹴られて騒ぎながら、馬耼の肩から腕を外した趙宇が、今度は鵑へと向き直った。
「私が全部の物証を持っていたら、捕まった時に打つ手がないです。いくら朱澤様が根回ししてくれていても、盧侔様が心変わりしないとは限らなかったですし」
「それで、俺ら?」
「あなたたちは、逃げないと思ったので」
当然のことのように無邪気に答えた鵑に、趙宇は言葉を失い、一瞬だけ馬耼に視線を滑らせてから笑った。
「それはそれは」と小さく呟いて、趙宇は節くれ立った指で自分の前髪をかき上げ、わざとらしく姿勢を正してみせる。
「“鵑様”って呼んだ方がいい?」
「“様”なんて付けなくていいです。……なんか、むずむずする」
神妙な顔で眉を下げた鵑は、誤魔化すように「それよりも」と辺りを見回した。
「お酒、足りました?」
「お、そうそう。ありがてえよ、ホント」
隣の席に座った趙宇が、杯を煽る。
鵑に視線を向けられた周りの男たちもまた、次々に杯を掲げて頭を下げる。
先程、鵑を見付けて一斉に頭を下げたときよりも、内側から滲むような熱量を感じるのは気のせいだろうか。
酔いで気安くなった、というべきかもしれない。
「浴びるほど、飲めました?」
「……。まあ」
周囲よりも明らかに反応の薄い馬耼に水を向け、そんな素っ気ない返事からでも、あの時の約束が形になったことに安堵した。
もっとも、それを叶えたのは鵑ではなく、先回りした李峻なのだけれど。
鵑は胸を張ることもできず、まだ輪の内側には入りきれないまま、それでも彼らの輪の端に腰を下ろしていた。
やがて鵑が勧められるまま食事に手をつけ、腰帯のせいであまり食べられないと言いつつ、周囲が呆れるほど皿を空け始めた頃。
少し離れた卓では、李峻と呂塙が、杯を挟んで向かい合っていた。
「三年前、お前が許安になんぞ泣きついたせいで、散々な目に遭った」
「さて、何のことやら。私はただ、助けを求めただけです」
穏やかに返す李峻の前で、呂塙は腹をさすった。
その二人もまた、因縁を腹に押し込めながら、過去を一度脇へ置こうとしていた。
呂塙は杯を傾けながら、小悪党めいた顔つきの奥にある鋭さを、ゆっくりと瞼の下へと隠した。
――――
翌朝、鵑は呼び出され政庁正堂を訪れた。
“偉い人”の卓というのは、竹簡の山ができるのはどこでも同じらしい。
山に囲まれた陳宜が忙しなく目を走らせ、要所に目を通した沈烔堅が封泥に印を捺していく。
「なんだ、もう髪は上げんのか」
いつも通り――低い位置で髪を一つに結った鵑の姿を一度だけ視界に入れ、沈烔堅はそう言って「昨日は、なかなか様になっていたぞ」と軽く笑った。
鵑は昨日の、李夫人たちとの逃走劇の末に、少し高い位置で結い上げられて彩りを添えられた髪型を思い出す。
銀の簪は重く、歩揺はうるさい。
二度とごめんだと思いながら、沈烔堅の合図に拱手を下ろして「もうイヤです」と思わず口走る。
「ははっ。また機会はある。慣れることだ」
そう言うと、それまで手元を見ながら話していた沈烔堅は顔を上げた。
「さて、李仲岳から聞いているとは思うが、お前には水賊……新しく水軍預かりになった者どもの差配を任せる。適宜、州牧府から任を出すが、まずは、あ奴らの手綱を握れ」
「はい」
頭を下げて拝命を受け止める鵑に、沈烔堅は頷く。
元水賊である彼らが鵑の指揮下に置かれるということは、これから彼らが何かを仕出かせば、まずは鵑の失態が問われるということだ。
さらには、自分を推した李峻や、水賊の登用に関わった沈司朗にも迷惑がかかる。
その事実に、鵑は唇を真一文字に引き結んだ。
「それから」
そんな鵑に、沈烔堅は思い出したように立ち上がり、近付いてくる。
鵑が首をわずかに傾げると、自身の首に下げていた――組紐に何かの牙が付いた首飾りを外し、鵑へと差し出した。
「俺が若い頃に狩った大虎の牙だ。土地の者は“仙虎”などと呼んでいたがな。俺にとっての魔除けのようなものだが……お前にこれをやろう」
「え……? い、頂けません、そんな大切な思い出の品!」
慌てた鵑に、けれど沈烔堅は笑みを浮かべると、するりと組紐を鵑の首に掛けてしまう。
そうされては無碍に外すことも出来ず、鵑は狼狽えて沈烔堅を見上げた。
「お前は既に他を圧倒するほどの武人だ。それは認める。……だが、まだ幼い。今はまだ、神話になるな」
「……神話」
思わず繰り返したその単語は、鵑のこれまで――羅雨昕には、誰にとなく望まれたものだった気がする。
置いてきた過去に、いつの間にか自ら戻ろうとしていたことを咎められたように感じた。
しかし沈烔堅の眼差しはどこか穏やかで、鵑をただ一人の少女として案じる温かみがある。
許安にも、自分を人として見てくれる者はいた。
けれど、この水の都市はどうも、懐が深い。
組紐の先に結ばれた、飴色の牙をそっと手に取って見る。
元はもっと白かったのかもしれない。
よく見れば細かい流水の紋様が彫られていて、この都市を象徴しているようだ。
「ありがとう、ございます。大切に、します」
「……お前は可愛げがあるな。渡しておいて何だが、うちの娘たちなら、やれ紅が良いだ好みじゃないだ何だとうるさいところだ」
牙から沈烔堅へ視線を向けると、どこか遠くを見るような目で呆れたように息を吐いた。
鵑はまだ見ぬ姫君たちを思い浮かべる。
まだ、何の噂を聞いた覚えもない。
きっとその“うるさい”理由は、甘やかされずとも愛されている娘たちだからこその、健やかな我が儘なのだろう。
「それに、司朗もまだまだ青い。あいつに感化されて一緒になって熱くなってくれるなよ。むしろお前には、またあいつを殴ってでも止めてもらわねば困る」
「え、あっ……あは、は……」
沈烔堅の言葉に、沈司朗の顔面を殴った日のことが脳裏をよぎる。
後ろめたさに鵑の口元が引きつるのを咎めるでもなく、沈烔堅はどこまで本気なのか、「あれは良い拳だった」とにやりと笑った。
次いで沈烔堅は、陳宜が纏めていた簡牘を示した。
そこに積まれていたのは、水軍要略の竹簡、水鏡周辺の水路図、舟隊の合図を記した木牘、過去の河賊討伐記録、水門操作と河港警備の式目――中には、以前沈司朗たちと見た記録に似たものもある。
「それから、これはお前に預ける。水軍は貴重な戦力だ。期待しているぞ」
並ぶ簡牘を前に、子供に手を焼く父から、一瞬で州牧の顔に戻った沈烔堅に倣い、鵑もまた気を引き締める。
首元で、虎の牙が小さく揺れる。
鵑はその重みを一度だけ指で確かめ、積まれた簡牘へと向き直るのだった。
働きたくない!
働きたくないでござる!!!




