1-28『宴』
深い藍の深衣には、白銀の雲紋と波紋の刺繍。
その袖は、武人である鵑の気性を考慮して幾分か狭めに仕立てられており、細い腰は幅広の革の腰帯で形よく締められ、その分だけ身動きの自由を奪われていた。
鵑の白く柔らかな髪には香が移され、いつもより高い位置で結い上げられている。
青玉や水晶をあしらった銀の簪と、動くたびに揺れる歩揺が、白い髪へ華やかな彩りを添えていた。
重い。苦しい。動きにくい。頭の後ろでしゃらしゃらとうるさい。
朝から散々逃げ回って駄々を捏ねたが、沈司朗と朱澤、そして李峻の夫人――李夫人に捕まったのが最後だった。
こんなことになっているのは、昨日、薬湯を飲み干した後に朱澤に連れられ、目覚めの挨拶に赴いたのが発端だった。
そこで鵑の回復を知った沈烔堅が、「河川平定と功を労う」として、宴を翌日に催すと正式に布告したからだ。
実のところ、準備そのものは鵑が帰還した時から密かに進められていたのだという。
州牧府が待っていたのは、ただ一つ――宴の主役たる少女が、目を覚ます報せだけだったのだ。
ただの宴ではない。
水賊は平定され、宦官と結んだ不正は封じられ、豪族たちにも州牧府の目が届いている。
それを周囲に知らしめるための、政治の場でもあった。
それを沈司朗から聞いた時、鵑は病み上がりとは思えない早さで逃げ出そうとしたのだが、結果は見ての通りであった。
李夫人は、沈司朗と朱澤によって確保された鵑を見るなり、「まあ、お元気になられたのですね」と微笑んだ。
そして、決して強くはない――むしろ、少しでも力を入れれば振り払えてしまいそうなほど柔らかな手で鵑を引き、沐浴から着替え、髪結いまでの一切の指示を侍女たちに出したのだ。
途中、澄と汀が部屋を覗き込んできて、その瞳を輝かせて鵑を見ていた。
「鵑お姉ちゃん、天女様みたい!」
そんな汀の言葉に曖昧に笑って礼を述べ、手を振ると、幼い姉妹は大喜びした。
幼い姉妹が乳母に連れていかれるのを見送り、再び逃走を企てて視線を走らせるのだが、その度に何故か李夫人と目が合う。
李夫人はただ柔らかく微笑んで、「どちらへ?」と穏やかに問うばかり。
そうなればもう何も言い返せず、鵑はついに逃げられないことを悟った。
観念して、病み上がりの顔に白粉を叩かれ、薄く紅を挿されるのを大人しく受け入れるしかなかった。
夕刻に差し掛かると、正装に身を包んだ李峻に連れられ、宴席の開かれる楼閣へと向かうことになった。
出発の間際、李峻から返してもらったばかりの棍をお守り代わりに持って行こうと手を伸ばしたが、背後からの、李夫人の穏やかで有無を言わせぬ視線に引き留められて諦めた。
代わりに、師から授かったあの笄だけは、どうにかこっそりと懐へ忍ばせる。
「色味が合いませんから、簪をそれ以上増やしてはいけませんよ」
見送りの門口で手を振る李夫人に、ぴしゃりと釘を刺された。
懐の中の笄を見透かされたのだと、鵑はひやりと背筋を凍らせる。――多分、自分は一生あの人には勝てないだろう。
これ以上見咎められないよう、鵑は李峻の背に隠れながら、胸元の合わせに隠した笄が見えないよう、襟を正した。
あまり大規模な宴ではないと聞いていたが、楼閣に足を踏み入れると、そこには既に官吏や武官、有力な豪族関係者に大商人まで、錚々たる顔ぶれが並んでいた。
きらびやかな衣装を纏った沈司朗や朱澤が、早くも大人たちに囲まれているのが遠目に見える。
その熱気と視線の群れに気圧されそうになった瞬間、人混みの中でもひときわ目立つ巨躯の翁と目が合った。――皇甫植だ。
相変わらず矍鑠とした佇まいの老将は、周囲の目を気にする風もなく、大股でこちらへと近付いてくる。
鵑が慌てて拱手の礼を取ろうとすると、皇甫植は大きな片手でそれを制し、感心したように口を開いた。
「ほう。泥鼠がようやく人の子に見えるな」
「泥鼠の方が動きやすかったです」
鵑の辟易とした態度と答えに、「違いない」と皇甫植は豪快に笑った。
だが、笑い終えると同時にその鋭い目を細める。
「顔色は白粉でも隠せんな」
「……これ以上、泥鼠に戻ったら怒られてしまいます」
「ははは! いや、今はそれでよい。飾るだけの娘など、ここに置く意味はないからのう。この場の有象無象どもに見せてやれ。州牧府が拾い上げたのは、決して“飾り物”ではないとな」
ではな、と短く言い捨てると、さっさと己の席へと向かっていく皇甫植。
自分はそこまで呑気に構えていられる立場ではないと分かってはいたけれど、彼の背中を見送るうちに、わずかに胸の靄が晴れた気がした。
しかし、先ほどから周囲の視線が肌に刺さる。
似たような目を向けられたことは、これまでもあったはずだ。
けれど、よくよく考えれば、かつては常に隣に師がいた。
あの鬼才とまで謳われる軍師が手を引く子供に、これほど堂々と値踏みの目を向けられる者など、あの頃は誰もいなかった。
つくづく、自分は黎景に守られていたのだと、今更ながらに思い知らされる。
知らず知らずのうちに、指は衣の合わせの上から、隠した笄の感触をなぞっていた。
けれど、今ここにいない師の助けを求めても仕方がない。
鵑はすっと背筋を伸ばし、怯えを心の奥底へ呑み込むと、真っ直ぐに前を見据えた。
白い髪や菖蒲色の瞳を、その小さな体格を、そして性別をなじる声など、今さら足を止める理由にはならない。
値踏みする視線を気にするよりも、今は李峻のいう礼法を確認する方が、よほど実がある。
通された席は、沈司朗との距離こそ少し離れているものの、隣には推薦者である李峻が控えてくれている。
向かい側には朱澤や、先ほど言葉を交わした皇甫植、そして蒙克といった顔見知りの姿も見え、存外、この水鏡での暮らしの中で関わった人物が多いことに、どこか他人事のように感心してしまう。
そうして席の様子を眺めているところへ、正装に身を包んだ沈烔堅が現れ、一同が立ち上がって拱手し、深く頭を下げた。
沈烔堅の着席を待って、それに続く。
陳宜が開宴の辞を述べるのを耳にしながら、鵑はただ姿勢を正して前を見据えていた。
沈烔堅が杯を上げると、全員がそれに応じる。
鵑も倣って杯を取ったが、「酒は飲むな」ときつく師から言い付けられていたことを、ここでも思い出した。
杯の酒で唇を濡らすだけに留め、袖に隠した絹の手巾でそっと拭う。
不意に視界の端で、朱澤が肩を震わせているのが見えた。
鵑の小細工を見抜いて、馬鹿にしているのだろう。
後でまた叩いてやると心に決めながら、鵑はそ知らぬふりを装った。
宴の始まりからしてぎこちない鵑であったが、隣からそれとなく出される李峻の助け船に幾度も救われながら、宴は滞りなく進められていく。
沈烔堅が「楽にしてくれ」と食事を促して箸を持ち上げると、ようやく四方から衣の擦れる音がして食事が始まった。
それまで鵑は、目の前に置かれた蜜餞に何度も視線を奪われていた。
だが、勝手に手を出してはいけないことくらいは分かっている。
腹の虫が鳴るのを押し殺しながら、ひたすら堪えていたのだ。
ようやく食事にありつけるとわずかに心を弾ませるが、鵑はまさに一挙手一投足を見られている。
食事の作法一つ取っても侮るなと習い、さらに師からの「迷ったら隣に倣え」という教えに従って、ちらりと李峻を見る。
甘い蜜餞へ伸びかけた手をどうにか押し留め、李峻が手にした羹の椀と同じものを、静かに取り上げるのだった。
不意に、上座の沈烔堅から真っ直ぐな視線が向けられ、鵑は小さく頷き返した。
いよいよ“州牧の意思表示”として、この場に集う者たちの前で己の名が呼ばれるのだ。
沈烔堅が全体に向けて声を掛けると、それまで室内を満たしていた琴や笛の音がぴたりと止められ、歓談のざわめきも、示し合わせたように静まり返った。
主簿である陳宜が、その毅然とした声で功績の数々を読み上げ、促されるようにして、沈烔堅が鵑の名を呼ぶ。
言われるまま、鵑は静かに席を立ち、拱手して深く頭を下げた。
沈烔堅の口から語られたのは、鵑が水賊を平定して物証を奪取し、遠く江杈へと急行して盧承の不正を暴いたという、簡潔ながらも重みのある事実だった。
武官たちの視線が、まず鵑へ集まる。
小柄な体、白い髪、宴席に不慣れな固い姿勢。
そのどれもが、一見すれば戦場の中心に立つ者とは思えない。
だが、水賊を追い詰め、江杈まで走り、物証を持ち帰ったという事実だけは、衣の華やかさでは隠せなかった。
次いで、豪族たちの間に低いざわめきが走った。
盧承の名が出た瞬間、笑みを薄くした者がいる。
杯を置いた者がいる。
隣席へ目配せを送った者もいた。
それは一人の若者の失脚を惜しむ空気ではない。
州牧府が、彼らの懐の奥まで手を伸ばせるのだと知った者たちの、湿った警戒だった。
商人たちは、むしろ静かだった。
ただ目だけが忙しく動き、どの水路が開き、どの取引が閉じ、次に誰の影が濃くなるのかを、音もなく量っている。
その沈黙の中で、李峻だけがいつも通りの穏やかな顔で杯を置いていた。
鵑はそのすべての視線を受けながら、ただ深く頭を下げていた。
「謹んで、お受けいたします」
鵑がそう答えると、沈烔堅は満足げに軽く手を下げた。
その仕草を合図に、静かに席へと戻る。
わずかに遅れて、止まっていた楽の音と歓談の波が、堰を切ったように再び流れ始めた。
今日一番の大舞台を無事に終え、鵑は胸の中で、ようやくまともな息を吐けた気がした。
安堵のまま、ちらりと少し離れた席にいる沈司朗を見た。
彼は特に言葉を発することはなかったが、目が合うと、わずかに一度だけ頷いてみせた。
ならば、あれで合格点だったのだろう。
鵑は無意識にそっと笄に触れ、胸を撫で下ろす。
張り詰めた緊張が解けた耳に、心なしか下座の夫人たちの囁きが聞こえた気がした。
それが称賛なのか、値踏みなのかまでは、聞き取れなかった。
そこから先、誰と何を話し、どんな嫌味を言われたのか、鵑はもう覚えていない。
せっかく最後にありつけた蜜餞も、緊張のせいで味などほとんど分からなかった。
やがて卓の上の皿も空が目立つようになり、宴も終わりに近づいた頃、沈烔堅が再び杯を取った。
それだけで、広間のざわめきがぴたりと静まる。
「今宵はここまでとしよう。皆、よく労を尽くしてくれた」
一同が杯を掲げ、短い礼とともに宴はお開きとなった。
李峻が立つのに続き、楼閣を抜ける通路を歩いていると、後ろから声が掛かった。
よく通る声の主は沈司朗で、その隣には朱澤も並んで手を振っていた。
「熱は?」
「先生の苦い薬湯のおかげで下がりました」
「そうか。……なら、傷は?」
「……。もう塞がりましたってば」
この会話を交わすのは、朝から数えて都合四度目だ。
今朝、この様子を見た李夫人からはにこやかに「心配されているのね」などと言われたが、真偽は分からない。
ただただ、しつこいなと思うくらいは許されるだろう。
「浩然、お前、今日こいつにそれしか言ってないぞ」
朱澤でさえ気になったのか、少し呆れたようにそう言った。
「そうか」とだけ返した沈司朗は、何かを続けようと口を開き――けれど、すぐにそれを真一文字に引き締めた。
「熱は下がりましたし、傷も塞がりました。本当に大丈夫です」
「そうか。……無理は、してないか」
ようやく、沈司朗からただの生存確認ではない言葉を聞いた気がした。
わずかに気まずそうに視線を逸らしたのを見て、彼が今日ずっと、その一言こそ確かめたかったのだと気付いた。
考えてみれば、呂塙との戦闘後と沈烔堅への報告後の二度、沈司朗の前で自分は倒れてしまったのだ。
最初の出会いは最悪な値踏みの視線と、鵑の八つ当たりじみた殴り合いだった。
けれど、彼が鵑を信じて、手を貸してくれたからこそ、自分は今この場に立っていられる。
「沈司朗様」
ここから先は、己の夢を追うだけでなく、彼らを、この水鏡を支えることもまた、自分の務めなのだ。
もう二度とこの人に、倒れる自分を抱えさせてはいけないのだと、心に深く誓う。
「もう、無理をして倒れたりなんかしません。――約束です」
そう言って、そっと差し出したのは右手の小指だった。
怪訝そうに首を傾げた沈司朗の手を無理やり取って、互いの右手の小指をからめる。
同じ右手だというのに、指の長さも、太さも、肌の硬さも全然違っていた。
「なんの真似だ?」
「私もよく知りません。どこかで見たんです」
いつだかの旅の途中、どこかの市井で見た。
名も知らぬ子供たちが約束を交わす時にしていた、頼りない契りの形。
そこにどんな意味があるのかなんて知らないけれど、今は言葉ではない“確かな約束”を示す何かが欲しかっただけなのだから、これで十分だった。
李峻の咳払いに、鵑は慌てて手を離した。
まだやることがあるらしいのだから、のんびりはしていられない。
戸惑うように小指を見ていた沈司朗に、「先を急ぎますので」と拱手して、早足に背を向けた。
少しして、背後の騒がしい気配に視線だけを振り返る。
案の定、朱澤が何かを言ってからかったのだろう、沈司朗が鬱陶しそうにそれをあしらうのが見えた。
不敬にも朱澤を叩き据えるという決意を実行しそびれたけれど、きっと沈司朗が代わりにやってくれるに違いない。
こっそり笑いながら、鵑は李峻の背を追って歩いていった。
そうして李峻に連れて来られたのは、城郭から程近い、庶民過ぎず高級過ぎない、瀟洒な酒楼だった。
閉め切られた格子戸の向こうから、かなりの賑わいと活気が外まで漏れ聞こえてくる。
李峻が入口の扉を開き、内へ入るよう鵑を手招いた。
すれ違う給仕たちの活気ある声を聞きながら、李峻の後に続いて階段を上がり、二階へと進む。
「さて。大仕事だぞ、鵑殿」
そう言って少し意地悪く笑う大商人に、これ以上に何が待っているのだと、鵑は小さく息を吐く。
開け放たれる扉の向こうに満ちる熱気を前に、鵑は隠した笄をそっとなぞる。
どうやら今夜は、まだ終わらないらしい。
誤字脱字チェックなど、サポートしてくれてたジェミニが何を言ってもエラー吐くようになってしまった。
また新しいチャット立ち上げねば。




